【映画】「否定と肯定」感想・レビュー・解説

内容に入ろうと思います。
実話とは思えない、衝撃的な出来事を描いた作品だ。
ユダヤ人歴史学者であり、「ホロコーストの真実」の著者であるデボラ・リップシュタットは、ある日イギリスの法廷に訴えられたことを知る。彼女を訴えたのは、イギリス人歴史学者であるデイヴィッド・アーヴィング。彼は有名なホロコースト否定論者として知られているが、その彼が「ホロコーストの真実」の中でホロコースト否定論者であると侮辱された、と訴え出たのだ。アメリカの法律と違ってイギリスの法律では、名誉毀損は訴えられた側に立証責任がある。
デボラにはいくつかの選択肢があった。和解もその一つだし、あるいは侮辱したつもりはないと主張することも出来た。しかし彼女はそれらすべてに頷かなかった。自らの信念に基づき、徹底的にアーヴィングと闘うことに決めたのだ。
デボラのために強力な弁護団が組まれた。この裁判は、「歴史的事実の真偽を裁判所で争う」という前代未聞のものだったが、しかし弁護団は争点を「ホロコーストがあったか否か」に据えなかった。その理由は様々にあるが、デボラはその弁護方針に不満を抱く。さらに彼女は、法廷戦術として法廷では証言させるつもりがないと言われ、主張したいことが山ほどあるのに言えないもどかしさに苦しめられる…。
というような話です。

僕は、この映画の原作である「否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い」という本を読んだことがある。この映画の主人公の一人であるデボラが書いた本だ。もちろん、デボラ視点である、ということを加味しながら読まなければならないが、原作は、この裁判の起点から終結まではもちろん、デボラの来歴や歴史観、資金集めや調査の過程、そしてかなり膨大な裁判シーンと、一連の出来事にまつわる様々な事柄が盛り込まれている作品だ。

確かに面白かったが、やはり冗長であるようにも感じられてしまった。確かに著者には書きたいことが山ほどあっただろうと思う。けれど、もう少し焦点を絞っても良かったかもしれない、と思う。読者の関心に応じて作品を2冊に切り分けるなどしても良かったかもしれない。つまり、歴史的な部分に焦点を当てた本(こちらをデボラが書けばいい)と、この裁判にまつわる事柄を書いた本(こちらはデボラとは別のノンフィクションライターが書いても良い)に分ける、というものだ。その方がスッキリしたかもしれない。

この映画はそういう意味で、この裁判の全体像をスッキリと提示してくれる作品だったと思う。非常に面白かった。あらかじめ、膨大でなかなか複雑な原作を読んでいたからこの映画をより良く捉えているのかもしれないが。

映画ではシンプルに、一連の裁判の過程に焦点を当てて描いている。もちろんホロコーストについてまったく描かれないということはないのだが、裁判シーンも、ホロコーストがどうであるというような場面よりは、アーヴィングがいかに信用のおけない人物であるかを立証するのに必要な描写が描かれている印象があった。

そう、この点がこの裁判における最も重要な点であり、この映画の見どころとも関わってくるものだ。

この映画は当然、「デボラVSアーヴィング」という構造を持っている。とはいえ、これは単純にそう言える話でもない。映画では特に強調されていたが、この映画での対立関係は実はこうだ。

「弁護団VSアーヴィング」and「デボラVS弁護団」

どういうことか説明しよう。

弁護団は、この市場稀に見る特異な裁判に勝訴するための方針を立てた。それは、「アーヴィングの歴史学者としての信頼性を揺るがせる」というものだ。彼らは、アーヴィングの過去の著作、各所で行っていた講演、さらにはアーヴィングが20年に渡って記していた日記(証拠開示請求により提出させた)に目を通し(これには、チームが雇った歴史学者が教える大学院生も協力した)、それらから歴史学者・アーヴィングによる意図的な改竄や歪曲を見つけ出す、という膨大な作業をしたのだ。

つまり、名誉毀損を訴えてきた側であるアーヴィングは、歴史学者として信頼出来ない人物であるのだから、デボラが名誉毀損めいたことを言ったにせよ、それは名誉毀損には当たらないのだ、という主張を展開するということだ(この理屈は映画の中で語られていたわけではなく、僕の解釈なので、論理が間違ってるかもだけど)。

この弁護方針は、「ホロコーストは実際に起こったことかどうか」を争点にすることを避けた結果だ。では何故彼らは、「ホロコーストの実在」を争点にしなかったのか。

それは、それこそがアーヴィングの思う壺だと分かっていたからだ。アーヴィングは弁護人を立てず、自身で自身の弁護をした。当然、自ら法廷に立つ。彼はあらゆる弁舌を駆使して細かな部分を付き、「ここに矛盾がある」「ここが信用できない」という部分を印象づけ、「だからホロコーストはなかったのだ」と印象づけたいのだ。また、「ホロコーストの実在」が争点になれば、ホロコーストの生存者も法廷に立たされるだろう。しかしそうなれば、確実にその生存者たちは、アーヴィングから手酷い扱いを受ける。それだけは何としても避けなければならない。

しかしデボラは、この弁護方針が納得出来ない。彼女は、そんな戦術でもし負けてしまったら、世界中に嘘、つまり「ホロコーストはなかった」という誤った情報が伝わってしまう。だからこそ法廷では、「ホロコーストの実在」を証明するように努めるべきだし、生存者にも証言させるべきだ、と思っている。

まずここに大きな対立がある。

さらに弁護団は、デボラに法廷で証言させないと決めた。理由はいくつかあるが、アーヴィングの歴史学者としての信頼性を争点にする上で、デボラの証言は必要ない、というのが主な理由だ。この点もデボラにとっては不満だ。何故なら彼女は分かっているからだ。

『しっぽを巻いて逃げ出した卑怯者』

法廷でひと言も証言しなければ、マスコミや世間からそう見られるだろう、ということを。それに対して、法廷弁護人であるリチャードは、『勝訴のための代償だ』と言う。

デボラ自身も弁は立つし、主張したいことは山ほどある。しかし、自国アメリカではなく、慣習の違うイギリスの法律の元で闘わなければならないこと、また勝つために「ホロコーストの実在」を争点にしないことなど、様々な不可避の状況によって、デボラは声を封じられてしまうのだ。

『良心を他人に委ねる辛さをわかってもらえるかしら。これまで私は、絶対に委ねない生き方をしてきた』

勝つためとはいえ、デボラは不自由な状況下に置かれることになったし、そもそもそのやり方で100%勝てるのかどうかも分からない。デボラ自身は、法廷で座っていることしか出来ないのだけど、そういう葛藤がずっと渦巻いていて心休まる時がない。様々な状況が重なって、デボラが弁護団と対立せざるを得なくなってしまう、という点がこの裁判のもう一つの特異な点であり、その部分が物語を実にスリリングにしていると感じました。

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長江貴士
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