【本】「アイデア大全」「羽生善治と現代」「グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ」
読書猿「アイデア大全 想像力とブレイクスルーを生み出す42のツール」
タイトルだけ見れば、どこにでもあるような、いわゆる「ハウツー本」に思えるだろう。確かに本書は、ハウツー本として「使う」ことが出来る本でもある。本書は、アイデアの種がまったくないところから、どうやってアイデアをひねり出していくのか。その具体的な手法が、その手法を使った具体的な例と共に紹介される本だ。そのハウツー本としての存在価値も、本書は高いと感じられる。
しかし、決してそれだけの本ではない。本書は、「アイデアを生み出すということはどういうことなのか?」という本質的な部分を、「アイデアを生み出す手法」を列挙し、突き詰めることで捉えようとする作品でもある。
『本書は、<新しい考え>を生み出す方法を集めた道具箱であり、発想法と呼ばれるテクニックが知的営為の中でどんな位置を占めるかを示した案内書である。
このために、本書は実用書であると同時に人文書であることを目指している。』
まえがきに、こんな風に書かれている。非常に野心的な目標ではあるが、確かに著者の「実用書であると同時に人文書であることを目指している」という目標は、達成されているように感じられる。
『これまでにない新しい考え(アイデア)を必要としている人は、できるのはわずかであったとしても現状を、大げさに言えば世界を変える必要に迫られている。そのために世界に対する自身のアプローチを変える必要にも直面している。
この場合、必要なのは、ただ<どのようにすべきか>についての手順だけでなく、そのやり方が<どこに位置づけられ、何に向かっているのか>を教える案内図であろう。それゆえに本書は、発想法(アイデアを生む方法)のノウハウだけでなく、その底にある心理プロセスや、方法が生まれてきた歴史あるいは思想的背景にまで踏み込んでいる』
だからこそ本書は、「使う」だけではなく「読む」本としても充分に面白い。何故その発想法が生まれ、洗練されてきたのか。どんな偉人たちが、その発想法でどんなアイデアを生み出してきたのか。その発想法の本質的な部分はどこにあるのか。博覧強記の著者だからこそ、ジャンルを横断し、様々な知見を結びつけることが出来る。そのことが、「発想法を学問する」という無謀なチャレンジの土台となっているのだ。
『発想法とは、新しい考え(アイデア)を生み出す方法であるが、アイデアを評価するにはあらかじめ用意しておいた正解と比較する方法がとれない。というのも正解をあらかじめ用意しておけるのであれば、新しいとはいえず、アイデアでなくなってしまうからだ。
このことは、文章理解や問題解決に比べて、発想法の実験的研究が遅れをとった原因でもある。
アイデアとそれを生み出す技術の評価は、結局のところ、実際にアイデアを生み出し実践に投じてみて、うまくいくかどうかではかるしかない。』
結局のところ、実際にこれらの発想法を試してみないとわからないよ。著者は本書を読む者にそう注意を投げかける。「読む」だけでも充分に面白い本だが、実際に「使う」意識も持ちながら読んでみて欲しい。
梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる」
ニコニコ動画などによって、「将棋を見る」ということは、一つの文化として当たり前になってきた。将棋のことなど詳しく分からない人でも、対局中に食べるおやつや、長考している間の棋士の振る舞いなどに注目して楽しむ、というような新しい見方がかなり広まっている。
しかし一昔前、将棋というのはそういうものではなかった。
『将棋と言えばあくまでも「指す」もの、将棋とは二人で盤をはさんで戦うもの、というのが常識である。「趣味が将棋」といえば、ふつうは「将棋を指す」ことを意味する。そして将棋を指さない人、将棋が弱い人は、将棋を観てもきっとわからないだろう、と思われている。』
かつては、こういう捉えられ方が当たり前だった。僕も、そう思っていた。将棋は好きだが、全然強くないから、きっとプロ棋士の対局を見てもつまらないだろう、と。
『しかし考えてみれば、それも不思議な話なのである。
「小説を書く」人がいて「小説を読む」人がいる。「音楽を演奏する」人がいて「音楽を聴く」人がいる。「野球をやる」人がいて「野球を見る」人がいる。「小説を読む」「音楽を聴く」「野球を見る」のが趣味だという人に、「小説を書けないのに読んで面白いわけがないだろう」とか「演奏もできないのに聴いて楽しいはずがないよね」とか「野球をやらない人が見ても仕方がないでしょう」などと、誰も言わない。しかし将棋については「将棋を指さない人は、観ても面白くないでしょ、わからないでしょ」と言われてしまいがちだ』
将棋の捉えられ方は、もう結構変わったと感じる。既に本書に書かれていることは、少し前の「当たり前」だといえるのかもしれない。もちろん、今でも将棋を、「指さない人が見ても面白くない」と思っている人はいるだろうが、特に若い世代はそういう抵抗感は薄れているように感じられる。本書はそんな、「指さない将棋ファン」を増やすために棋士たちがどんな発想を持ち、どんな努力をしてきたかが描かれていく作品だ。
また、より将棋に踏み込んだ記述として、将棋界の劇的な変化にも触れられている。羽生善治が登場したことで、将棋というものは大きく変貌したのだという。
羽生善治が登場する以前の将棋というのはある意味で「伝統芸能」に近いものがあったようだ。羽生善治が初めて名人位に挑戦した時の指し方に対して、当時の重鎮たちは、「将棋界の第一人者たるもの、少なくとも若いときには居飛車党の正統派でなければならない、歴代の名人は皆そうだった」「名人戦のような大舞台では、将棋の純文学たる矢倉を指すべきだ」「大舞台で先手を持って大先輩を相手に飛車を振るなんて」というような、勝負の世界とは思えない批判を繰り出していたという。こういう場面ではこうすべきだ、という伝統が、勝負や研究よりも重んじられていた、ということだろう。
しかし羽生善治が、その風潮を吹き飛ばした。将棋を、純然たる勝負や研究のステージへと押し上げたのだ。これもまた、旧来の価値観を覆すものだった。
古い価値観がどのように変化していったのか、その過程を知ることは、新しい価値観を生み出す役に立つかもしれない。
デイビッド・ミーアマン・スコット+ブライアン・ハリガン「グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ」
グレイトフル・デッドというのは、ビートルズやローリング・ストーンズと同じくらいの歴史を持つバンドだ。日本ではあまり知られていないが、彼らの手法は音楽業界を革新した。
彼らがしてきたことは、今となっては当たり前に思えることも多い。
◯ ライブは録音OK
◯ チケット販売は彼ら自身が管理している
◯ インターネットがない時代から、膨大な顧客名簿を管理
◯ ライブの度に違う演出。決まった演出のないライブ
◯ 年に100回もライブを行なう
◯ CDからの売り上げではなく、ライブからの売り上げで収益を得るモデルを創りだした
これを彼らは、40年以上も昔からやり続けているのだ。その結果、現在でも年間で5000万ドル稼ぐモデルを生み出した。
彼らがしていることを一言で説明するとすれば、こうなるだろう。
「いかにコミュニティを作るか」
SNS時代の現在なら、この発想は当たり前過ぎるものだといえるだろう。しかし40年前から、「いかにコミュニティを作るか」という考え方をベースにして自分たちの音楽を広めようとした彼らのやり方は、他の様々なビジネスでも役立つことだろう。
「マーケティング」という言葉には、どこか冷たい響きが宿る。本書のまえがきは糸井重里氏によるものだが、こんな文章がある。
『マーケティングが、いやな言葉に聞こえるのには、理由があります。
それは、ある種のマーケティングが「大衆操作的」なものだと考えられているからです。
「これをこうして、あれをああすれば、みんながこうなるだろう?」という考え方が、大衆操作的でないとは思えません。
でも、「大衆操作的」ではないマーケティングもあるんです』
グレイトフル・デッドがしているのは、暖かさの伝わるマーケティングだ。彼らがどんな考え方をベースに自分たちの音楽を届けようとしているのか。その凄さを本書を読んで実感して欲しい。