【映画】「ヨコハマメリー」感想・レビュー・解説

ヨコハマメリーについて、映画を見る前に知っていたことはほとんどない。
顔を白塗りにした元娼婦(あるいは現役の娼婦)の老婆が街中にいる、その人は「メリーさん」と呼ばれている、という話をなんとなく知っていたぐらいだ。1995年に街から姿を消していたというのも、ちゃんと知ったのはこの映画でだ(なんとなく、いなくなったみたいな情報は耳にした記憶があったけど)。

「ヨコハマメリー」についての映画だということで、正直、どう構成するんだろう、というのはあった。なにせ、恐らく映画撮影時点では、メリーさんは街からいなくなっていたはずだからだ(そして、やはりその通りだった)。冒頭で、永登元次郎というシャンソン歌手が登場した時は、正直、ちょっと失敗したかなと思った。それは、永登元次郎氏に何か問題があるとかではない。彼が最初に話したエピソードが、「自分のリサイタルで、メリーさんが観客で来てくれた」という話だったのだ。正直、エピソードとしては薄いと思った。そして、「メリーさんと関わったことがある」という人の「薄いエピソード」をただ聞くだけの映画になるのかなぁ、と思ったのだ。

でも、そうではなかった。この映画は、メリーさんという人物を中心とした「伊勢佐木町史」というようなテイストになっていた。イメージしていた感じの映画(メリーさんそのものにもっと肉薄していくといいな、と思っていた)ではなかったけど、これはこれで、面白い映画だと思った。

映画の一番初めは、恐らく横浜の人たちに多数インタビューしたのだろう、そういう人たちの声だけが折り重なるようにして流れる、というところから始まる。「全財産を持ち歩いている」「皇族の子孫らしい」「どこかの施設に入ったと聞いた」「2~3年前に死んだよ」など、とにかく色んな噂がある。もちろん「メリーさんなんて知らない」という声もあった。この映画は、公開から14年が経っているという。メリーさんが消えてから10年以上経ってから公開されている、ということだ。撮影の時点で既に、メリーさんの記憶が薄れ始めているということが分かる音声だと感じた。

メリーさんを、横浜の風景の一部として撮影した森日出男というカメラマンは、「メリーさんがいなくなって、伊勢佐木町の街が変わった」と話していた。もちろん、今は慣れたというが、いなくなってすぐは、全然別の街に変わってしまったようだった、と実感したという。

この映画を観て、ほんの少しだけど、その感覚が分かるような気がした。

メリーさんというのは、1995年にいなくなった時点で70代後半、平たく言ってしまうと、ホームレスだった。決まった住居を持たない人だった。彼女は横浜の色んな場所で目撃されるし、写真や映像などの記録にも残っているのだけど、しかしそれらからは、「どうやって生活しているのか」という背景が見えてこない。

そしてこの映画では、そんなメリーさんの生活を陰ながら支えた人たちの話が核として描かれていくのだ。

少し話は飛ぶが、昔読んだ本にこんな話があったと思う。昭和の時代にももちろん、今でいう「精神疾患を抱えた人」がいた。そういう人を、座敷牢で閉じ込めてしまうようなこともあっただろうけど、一方で、そういう人を地域で見守って全体でサポートするようなことも多かったという。別にメリーさんが精神疾患だったと言いたいわけではなくて、昭和の時代というのは、一人で生活していくのが困難な人を、地域で支えるという受け皿みたいなものが、当たり前に存在していたのだ。

そして、横浜で最後にそういう対象だったのがメリーさんだったのではないかと思う。だから、メリーさんがいなくなるということは、「助け合うという共同体の存在」を目に見える形で変質させることはあるかもしれない、と思うのだ。もちろん、メリーさんがいなくなったからと言って、すぐに共同体が変わるわけではないが、とはいえ、メリーさんがいなくなって間もなく、メリーさんが通っていた美容室も、クリーニング店も、相次いで閉店したという。

美容院の店主は、翡翠の指輪の話を覚えていた。普段店に来て、椅子に座って切るだけで、会話らしい会話などしたことがなかったけど、その日は、大事にしていた指輪を無くしてしまったと悲しそうに話していたという。よほど大切な人からもらったんだろうと思ったそうだ。数ヶ月後、指輪をしていたので話し掛けてみると、見つかったんですと嬉しそうに話したそうだ。

その後、この美容院の店主は、メリーさんの来店を断らざるを得なくなる。劇中では「エイズ」という単語がちょっと出たぐらいなので、後は僕の推測だが、恐らく世間的に、エイズが問題になった頃のことなのだろう。娼婦だったことが知られていたメリーさんも「エイズなのではないか」と思われたに違いない。美容院に来る客から、メリーさんに使っている櫛やハサミは嫌だ、という話が出てくるようになったという。いつの時代にも、そういう人はいるものだ。美容院の店主は、メリーさんに好感を抱いていたので、泣く泣く来店をお断りしたという。

同じような別の話がある。あるティールームにメリーさんはよく通っていたが、そのティールームのお客さんから、メリーさんが使っているカップは嫌だ、という話が出るようになったという。だから、メリーさん専用のカップを用意してお迎えしていたという。

メリーさんが通っていたクリーニング店の話は、色々と驚かされた。実はメリーさんの失踪に大きく関わっているのだが、その話はここでは書かないことにしよう。クリーニング店の店主夫妻は、メリーさんに定住の住処がないことに気づいていて、ウチの更衣室を使ってくださいと提案したという。そんなわけでメリーさんは、このクリーニング店で着替え、そのまま服をクリーニングに出す、という生活をしていたらしい。

メリーさんは顔を白塗りにしていたことでも有名だが、その白粉を売っていた化粧品店の店主の女性の話も印象的だった。ある日彼女が、松坂屋でメリーさんを見つけた。寂しそうにしていたので、お茶に誘ったのだけど、メリーさんは「あっちへ行け」という風に拒絶したという。普段お店では「ママ、サンキュー」と親しげにしてくれる人がどうしてこんな態度を取るんだろうと思い、夫に「メリーさんって変な人ね」とその日の話をしたのだという。すると夫は、「お前の方が常識がない」と言ったという。どういうことか。メリーさんと店主は同年代ぐらいだから、もしメリーさんと店主が一緒にお茶をしていたら、店主まで同業、つまり娼婦だったと見られるだろう。そうならないように、メリーさんが気遣ってくれたんだよ、と。

この話は凄いなと思いました。それは、メリーさんの気遣い云々の話じゃありません。実際メリーさんがどういう意図でそういう行動を取ったのかはわかりませんから。しかし、もしメリーさんという存在に対して元々あまり良くない印象があったとすれば、「あっちへ行け」なんて仕草を好意的に受け取ることはなかなか難しいでしょう。つまり、少なくともその化粧品店店主夫妻はメリーさんに好意的な印象を元々持っていたわけだし、映画全体を通して見ても、そういう印象を持たれる人なんだなと思いました。

もちろん、メリーさんに嫌悪感を抱いている人は映画の取材に応じないでしょうから、情報に偏りがあることは認めますけど、それでも、言ってしまえば「ホームレス」であるメリーさんの存在が非常に特異であったことは間違いないと感じます。

メリーさんについては、こんな話もありました。これは、当人が話しているわけではなく伝聞ですが、印象的でした。オペラなど多数の公演を主催しているイベントプロデューサーみたいな人から聞いたところによると、毎回、公演が当たるかどうか不安でいるのだけど、メリーさんが自分でお金を払って見に来てくれる公演は、不思議と大ヒットする、というのです。どこまでホントか分かりませんけど、ただメリーさんは元々、「皇后陛下」と呼ばれていた、なんて話も出てきました。何故か、「皇族の末裔」という噂もあったようです。気位は非常に高い人だったそうで、「施しは受けない」というスタンスを幾人かの人が話していました。外形的には「ホームレス」ですが、内面は非常に高貴であったかもしれないと感じさせるし、であれば、芸術などを見る目があってもおかしくないという気もします。

またこの映画では、メリーさんが一時期関係していた場所として、「根岸屋」という飲み屋のことが結構な長尺で描かれます。黒澤明監督の「天国と地獄」という映画にも登場したそうで、ある人物は当時の客の「半分はヤクザ、半分は警察」と言っていました。アメリカ兵と、アメリカ兵相手の娼婦のたまり場のような店だったようで、倒産後に建物が火事になり今では現存していないそうですが、まさに当時の伊勢佐木町を物語る存在だったのだろうなと感じました。

冒頭で登場した永登元次郎氏は、実はかなりメリーさんをサポートしている人物だったそうで、映画が進むに連れてその関係性の深さみたいなものが分かっていきます。毎週バーガーキングで待ち合わせをして、話をしていたそうです。永登元次郎氏は、メリーさんの住居を確保しようと奔走したそうですが、住民登録すらないメリーさんに行政がサポートできることはなかったそうです(役所とは何度も喧嘩した、という話をしていました)。「結局、個人の力じゃ何も出来なかった」と悔しさを滲ませていました。

最後の最後は、正直結構びっくりしました。そんな展開を予想していなかったので、なんか凄く良かったな、と思いました。映画としての着地も、キレイだったと思います。

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