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【本】水谷修「夜回り先生」感想・レビュー・解説

声ってどこまで届くんだろう?
想いってどこまで繋がるんだろう?

『受け止めてくれる誰かがいる』

そう思えるだけでも僕らは安心できる。
僕たちの言葉はどこに消えてしまうの?
僕たちの想いはどこで途切れてしまうの?
そんな心配しないでも済む。

『いいんだよ』

そう言ってくれる誰かがいるっていうこと。

『昨日までのことは、全部いいんだよ』

そう受け止めてくれる人。

『でも死ぬのだけはダメだよ』

そう強く言ってくれる人。
孤独で辛い若者たちが本当に求めているものは、どこへ行っても少ない。
孤独で辛い若者たちが本当に求めているものは、簡単に失われてしまう。
生きていることに疲れちゃうよ。
立っていることに飽きてきちゃうよ。
息を吸うだけで悲しくなっちゃうよ。

苦しいけど、誰も助けてくれないんだ…。
手を伸ばしても、誰も掴んでくれないんだ…。

水谷修。
苦しんで苦しんで、どうにもならなくなってしまった若者を、
もがいてもがいて、それでもなんとか生きようとしている若者を、
彼は助けようとする。
手を差し伸べようとする。

『いいんだよ』

そう言って。

『まずは今日から、水谷と一緒に考えよう』

そう言って。
若者の苦しみを、
現代の闇を、
その背中に背負っている教師がいる。
夜回り先生。
水谷修。

『日本で最も死に近い教師』

警察が水谷につけた呼び名だ。水谷は、暴走族の集会でも、暴力団の事務所でも、一人で乗り込んでいく。そんな無茶苦茶なやり方からついた呼び名だ。
実際、何度も危ない状況に遭っていることだろう。
その一つがこれだ。

『落とし前は、私の利き腕の指一本だった。』

水谷は、見ず知らずの若者のために、指を一本失った。

『それを思えば指一本、なかなか痛かったが、安い買い物だった。』

指一本失って、こんな言葉を口にすることができるだろうか?そもそも、自分とは関係ない誰かのために、指を失うことが出来るだろうか?

『どんなケースでもそうだ。話を突き詰めれば、子どもが悪かったためしはなく、必ず大人に原因がある。』

水谷は、まず話し合う。真正面から。嘘偽りなく。相手と向き合おうとする。


そもそも、今の若者と、正しい距離をとって向き合える大人が、どれほどいるだろうか?


親は近すぎるし、親以外の大人は遠すぎる。誰もが、若者との『ちゃんとした距離』に立つことができていない。だからこそ、話し合えば解決できることが解決できなくなってしまう。


関係ないが、イギリスの議会の話を思い出した。イギリスは確か二大政党制で、その両政党が議会に向き合って座る。その両政党の距離が、どういう基準で決められたか、という話を思い出した。


剣の届かない距離。


昔は議員と言えども剣を持っていた。お互いに、剣の届く距離にいては、話し合いをすべき議会で暴力が行われることになってしまう。だから両政党の距離は、剣の届かない距離に定められたのだ、という話だ。
大人と若者も同じようなものかもしれない。近すぎると、お互い持っている剣が触れ合ってしまう。かといって遠すぎると話し合いにならない。大人と若者が取るべき距離というのが、必ずある。


水谷は、それをちゃんと知っている。


だからこそ、若者と向き合って、話し合うことができる。

『(前略)ビルの谷間でしゃがみこんで泣いている少女を見つけた。少女はおぼえていた。声をかけると、ビルのすき間にもぐりこんでしまった。
仕方がないので、私は自分の話をした。(中略)一体どれくらい喋りつづけただろうか。朝日がのぼる頃になってようやく、少女はビルのすき間から出てきてくれた。』


こういう少女を見つけた時の大人の対処は、気付かぬふりをして立ち去るか、ビルのすき間に入っていって無理矢理連れ出すかのどちらかでしかないだろう。しかし、水谷は若者との距離の取り方を知っている。近づくことはできないが見捨てることもできない。だから話し続ける。


もちろん、そんなことわかっているという人はいるかもしれない。自分の話をし続ければ、きっといつか出てきてくれるだろうと、そんなことはわかっている、と。でも、わかっていてもどうしようもない。やるか、やらないか。水谷はやるのだ。だから、すごい。

『でも、自分でやめようと思ってもやめられなかった。私は苦しんだ。いじめもリストカットもひきこもりもみんなそうだ。失われた愛情が、再び誰かによって満たされるまで、その行為は止められない。一人の力ではどうしようもないのだ。』

水谷も、子どもの頃いじめをしていた。母の愛に飢えた結果だ。止めようと何度も思い、布団の中で毎日泣いていたのも関わらず、それでも止められなかった。そう、水谷は振り返る。


僕も、ひきこもりだったことがある。本作に出てくる人と比べれば、比べることも申し訳ないくらいのものだったけど、でもその当時の僕としては、すごい困難な時間だった。


毎日、こんな生活は止めなければ、こんな生活をいつまでも続けられるわけがない、と思っていた。どこかで止めなくては、と。でも、簡単には止められなかった。ひきこもりであるということを止められなかった。


一時、本当に死のうとも考えた。屋上の縁に立ち、目を瞑って片足立ちをしたところまではいけた。あとほんの僅か体重が前に掛かったら落ちる、そんな状況まではいけた。


でも、死ぬことはできなかった。


精神状態が落ち込んでいるから、死ねないことに対しても落ち込んでしまう。僕は、死ぬことも出来ないダメな人間なんだ、と。死ぬこともできないなんて、と。


でも、僕は必死で考えたのだ。死ぬことができないと落ち込んでいるだけではなく、何で死ねないんだろうと一生懸命考えた。


僕なりに答えは出せた。


友達に二度と会えないのは嫌だな、とそう思ったのだ。


親のことはなんとも思わないし、将来に何か希望があるわけでもない。夢もなければやりたいことも特にない。本当に何にもなかったけど、でもすごくいい友達がいた。死んじゃったら、彼らには二度と会えないんだよな、とそう考えた。


結局、友達がいなかったら僕はダメだっただろうと思う。ひきこもった僕を心配してくれ、ひきこもって復帰した僕を優しく迎え入れてくれ、何でもなかったかのように接してくれる友達がいなければ、そうして、きっとそういう風に接してくれるだろうなという期待を僕が抱くことができなければ、僕はダメだっただろうな、と思う。


僕には、あまり多くのことは語らなかったけど、でも僕のことを受け止めてくれる人がいた。本当に、感謝しています。まあ直接は言わないけど。

『彼らは非行に走るが、非行に走りたくて走るんじゃない。
望んでもいないのに孤独を強いられ、その孤独に耐える方法を知らないだけだ。』

孤独。
これは、怖い。


孤独になんて、本当に耐えられる人なんているんだろうか?僕には信じられない。


孤独を強いられる。
大人にそれを強いられる。
そんな若者が溢れている。


大人が全部悪いわけじゃないかもしれない。もちろん、若者の方だって悪いのかもしれない。でも、水谷はこういっている。

『私は絶対に生徒を叱ることができない。
なぜなら子どもたちはみんな「花の種」だと考えているからだ。
(中略)
もし花を咲かせることなく、しぼんだり枯れたりする子どもがいれば、それはまぎれもなく大人のせいであり、子どもはその被害者だ。』

若者は、大人が悪いと叫ぶ。
大人は、そんな若者を、甘えているという。
でも、甘えて何が悪いんだろう。だって、僕らを生んだのは、僕らを勝手に生んだのは、あなたたちじゃないんですか?

『この世に生まれたくて、生まれる人間はいない。
私たちは、暴力的に投げ出されるようにこの世に誕生する。』

そうやって、僕らの意思とは関係なく生んでおいて、甘えるななんて言われたって、どうしていいかわからないじゃないか…。


ちゃんと生きるって、実はすごく難しいことなんだ。出来る人は簡単に出来てしまうかもしれない。でもそれは、恵まれているだけなんだ。生まれた時から恵まれているんだ。


僕だって、本作に出てくる少年少女と比べたら、生まれつき恵まれている部類に入るだろう、間違いなく。


そうじゃない、生まれた時から苦痛に満ち溢れた人だって沢山いる。社会は、人々は、それを見ないふりをして、ないかのように扱おうとする。見えないし、存在しない。そうやって、やり過ごしている。


僕だって、きっとそうだ。


でも、水谷はまっすぐにそれを見据える。誰もが見ないようにしてきたものに、じっと視線を向ける。


ただ、若者と仲良くなりたいという、ただそれだけのために。

『結婚式にはきっと呼ばれるだろう。でも私は出席しない。
彼女にとって一番悲しい過去を思い出させてしまうだろうから。』

水谷に返ってくる見返りは、本当に少ない。日々、失うものの方が多い生活をしている。それでも水谷は、若者に声を掛け続ける。若者と仲良くなりたい、その一心で。

『「あんた変わってるよ。教師にしとくのはもったいない」』

ある件で関わった暴走族のリーダーに言われた言葉。きっと水谷は嬉しかったことだろう。若者が水谷に助けられて嬉しいように、水谷も若者に認められてきっと嬉しいはずだ。そうでなければ、こんな生活、続けていけないだろう。


本作の感想の場合、僕の言葉よりも、著者の言葉の方がより響くだろうと思って、作中から抜き出す形で、著者の言葉を多く紹介することにしました。というわけで、こんな感じの文章になりました。これ以降は、もう少し説明的な感じでいこうかな、と。


まずは著者の紹介から。


著者自身の生い立ちも本作の中で軽く触れられているので詳しくは書かないことにします。著者は、初めは擁護学校で教え、次に進学率の高い高校で教鞭をとっていました。しかしあるきっかけから、夜間学校の教師になることに決め、以来、夜の街を歩いては若者と接する、『夜回り先生』としての生活を、十数年も続けているという人です。


今までに、5000人近くの若者と関わりを持ったという著者。もちろん成功ばかりというわけではありません。直接的ではないにしろ、著者自らが関わっていた若者を殺してしまったと感じているケースもあります。そんな失敗の話も、隠すことなく本作で語られます。


すべてを背負っている。そんな風に感じられます。いろんな想いをその両肩に乗せて、その重みに耐えながらなんとか歩いている、という感じ。時折、若者にではなく、著者自身に痛々しさを感じてしまうこともあります。赤の他人に、そこまでしなくても…と。


僕は、著者のようには絶対にできません。誰かを助けることは出来るかもしれない。でも、必ず助けたいと思うことはできないし、無償で助けようとも思えないだろう。どこかに必ず綺麗ごとを挟んで、どこかに必ず逃げ道を作ってからでないと、僕は人を救うことなんてできない。


著者は、綺麗ごとなんて一切なく、逃げ道だってどこにも作ることなく、ただ全力で若者にぶつかり、全力で問題を解決しようとするだけです。
僕には、できません。


本作で語られる少年少女のエピソードは、本当に悲痛なものばかりです。若者が悪いケースだって、もちろんあります。それでも、若者だけが悪いんじゃないっていうことがほとんどです。周りにいる大人が、子どもの芽を摘み取ってしまっているのです。


僕は正直本当に、何度か泣きそうになりました。こんな辛い人生を生きている人がいて、そこからなんとかして救いたいと願っている人がいて、それなのにどうしてもこんなに不幸で悲しいんだろう…って思ってしまいます。


誰しもが平等ではないのは仕方ないと思います。ただ、せめてだれもが、安心して生きていくことが出来る社会であって欲しい。社会の一員として、僕はきっとそういうことも考えるべきなんだろうと思います。きっと、何もしないと思うし何も出来ないと思うけど、でも本作を読んで、何か出来ることがあるならやってあげたい、と少しだけ思えるようになりました。そして、とにかく向き合って話し合うっていうことがどんな場合でも大事なんだな、と思いました。


とにかく、ものすごくいい作品です。


僕は書店員なので、本屋での立ち読みはできればしてほしくないな、と思ってしまいます。でも、本作なら許します。本屋で、1時間もあれば立ち読みできてしまうな内容です。是非読んで見てください。
是非とも読んでください。きっと読んでも、何も行動には移せないと思うけど、でも読んで意識を変えるだけでも、何かが変わるんではないか、そんな風に思えてしまう一冊です。是非どうぞ。


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長江貴士
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