【本】本間勇輝+本間美和「ソーシャルトラベル 旅ときどき社会貢献 価値観をシフトする新しい旅のかたち」感想・レビュー・解説
僕は、東日本大震災の時、一度も募金をしなかった。
今までどんな意味でも言語化したことなかったんだけど、本書を読んでなんかその話をしようと思った。
僕には、強い違和感があったんだと思う。
「これでいいのかな?」って。
「ここでお金を出しちゃって、俺は本当に大丈夫かな?」って。
たぶん、忘れちゃうと思ったのだ。お金を出したら。
忘れちゃわないにしても、たぶん急速に薄れるんだろうな、と。そのままにしてたってたぶん凄く薄れちゃっただろうけど、でも、お金を出しちゃったら、もっと速やかに薄れちゃうだろうな、って。
それが怖かったんだと思う。
今でも僕は時々、「自分はあの時募金をしなかった」と思い返す。それは「後悔」っていう感じじゃない。うまく説明できないけど、自分の体に刺さったトゲが、自分の体の一部になったみたいな感じかもしれない。
「あの時募金をしなかった」っていうトゲが、僕の中にずっと残り続けている。
だから、原発や震災の本をそれなりに読むし、被災地に足を運んだりする(連れて行ってもらっただけだけど)のかもしれない。
数千円(あるいは数万円)で、そのトゲを手放していいのかどうか。
たぶん僕はそこで立ちどまって、それで、自分の意思でトゲを抜かないことに決めたのだと思う。
もちろん、分かってもらえると思うんだけど、寄付や募金をする人のことを非難したり間違っているなんて言いたいわけじゃない。
これは完全に、僕個人の問題だ。
色んな価値観や意見があっていい。色んな支援の形があっていい。ただ僕は、自分の中の違和感に向きあって、とりあえず立ちどまってみた、というだけの話だ。
そして、本書の著者である夫婦もまた、「社会貢献」というものを前に立ち止まり続けてきた。
なんとなく、違和感を拭えないでいた。
もちろん、僕と同じ理由、というわけではないのだけど。
『振り返ると東京で働き出してから10年異常、いわゆる社会問題に対して行動したことはほとんどなかった。「飢餓に苦しむ子どもたちのために」と言われても、正直ピンとこなかったし、日本にも問題は山積みなのになんでアフリカ?とか、現地の政治を変えなきゃ意味ないでしょとか、日々さんざん浪費しておいて小銭を寄付するなんて偽善じゃんとか思う、冷めた自分がいた。』
『コルタカのマザーハウスの帰りに気付いた、壁のようなもの。社会貢献に対して凝り固まったイメージがあったのだ。世の中には、美しい心と信念を持つ立派な人々がいて、彼らが自分のお金や時間や生活を捧げている、「献身」していると。素晴らしいのだけど、だからこそ自分のような人間が中途半端に関わっては失礼で、数千円の寄付金や半日のボランティアでやった気になっては恥ずかしいと。そう思っていたのだ。』
こういう感覚は、僕も分かる。ボランティアや寄付や募金というものに、なんとなく抵抗がある。それは、それらを実際にやっている人への違和感ではない。やっている人のことは素晴らしいと思う。けど、それを自分がやるとなると、とたんに違和感が湧き出てくる。自分はそんな大層な人間か?どうせちょっと関わるぐらいなんだろ?飽きたらすぐ辞めちゃうんじゃないの?みたいな。
こういう人は結構多いんじゃないかと思う。自分が抱く違和感の正体をはっきりと見定めることができなくても、「社会貢献」や「ボランティア」や「寄付」と言ったものに、どことなく違和感を覚えてしまうような人は。そして、そんな違和感を覚えてしまう自分が「なんか人間としてダメだなぁ」なんて思ってしまうような人が。
本書は、そういう人の意識を、ほんのちょっとでも変えてくれるかもしれない作品です。
本書は、日本で普通にバリバリ働いていた夫婦(夫は会社の立ち上げに関わったり取締役COOになったり。妻は各社で雑誌編集者として働く)が、「なんとなく東京の暮らしに違和感を覚えて」、2年間の世界旅行に飛び出したその記録だ。
『社会の「当たり前」から振り落とされないように必死になっているだけなのかもしれない。いったい本当の豊かさって何なんだろう。僕らは、半ば押し出されるように出国を決めていました』
本書は、彼ら夫婦が、結果的に「ソーシャルトラベル」という新しい旅の形に行き着いた、その軌跡を追う物語です。とはいえ、初めからそんな旅を追い求めていたわけではありません。東京に違和感を覚えて旅に出てみただけで、「シャカイコウケン」なんて思ってもいなかったし、先述したように違和感も持っていたし、別に途上国だけを回ろうと思っていたわけではない(し、実際色んな国を回っている)。
彼らが「ソーシャルトラベル」に行き着くきっかけとなったのは、インドのブッダガヤの小学校での経験だった。
偶然出会った男に連れられて向かった小学校は、生徒がみな床で授業を受けていた。インドでの教育の大切さを熱心に語る先生。そして、外国人を見ると寄付を期待してしまう土地柄。しかし、お金を出すだけの関わり方にはもともと違和感を覚えていた二人。
そんな中でひらめいたのが、学校に机と椅子を贈るというアイデアだ。
しかし、この思いつきが彼らをさらい落ち込ませてしまう。詳細は書かないけど、「結局これは、ジコマンなのではないか?」という強烈な想いを拭うことが出来ないでいたのだ。
しかしそこで、幸運な出来事があり、彼ら夫婦は素敵な形でブッダガヤを後にすることが出来た。そうやって、体当たりで、体を動かして「シャカイコウケン」と関わっていく中で、彼らの考え方は次第に変わっていくことになる。
『ジコマンとか中途半端とかウジウジ言う暇があったら、とにかくやったらいいんだ』
『皆がソーシャルワーカーになる必要はなくて、皆がちょっとずつ気軽に人助けできる社会になったらいいよね。見慣れていた渋谷のスクランブル交差点が浮かぶ。あちこちから「昨日老人ホームでさ」とか「来週のゴミ拾いなんだけど」なんて会話が普通に聞こえてきたら、なんて素敵だろう。それには、大きなスピーカーで訴えてもテレビCMを流してもきっとダメだ。私たち大人が子どもたちに見せられたら…ちょっとは変わっていくかもしれない』
そうやって彼らは、インド・ネパール・アフリカと言った貧困地域で、自分たちに出来る範囲で、ちょっとおせっかいかもしれないけど「お金を出すだけではない」そして「自分たちも一緒になって楽しむことができる」ような「社会貢献」に色々手を出していくことになる。
最後の方に、こんな文章がある。
こうして振り返りながら、気付いたことがある。
それは「すべて人だったんだな」ということ。
社会貢献がなんちゃらと小難しく考えたこともあったけれど、僕らの心をわしづかみにし、僕らを突き動かしたもの。それは、子供たちのキラキラした笑顔ももちろんだけど、現地に根を張って汗をかき、果てしない課題に挑み続ける現地のソーシャルワーカーたちだった。
そう、彼らは、偶然の出会いを頼りに、「社会貢献」に足を踏み入れていった。たまたま出会った人が素晴らしいことをやっていた、たまたま出会った人が手助け出来るかもしれないと思わせてくれる場に連れて行ってくれた。そういう偶然の出会いが、彼らに、「ソーシャルトラベル」という旅の形を自然と受け入れさせたのだろうと思う。
彼らの「社会貢献」のスタンスは非常に明快だ。それは、「お金を直接渡す」のではなく、「彼ら自信が(できれば継続して)お金を得られるような仕組み作り・提案・援助をする」ということだ。
そのスタンスには、元からの「シャカイコウケン」への違和感に加えて、アフリカを始めとする貧困地域で見た現実への絶望も加わっている。
それは、
「安易な援助が、彼らの働く意欲を奪っているのかもしれない」
という現実だ。
本書の中で、「アフリカ人」について、現地の成功したアフリカ人・現地で青年海外協力隊として働く日本人女性・ジンバブエ生まれの白人の三人が自らの感想を言う場面があるのだけど、その内、青年海外協力隊の日本人女性がこんなことを言っている。
『彼らは援助されることに慣れきってしまって、外国人が来たらお金がもらえると思っているの。現状を自分で変えようと努力しないで、ただ待つだけの人が多いのは深刻な問題だと思う』
現地の状況を知らないから、僕が書くことはあくまでも想像でしかないけど、確かにそういう部分は助長されてしまうだろうなと思う。ペットとして飼われた動物は、野生に戻したらなかなか生きていけないと聞く。ずっと餌を与えられている環境で育って行けば、自分の力で獲物を獲って生き抜いていくという感覚はどうしたって薄れていくだろう。そういう現実を、この夫婦も様々に目の当たりにしてきた。
だからこそ彼らは、お金だけの援助はしない。彼らの持ち出しは多少あるけど、それは基本的に準備や経費として使う。そしてそれらを元に、現地の人が自分たちの手でお金を稼いだり、あるいは学校をよくしたり、そういうことが出来るようにする。それが彼らのスタンスだ。
しかしこのスタンスは、時に彼らを苦しめる。あるイベントに出店の準備を進め、実際に売り始めて、それなりに順調に物が売れていき、その最終日のこと。
『あ…と放心してしまった。気づいてしまったんだ。ここの売り上げより、私たちの滞在費のほうが上だってことを。学校をサポートしようと決めて、それからの宿代、食事代、ビザ延長台、材料費、フェス入場料、全部足したら、売り上げをはるかに超える金額になるということ…。フェリックスに学校に連れて言ってもらったあの日にこの分のお金を寄付したほうが、多くをあげられたということだ。』
この件に限らず、彼らは常に悩みながら、手探りで「社会貢献」に関わっていく。「お金だけの援助はしない」というスタンスには自信がある。けど、現実を見たら、お金を出した方がよりいい結果になるのかもしれない。でも…。彼らはその繰り返しを何度も行なう。たぶん、やらずにはいられなかったんだろう。
彼らは、自分たちがやったことが「正しいかどうか」ずっと悩み続けているのだろう。何度も「社会貢献」をやっていく内に、アイデアも情熱も湧きだしてくる。けど、結局それは誰のためだったのだろう?という疑問を付きまとわせることになる。
だからこそ、「ソーシャルトラベル」というネーミングなんだろうな、という感じがする。
「相手にとって正しいかどうか」はわかんないけど、「自分が楽しいかどうか」ぐらいは分かるじゃん。じゃあそれでよくね?みたいな感じなのかもしれないなと思う。
旅の終わりに彼らは、再度インドのブッダガヤに戻ってくる。そしてそこで、ブログ読者を通じて希望を募り、合宿を行なうことにした。彼ら自身が旅の中で捉えた「ソーシャルトラベル」という形が、本当に「アリ」なのかどうかを確かめることにしたのだった。
現地に来てもらい、自らで課題を見つけ、それにどういう形で貢献できるかを考えて実現させる。初海外という女の子は、外国人観光客が来たことがほとんどないという村でフェスティバルを開き、NGO職員は何もないところに学校を作った。
たぶんだけど、「ソーシャルトラベルってなんだよ、それこそ偽善じゃん」みたいな反応もあるだろうと思う。でも、僕は結構好きかもこういうの、と思う。決して嫌いではない。やはりある程度能力が要求されるだろうから(才能というよりは、実務能力みたいな部分)、自分に出来るかどうかはさておいて、こういう形で人と関わっていくのは面白いかもしれない、という感覚が僕の中にはある。
でも同じくらい僕は、自分の腰の重さを知っているし、自分で動き出さないことも知っている。
けど、もし機会があった時には、すぐ動けるようにしておきたいと思った。そんな機会が自分の人生に訪れるのかどうか、それは分からないけど、でもそのタイミングは逃さないで捕まえたいと思う。
綺麗な写真集に載っている世界遺産を見に行くような旅には、あんまり興味が持てない気がする。美味しいものを食べに行く旅行にも、そんなに関心は持てないだろう。けどこうやって、まったく違う文化・価値観の中にいる人と関わって、それが前進でも後退でも(できれば前進がいいけど)、一緒になってどっちかに向かうみたいなのは、凄く面白そうな気がする。「社会貢献」なんて難しいこと考え無くても、目の前にいるこの人となんか楽しいことをしたい!みたいな感覚が湧き出るなら、それに忠実に従えばいいんだろうなと思う。
「相手が喜ぶことを期待する」のでも、「相手のためになること」を望むのでもなく、「一緒になって楽しむこと」を一番に考える。そういう形の「社会貢献」があってもいいし、旅行の目的が勝手にそうなっていくのも面白い。そんな風に思わせてくれる作品でした。是非読んでみてください。
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