【本】古谷実「ヒミズ」感想・レビュー・解説
『お前は今”病気”だ。…お前には腐るほど道があるのに、勝手に自分を追い込んでる…。周りが見えなくなって…一番ヤバそうな道を自ら選んでる』
『君は今、自分で決めたルールにがんじがらめになっているだけだよ…他人から見ると良くわかるの…』
ンなことは分かっとるっちゅうねん、という感じだ。
住田は、自分の世界に篭って、そこで自分なりのルールに支配されている。
そうしないと、自分の心がもたないからだ。現実に押しつぶされてしまうからだ。
住田が生きる現実は、別にそう辛いものではない。初めの内は。確かに、クソみたいな家庭で育ったわけだが、その環境自体がそこまでしんどいというわけではないだろうと思う。
『「ねぇ…何かないの?…有名になりたいとか、お金持ちになりたいとか…若者らしいフレッシュなやつは」
「ないね。オレはモグラのようにひっそりと暮らすんだ」』
住田の夢は、「一生普通に暮らすこと」だ。「普通最高」だ。自分に、超絶的な不幸が訪れることも、超絶的な幸運がやってくることもあるはずがない。だから、普通を目指す。中学生である住田の、それが将来の夢だ。
『オレは勝負しない…
夢というリングに上るどころか見もしない。
だから殴られる心配もない…
オレの願いはただひとつ…
オレは一生誰にも迷惑をかけないと誓う!!
だから頼む!誰もオレに迷惑をかけるな!!!』
住田の生き方は、自分勝手だ。自分のことしか考えていない。あらゆる場面で、影のように、目立たず、ひっそりと生きていく。凄い良いことが起こらない代わりに、凄い悪いことも起こって欲しくない。自分がそうやって、とりあえず平板に生きていければ、それでいい。
僕にはそれが、凄くよくわかる。
住田は既に、自分が人生をどうにか乗り切るだけの気力がないことを悟っている。別に、それにはっきりとした理由があるわけじゃない。漠然とした絶望だ。原因がはっきりしているなら、例えば、家庭環境にそのすべての原因があるのなら、原因をぶっ叩けばどうにかなる。でも、住田の抱えている絶望は、そういうものではない。目に見えないものだ。言葉に出来ないものだ。誰かに伝えられないものだ。
そんな「漠然とした絶望」の象徴として登場するのが、住田の周囲に時々現れる「謎の怪物」だ。住田の視界には時々、その謎の怪物が入ってくる。住田にも、その正体は理解できない。しかし、その謎の怪物が視界に入る度に、住田の心は荒れる。
「漠然とした絶望」ほど、厄介なものはない。それは、殴ったり、罵倒できたりするための実体を持たない。しかし、どこかから自分の内側へと侵入してくる。その侵入を食い止めることは、とても難しい。
「漠然とした絶望」に取り憑かれると、そこから抜け出すことはなかなか難しい。実体を持たないものに対処することは、とても難しいのだ。自分の内側のどこにいるのかさえ分からないし、分かったところで追い出す手立てはない。
だからこそ、住田は、その「漠然とした絶望」を「手触りのある絶望」に変換しようとする。そして「手触りのある絶望」を増幅させることで、「漠然とした絶望」を駆逐しようとするのだ。
本書では、その瞬間は、あっさりと描かれる。
ある瞬間以降、住田は「漠然とした絶望」から一時的に解放され、「手触りのある絶望」に支配されることになる。正確には覚えていないけど、その間、「謎の怪物」は現れていないように思う。住田の心の中で、「手触りのある絶望」が優っていたからだろう。そう、住田は、「漠然とした絶望」による支配に負けて、それを駆逐するために「手触りのある絶望」を自ら引き寄せる。
しかしそれは、借金を借金で返すようなものでしかない。薬物の依存症を薬物を摂取することで抑えるようなものでしかない。一時は確かに、住田の心は立ち直ったかに見えた。自分でルールを作り出し、「手触りのある絶望」をコントロールしているという自覚を持ちながら日々を生きる住田は、それまでより「強く」生きられるようになった。
しかし、やはりそれは錯覚でしかない。「手触りのある絶望」の効力は次第に切れ、抑え込んだはずの「漠然とした絶望」がまた顔を出す。
「謎の怪物」もまた、住田の前に姿を現す。
「漠然とした絶望」に支配されていると、周囲にいる「良い人」の存在が辛くなっていく。「自分はこんなにクソ野郎なのに、どうしてこの人は俺に関わってくれるんだ?」という、謎の思考回路が自分を苦しめることになる。
別に相手は、俺のことをそこまで「クソ野郎」だとは思っていないだけの話だ。でも、なかなかそう考えることは難しい。「あの人は、まだ俺のクソ野郎っぷりに気づいていないだけだ。だから、それに気づかない内に去ってもらうか、あるいはどうにか無理矢理それに気づかせて去ってもらうかしかない」というわけのわからない思考に落ち込むのだ。
正直、茶沢さんの存在は謎だ。
同学年で、どうやら住田のことが好きらしい茶沢さんは、事あるごとに住田の元を訪れ、相当ムチャクチャな目に遭うのに、それでも住田と関わるのを止めない。
何故だ。
僕には、茶沢さんのあり方は、なかなか理解できない。それは、住田と同じような思考回路だからだろう。住田も、結局最後まで、茶沢さんのことが理解できなかったはずだ。何でこの人は、ここまでして俺のために何かしてくれるんだ?と、最後の最後まで理解できなかったはずだ。
きっと、茶沢さんのことを理解できる人も、世の中にはいるのだろう。
誰かに理解してもらうためには、まず自分から誰かのことを理解しようとしなくてはいけない。僕はそんな風に思っている。茶沢さんは、徹底的に住田のことを理解しようとした。それは、茶沢さんが住田から理解されたかったということなのか?いや、そうではないような気がする。一方で住田は、誰かから究極的に理解されたかったのだと思う。この絶望を、自分の決断を、今の行動を、言葉さえなくても瞬時に理解できる人を求めていたのだと思う。しかし住田は、誰かのことを理解しようとはしなかった。住田の視線は、自分自身にしか向いていなかった。
そんな住田が、何故茶沢さんの心を捉えたのか。
本書には、「緩やかなクソ野郎」が山ほど登場する。絶対的な悪人ではない。とはいえ、善人でもない。僕が読んでいるのは上下巻の新装版だけど、その巻末に、本作を映画化した園子温の文章が載っている。そこに、こう書かれている。
『強く印象に残ったのは、気持ち悪い人間がいっぱい出てくることです。だれでも気持ち悪い人に会ったことはあるはずで、そのs記憶を思い出させられるんですよ、読んでいて。変態の性犯罪者なのに、やたらと説教ばかりしていい人ぶるとかね。そういう単純に悪と言えない、でも、すごくだらしない人間の描き方がリアルなんです。中途半端なワルが出てきて、自分も一歩間違えればこうした人間になってしまったかも知れないと思わせられる。』
まさにその通りだ。ざわざわする。人は誰かに、出来るだけ自分の良い面だけ見て欲しいと思っている。だから、普通に生きていると、あまり人の悪いところは目に入らない。
でも、どんなに表面的に良い人でも、その裏側にどんな自分を隠し持っているのか、それは絶対に分からない。本書ではそうした、表向き良さげな人なんだけど、実はどうしようもない人間、というのがたくさん出てくる。「もしかしたら、自分もこうなっていたかも」という恐怖は、誰しもが持つのではないかと思う。
そういう中で茶沢さんは、本書の中で出てくる、数限りない「真っ当な人間」だ。いや、まあ茶沢さんにしても、正直「真っ当」ではないんだけど、とはいえ、底辺にいる人間ばかりいる世界が描かれ、基本的にそこをベースにして生きている住田からすれば、茶沢さんの真っ当さは眩しいほどではないかと思う。
住田の世界と、茶沢さんの世界は、本質的に交じり合わない。交差もせず、かといって平行なわけでもなく、ねじれの位置にある。どんな意味でも関わりあいがない関係。それでも、茶沢さんの「良い意味での真っ当じゃなさ」が、住田との限りなく細い関係性を持続させていくことになる。僕には茶沢さんの行動原理は理解できないけど、住田と茶沢さんの関係性は、なんとなく羨ましいし、奇跡的だなと思う。住田はその奇跡には、気づきたくないみたいだけど。
僕自身の内側に、何か引っかき傷を残すような、そんな作品だった。どうにもならないことに、僕には住田の気持ちが理解できてしまう。どれほどアホみたいな理由でも、どれほどクソみたいな行動原理でも、住田の内側に巣食う感覚が見えてしまうような気がする。「漠然とした絶望」に絡め取られた人間は、どう生きるべきだろうか?僕には、「謎の怪物」は見えないけどね。