【映画】「聖なる犯罪者」感想・レビュー・解説

面白い映画だったなぁ。こういう、善悪の境界線が曖昧になっていくような作品は好きだ。どの程度実話なのか分からないが、実話を基に生まれた物語であるというところもまた、人間の愚かさや誠実さの面白いところだなと思う。


僕個人の意見としては、過去の言動で人間を判断したくない気持ちはある。それは、「人間は更生できる生き物だから」だと思っているわけじゃない。それよりは、「過ちを犯したことのある人間より、そうではない人間の方が危険な可能性はある」と思っているからだ。

とりあえず、話がややこしくなるので、依存症は除く。これは、犯罪や過ちというよりは、病気だと僕は思うからだ。

確かに、過去に過ちを犯した者が、また過ちに手を染めることはある。しかし、絶対数で見れば常に、過去に過ちを犯していない人間が何か問題を犯すことの方が多いだろう。普通に考えれば、「刑務所から戻ってきて普段そこまで関わらない人」より、「過去に犯罪歴はないが普段よく関わる人」の方が、自分に害を成す存在である確率は高いと思う。

再犯率も高いというじゃないか、という声もあるだろう。しかしそれは、どちらかと言えば社会の問題だ。自分は違うと言うつもりはないが、社会は基本的に、刑務所から出てきた人間を受け入れない。例えば、ベーシックインカム(働かなくても毎月一定額のお金が支給される制度)が実現し、刑務所から出てきた人間にも同様にベーシックインカムが支給され、コミュニケーションが取れるコミュニティが少ないながらもあれば、再び罪を犯す人間は減るだろう(この議論に厄介なので、依存症は外した)。個人の努力によっては超えられない大きな壁がある、という風に考えている。

だから僕は、依存症は例外として、過去に何か過ちを犯していたとしても、ただそれだけの理由でその人を排除するような判断はしたくない、と思う。

ただやはりこれは、個人的な判断の域を出ない。例えば僕が結婚しているとすれば、奥さんの判断は尊重しなければならないし、企業の社長であれば、元犯罪者を雇用するかどうかは従業員の理解が必要だろう。僕個人の意見を他人に押し付けるつもりはない。

人間は、様々な理由で一線を越える。人によっては、電車で足を踏まれたことに腹が立って人を殺す。またある人は、親の介護に疲れ切って殺してしまう。どれだけ裁判で情状酌量がつこうが、刑務所から戻ってくればどちらも「元殺人犯」だ。大いに話題になった映画『万引き家族』も、万引きによって生計を立てる一家の、それでしか成り立ち得なかった「家族」というまとまりを深堀りしていく。非常に印象的だった、こんな言葉を今も覚えている。

『捨てたんじゃないんです。拾ったんです。捨てた人ってのは別にいるんじゃないですか』

「犯罪者」側の視点で映画を観る観客にとっては、ずっとこの「家族」視点で観るから、このセリフは非常にしっくりくる。しかし一方で、彼らを「単なる犯罪者」としてしか見ない映画の中の「世間」は、この言葉によって善悪が反転するだろう(残念ながら、「世間」がこの言葉を知る機会はないのだけど)。

正しいかどうかというのは常に、どこから見るかという視点とともに語られるべきことであり、そして、自らがよって立つ「視点そのもの」の正しさは永遠に証明できない。我々は、「その視点に立っている」という主張はできるが、「これが正しい視点だ」という主張はできない。ここに原理的な限界が存在するから、法が必要なのだ。どんな視点に立とうが関係なしに、「これを正しいと決めます」というものがなければ、何かを断罪することなどできない。

そういう意味でいうと、この映画は、観客に特定の視点に留まらせない映画だ。どこに立っていても歪んでいるし間違っているし、しかし同時に正しい。

印象的だったのは、村の揉め事に真っ向から立ち向かう決意をした主人公が、大勢の村人と対峙するシーンだ。ここで、ある村人が、「ここの住民はみな善良よ」と言う。彼らは彼らなりの理屈で「善良」だと信じているはずだし、嘘をついているつもりはないだろう。しかし、村で起こっているある揉め事に関してのみ言うのであれば、明らかに彼らは善良ではないのだ。

どの立ち位置にいるかによって善悪が簡単に入れ替わっていく。基本的には主人公の目線で物語を追うことになるが、主人公は冒頭から「非・善良」であることが明らかで、善良な雰囲気を非常によく醸し出すが、信じきれない。主人公という船に乗り続けていていいのかという不安を、観客はみな感じるだろう。だから、時々別の船にも移ってみる。しかし残念ながら、そちらもまた善良かどうか不安定のままなのだ。

それでも、敢えて書くならば、僕は主人公は「善良である」と言いたい。彼が少年院に入ることになった理由は、作中ではほぼ描かれないし、彼の過去についてはなんとも判断できないが、少なくとも、少年院にいたという過去を含めたとしても、現在の彼を「善良である」と僕は捉えたい。

内容に入ろうと思います。
少年院で殺伐とした日々を過ごす20歳のダニエルは、そこで出会った神父に影響され熱心なキリスト教徒となった。しかし、神学校に入学したいという願いも虚しく、犯罪歴のある者の入学は許可されない。ダニエルは少年院を退所し、遠くの製材所で働くことに決まったが、その途中で立ち寄った教会で椅子に座っていた少女マルタに、自分は司祭だと冗談を言ったところ、本当だと受け取られ、元いた神父が病気がちだったこともあり、代理の神父としてミサなど行うことになってしまった。ダニエルは名前を聞かれ、教会で出会ったトマシュ神父の名を騙り、スマホで「告解の手引き」など調べながら未経験の司祭の役割をまっとうしようとする。ダニエルは演説や人の心を掴む仕草に長けていたようで、最初は若くて信頼されていなかったダニエルも、その熱心さが認められ、村に受け入れられるようになっていく。
ダニエルが村にやってきた日、彼は道端に献花台を見つける。これは、去年起こった不幸な交通事故の死者を弔うものだった。しかし、被害者は7名であるのに、献花台に飾られた写真は6名分しかなかった。この事故は、二台の車が正面衝突したもので、一人で乗っていた一方の車が原因を起こしたと村人は判断し、遺骨の埋葬も拒絶されている有様だったのだ。ダニエルは、事故の当事者だけではなく、この村全体がこの事故により深く傷付いていることを知り、どうにかその傷を癒やしたいと模索するが…。
というような話です。

いつものように、内容をまったく調べないで観に行っているので、なんとなく予想していたのとまったく違う展開だったので驚きました。というか、どんな風に物語が進んでいくのか、まったく予測出来ませんでした。

僕は、タイトルとポスターの雰囲気から、「聖職者がわいせつ行為など犯罪を犯す話なんだろう」と勝手に思っていたのだけど、全然違った。ダニエルは、冒頭こそ少年院の描写から始まるので善良には見えないが、司祭のフリを始めてからは実に善良に見える。確かに神学校は出ていないし、身分を偽っているし、過去の過ちも隠している。しかしそれでも、村で起こった不幸な事故へのアプローチは、彼が最も正しい。正しいというか、誰もが触れずにやり過ごそうとしている中、火中の栗を拾おうとするのだ。この映画では結果的には彼の行動は正しい結末へと導いたと思うが、そうではない結末も想定できる。だから、一概に「正しい」とは言えないが、しかし、何もせずにやり過ごそうとしている村人よりは正しいと言っていいだろう。

ダニエルには過去に大きな問題があるが、少なくともこの村においては、ダニエルの存在は成立している。ダニエルは別に辺に善良ぶっているわけでもない。人前でタバコも吸うし、爆音で音楽を掛けながらバイクをいじったりしている。しかしそれでも、司祭として出来る限りのことをしようとしている姿や、ミサなどで印象深い言葉を口にする様子などから、支持を集めていくのだ。

彼の存在は、「直接的に他人の役に立とうとしている」という点が、よりややこしくさせる。

例えば日本では、奨励会に入り三段リーグを突破しなければプロ棋士になれない。当然、プロ棋士になれなければプロの大会には出られない。もし、プロ棋士だと嘘をついてプロの大会に出ようとする者がいたら、やはりそれは非難されるだろう。

ダニエルも、同じ状況と言えば同じ状況である。神学校を経ずに、司祭の資格を一切持たないまま司祭として活動している。しかし、プロ棋士は直接的に他人の役に立つ存在ではないが(広い意味で言えば、勇気を与えるとか、感動を与えるというプラスを与える存在だけど)、ダニエルの場合は、直接的に誰かの役に立つ行動を取ろうとする。

この違いは、僕は大きいと思う。

プロ棋士であることを偽った場合、同情の余地はないと思うが、司祭であることを偽り他人のために尽くそうとしていたら、確かに褒められる行為ではないかもしれないが、断罪されるような行為でもないのではないか、と思いたくなる。

ただ、キリスト教の世界がダニエルを許さないのは当然だと思う。ダニエルのような例外を許容してしまえば、様々な暗黙の了解によって成り立っているだろう教会や神父といったシステムが成立しなくなるからだ。キリスト教世界は、ダニエルを排除するしかない。それは仕方ないことだが、じゃあ一般社会はダニエルを糾弾すべきだろうか?

僕は、「NO」と言いたい。言える人間でいたい。

この映画は、善悪の境界線上でギリギリ成立しているような作品だけど、それを可能にしているのが主人公だと思う。

主人公の見た目や振る舞いが、善と悪、どっちにも容易に転びそうな、絶妙な雰囲気を醸し出しているのだ。優しすぎるわけでもなく、怖すぎるわけでもない。ちょうど中間辺りだけど、平凡なわけでもなく、優しさと怖さを両方兼ね備えて、プラマイゼロで中間というような印象だ。

そんな存在を絶妙に生きているから、映画を見ながらその瞬間瞬間で主人公がどちらの顔で存在するのかハラハラする。ノールックでパスを出すみたいに、善から悪に一瞬で切り替わっても違和感を抱かせないような演技だと僕は感じた。この役者さんだから成立している感みたいなのは非常に強かった。

最後も、そんなところで終わるのかよ、という終わり方で、最後の最後までざわざわした感じは消えなかった。

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長江貴士
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