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【本】藤崎彩織「ふたご」感想・レビュー・解説

僕には持論がある。
辛い境遇にいる者ほど、言葉が豊かなのだ、と。
言葉に惹かれる僕は、だからそういう人に惹かれる。

『愛や恋。私の中でそれらは、突然の豪雨みたいなものかもしれない。予期せぬ雨の中で、降り注ぐ感情の中で、私はいつもびしょ濡れになってしまう。身を守る屋根を見つけなくてはならなくて、それが私にとっては言葉なのだ』

『ピアノに向かうのが苦しかった時、自分と月島の関係に悩んだ時、私が迷子にならないように助けてくれたのは、いつも言葉だった』

辛い境遇にいる時、僕たちは孤立してしまうことが多い。誰かとの関係がうまくいかなかったり、ある状況で失敗してしまったりする中で、僕らは突然に、あるいは少しずつ孤立していく。

まず、自分が置かれたそういう状況を認識するために、言葉が必要とされる。言語学の世界では、言葉というのは、区別する必要が生じた際に生まれるという説があるらしい。犬が一匹いるだけなら、その犬を指して「あれ」というだけで事足りる。しかし、目の前に犬と猫がいる場合には、それらを区別するために名前が必要になる。これは、価値観や概念でも同じことだ。だから、周囲と相容れない状況に陥るということは、その時点で言葉を多く獲得できる可能性が高まる。

さらに、どうにかして「みんな」の輪の中に入ろうとする場合、「みんな」のルールと自分のルールを言葉で認識しなければならない。「みんな」同士は、言葉なんか使わなくても集団のルールが理解できているみたいだけど、自分は違う。だからそれを理解するために、言葉でそれを捉えなくてはならない。

こういう経験を日々積み重ねていくことで、言葉というのは豊かになっていくのだと僕は思っている。また、辛い境遇にいる時、自分にピッタリくる感情や考えを探すために、たくさんの言葉(本でも音楽でも映画でも)を取り込みたくなるだろう。そんな風にして、言葉によって自分を支えていくのだ。

先入観を与えるようで申し訳ないが、本書は、「SEKAI NO OWARI」のピアニストである著者と、ボーカルの深瀬慧の実際の話を元に書かれているようだ(著者本人がそう明言しているわけではないようですが)。つまり、本書の中でずっと苦しんで苦しんで苦しんでいる主人公・西山夏子は、著者自身ということなのだろう。

この作品は、言葉の力がとても強い。これだけの言葉は、傷ついて傷ついて傷ついて来た者だからこそ獲得し得たものだと僕には感じられる。だからこそ西山夏子が著者自身であると、僕にはすんなり信じることが出来るのだ。

「ふたご」というタイトルは、西山夏子と月山悠介の関係を象徴するものだ。

『彼は、私のことを「ふたごのようだと思っている」と言った』

そんな一文から始まる本書は、人と人とが同じ時間を過ごすことの、絶望的な孤独を描き出している。

『もしこれ以上、二人がひとつの感情を共有してしまえば、私たちは、もう一緒にいられなくなるかもしれない。一緒に悲しんで、一緒に泣いて、お互いを舐め合うような関係に、未来なんてない』

二人はずっと、名前の付かない関係のままでいた。最初は、中学生の先輩・後輩として出会った。しかし出会った時からもう、先輩・後輩という関係は存在しなかった。ただの友達でもない、恋人なわけでもない、もちろん家族でもない。しかし二人は、長い時間を共有し、お互いの価値観をぶつけ合い、その存在を必要とし、不可欠なものとみなした。まるで「ふたご」のように。

『どうしてなのか、大切にしようと思えば思う程、私たちはお互いを蝕んでいってしまう』

西山は月島のことが好きだった。振り向いて欲しかった。女として見て欲しかった。でも、月山はそんな風に自分のことを扱ってはくれない。月山のことを一番理解し、一番濃密な時間を過ごし、月山にとって必要な人間であるはず、という風には思える。しかしそれでも、西山は月山の「特別」になれないでいる。

『自分が誰かの特別になりたくて仕方がないことを、私は「悲しい」と呼んでいた。誰かの特別になりたくて、けれども誰の特別になれない自分の惨めさを、「悲しい」と呼んでいた』

西山は、自分が何を求めているのかだんだん分からなくなっていく。少なくとも、物理的にはずっと一番近くにいられる。自分が月山のことを特等席で見ることは出来る。でも、月山は自分の方を見ていない。見ていないと感じられてしまう。
でも、じゃあ自分を見てくれたら満足出来るのか。女として扱ってくれたら嬉しいのか。そこがもうグチャグチャになってしまう。

『女としての生活を捨てたからこそ、私はここにいられる。そう信じていた。その確信が私の自信だった』

西山のグチャグチャした葛藤は、まったく同じものではないだろうけど、僕にも分かるような気がする。僕は、自分が恋愛に向いていないという自覚があるが、何故そう思うかと言えば、僕自身の中に相反する二つの感覚があるからだ。それは、「好きになった人に関心を持ってもらいたい」という気持ちと、「好きになった人に関心を持ってもらいたくない」という気持ちだ。自分の中で、この二つのまったく異なる感情が同時に存在している。そしていつも、自分のことがよくわからなくなる。

きっと西山も、同じような感じで、自分のことがよく分からなくなっていっただろう。

『たとえ他の女の子の話だとしても、月島に話を聞いているのが、楽しかった。異性としての好意が自分に向けられていなくても、結局自分のところに帰ってきて、いつまでも話をしている月島のことが好きだった』

分かるなぁ、こういう感覚、凄く。

『いっそのこと、本当にふたごのようであったら、こんな風にいつまでも一緒にはいなかったのだと思う。いや、はっきり言おう。私たちがふたごのようであったら、絶対に、一緒にいることは出来なかった。
確かに、私は人生の大半を彼のそばで送ってきた。晴れた日も雨の日も、健やかな日も病める日も、富めるときも貧しきときも、確かに、私は彼のそばにいた。
そしてその大半は、メチャクチャに振り回された記憶ばかりだ。』

西山を振り回す月島の考え方には、賛同できてしまうことが多い。

西山と月島はよく、言葉の意味を考えるゲームをする。「ルール」「恋」「正解」など、色んな言葉について考えていることを語り合う。西山はいつも、月島の物事の捉え方に感心する。西山は、西山一人でいる時には「普通」とか「当たり前」を乗り越えられない。物事を、常識的な範囲で考えてしまいがちだ。しかし月島は、全然違う。ひらりと、軽々と、「普通」「当たり前」を飛び越えていく。月島は、自分にとっての大事さによって物事を判断しようとする。

『でも俺はまず、こんな気持で学校に行ってどうするんだよって思った。今高校を止めることよりも、学校にこのまま二年も行くほうが、ずっと絶望的だと思った。』

『明日もあさっても、こんな場所で何の目的もないままに生きて行くなんて、考えただけでゾッとするんだよ』

問題は、月島には、自分にとって何が大事なのかが全然分からなかった、ということだ。自分にとって大事ではないものはすぐに分かる。けれど、何が大事なのかは分からない。だから月島は、常に無気力な青年に見えた。やりたくないと駄々をこねているだけの若者に見えてしまった。

月島のこの感覚は、僕にも分かる。僕もずーっと、自分が生きている原動力みたいなものをうまく掴めないままいる。生きている理由なんて、別にない。ないんだけど、自分を前に進ませるためには、何か原動力がないと無理だ。でも、それが何なのか、自分でもよくわかっていない。時々、そのことに絶望する。特に、平均年齢から考えれば、自分はまだその折り返し地点にさえたどり着いていないのだ、と思うような時にはなおさらである。

『頑張れた方が良いに決まってるじゃないか』

ホントそうだよなぁ、と思う。
僕も、気を抜くとすぐに頑張れなくなってしまう、と思っている。だから、気をつけている。どう気をつけているのかというと、継続する、というやり方をしている。やるぞ、と決めたことはとりあえず継続する。「継続すると決めた自分」に嘘をつかないために、僕は毎日なんとか前に進んでいるんだろうと思う。

それは、西山のこんな感覚に近いものがある。

『実際、ピアノを練習したいと思って練習するのは、三日に一度ぐらいあればいい方だ。ほとんどの日は、遊びに生きたいと思いながら、弟とテレビを見たいと思いながら、自室にこもってピアノを弾く。どうしても弾く気分になれない日は、ただ自室にこもっているだけの時もあるけれど、やりたくないからと言って、ピアノから逃げ出すことは考えられない』

そんな西山に、月島はこう返す。

『逃げることにだって、勇気は要るんだよ』

うん、分かる。分かるよ、月島。

『自分の世界の中で何かが、変わった。完璧に変わった。それがありありと分かってしまった。あたりを見渡すと、周りには誰もいない。私は実感した。月島は、もういない』

月島の不在に対して、西山はこう感じる。

『離れることは出来ないのかもしれない。それでも、近づきすぎてしまえば絡まり合ってしまうことを分かっている。その苦しみを、もう充分に分かっている。
私たちは、これ以上近づいてはいけないのだ』

月島との距離感について、西山はこう感じる。

『もしそうなれば名前のつかない私たちの関係に、遂に名前がつくことになる。でも、バンドメンバーという名前は、本当に私たちの関係にふさわしい名前なのだろうか?』

月島との関係性について、西山はこう感じる。

『頭では分かっていた。それなのに月島が私のことを恋人と呼ぶとき、その言葉を胸の中に大切にしまってしまう』

月島と関わることの痛みを、西山はこう表現する。

『お前はいつも、正しいことが正解だと思い過ぎなんだよ』

かつて月島からそう言われた少女は、月島に出会い、憧れ、後ろをついていき、同志となり、性別を越え、痛みを内在させ、思考がグチャグチャになり、どこにも辿り着けず、
それでも月島の隣にいた。

本書は、その壮絶な記録なのである。

内容に入ろうと思います。
14歳の少女・西山夏子は、学校の吹き抜けの階段でその少年をよく見かけた。一学年先輩の、月島悠介。気づいたら声を掛けていて、それから西山は、よく月島と一緒にいるようになった。
何をするでもない。レンタルビデオ屋に行って何も借りずに帰ってきたり、電話で言葉の意味を考えるゲームをしたりする。友達でも恋人でも家族でもないような距離感のまま、でも西山はずっと月島への恋心を抱き続ける。

学校に行かず、やりたいこともない、無気力にしか思えない月島に苛立ちを隠せなくなることもあった。やがて月島の環境が大きく変わることになり、月島の喪失に備えて西山も準備をする。
結果的にその変化が、月島を追い詰めることになったのかもしれない。月島は、壊れてしまった。
長く苦しい月島の“リハビリ”期間をギリギリの忍耐で耐え続けた西山は、ある日自分が月島の変な計画に組み込まれていることを知る。バンドをやる―そう決めた月島は、無謀とも思える形で、後にメジャーデビューすることになるバンドを形作っていくことになるが…。
というような話です。

ホントに良い小説だったなぁ。正直、他人から「良いらしいよ」という評価を聞かなければ読まなかっただろう。芸能人が書いた本だし、という先入観を持ってしまってたな。これはホントに、新人のデビュー作という意味でも、芸能人が書いた本という意味でもずば抜けているし、純文学寄りの中堅作家の作品と言われても全然通用するような作品だと思います。

ストーリーに関しては、正直うまく評価できない。ここで描かれている内容がどこまで藤崎彩織・深瀬慧の話と同一なのか、それにもよる。基本的な事実をそのまま物語のベースにしているとすれば、著者は物語を生み出したわけではないだろう。ある程度以上創作が入っているというのであれば、また評価は変わる。この点は、僕が持っている知識量ではうまく評価は出来ない。

ただ、事実ベースであれ創作ベースであれ、どのみち凄い展開であることは間違いない。これが事実ベースなのだとしたら、ちょっとイカれてると感じるほどだ。前半の、西山と月島の関係性については、まあまだいい。こういう表現は好きではないが、いわゆる「共依存」的な関係性なのだろうし、日本全国どこかを探せば、現在進行系でも起こりうることではあるだろう。しかし後半の、バンド結成からの展開は、ちょっとムチャクチャだと思う。そして、ムチャクチャだと思うからこそ、恐らくこの部分はかなり事実ベースなのだろうと思う。成功するかどうか分からないバンドに、これだけのお金と時間と情熱を投資出来るというのは、奇跡に近いのではないかと思う。


本書は、物語は一旦置いておくにしても、観察眼や表現力が素晴らしいので、その部分だけでも充分読ませてくれる。西山は、普通に生きていれば感じない感情や、直面しない状況に度々襲われることになる。そしてそれらは、僕らにとって非日常であるが故に、伝えることがとても難しいはずだ。しかし著者は、その優れた観察眼と表現力で、あまりの非日常を、読者にも想像できる形に変換する。この力がとても高いと僕には感じられる。

特に、人間を捉える眼差しが素敵だ。西山夏子=藤崎彩織なのだとすれば、著者は深瀬慧(=月島悠介)を日々観察することで、何を考えているのか、自分をどう見ているのか、何をしたいのか、ということを読み取ろうとしていただろう。いなくなれば自分の世界が崩れるほどの存在感があり、女として見られていなくても近くにいたいと思える存在でありながら、どれだけ近くで見ていても全然理解できない男を観察し続ける経験が、人間を捉える眼差しを強くしたのだろうと思う。

西山は、自分のふがいなさや自分に対する嫌悪感を隠そうとしない。人間を捉える眼差しの強さは同時に、自分自身を暴き立て、責め立てる力にもなる。西山は、自分の内側からいとも簡単に悪意や嫉妬や後悔を探し出してみせる。そうやって、月島に近づくための何かを見つけようとする。あるいは、月島との適切な距離を保つ方法を見つけようとする。でも、全然うまくいかないし、傷ついてばかりだ。

『みんなから嫌われてるやつのこと、俺、嫌いじゃないよ』

月島は西山にそう言う。これも、分かる。僕も、同じだ。西山は月島から、自分のことしか考えていないから嫌われるんだ、と言われる。そうなのかもしれない。西山には自覚はなかったけど、でも考えずにはいられないのだから仕方ない。自分のことを考え続けないと前に進んでいけないのだから仕方ない。僕にも、そういう時期はあった。その時期は、辛かったな。

『お前は自分で選んだ人生を生きているのか?』

西山は月島の言葉からそんな質問を読み取る。そんな月島こそが、西山を縛り付けているのだから、皮肉なものだ。

『ふたごのようにずっと隣で時間を共にしてきた月島は、私のことをひとりぼっちにもしたけれど、ずっと一緒に夢を見ていられる友達を作ってくれた。
帰る、と言うことの出来る居場所を作ってくれた』

本書を読んで強く感じた。著者はこれを「書かなければならなかったのだ」と。きっかけは深瀬慧の一言だったという。小説でも書いてみれば、という一言。しかし、そうやって書き始めた小説は、きっと、少しずつ藤崎彩織を縛り付けていたものを溶かしたことだろう。「書く」ということは、不正確かもしれないけど一番近い言葉を選び続けることだ。そして、頭の中にある、まだ言葉になっていないものたちは、言葉になることで、僅かに正確さを失いながらも、輪郭がはっきりとする。「書く」ことで、自分の気持ちが露わになる。そういう経験は、僕もしたことがある。

結果的に著者は、言葉の人だった。西山夏子を通して、彼女はこう書いている。

『曲を作りたいと、心から思ったことは一度もない。
燃えるような恋心を歌に乗せたいと思ったこともないし、オーディエンスに大合唱されるメロディを自分が作れるとも思えなかった』

彼女にとって、自分の内側にある“コレ”を表現する手段は歌ではなかった。それは、絵でもダンスでもなかったのだろう。彼女は、言葉の人だった。だから彼女は“コレ”を小説の形にした。

勝手な意味合いを押し付ける必然性はいささかもないのだが、しかし本書を書くことは、彼女にとってある種の鎮魂だったのだ、と捉えることで、僕にとってこの小説は、より深い意味合いを持つことになる。

『ここで生きて行くには、走るしかない』

僕も走ろう。


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長江貴士
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