【本】北野新太「透明の棋士」感想・レビュー・解説
『ふと、最終局の投了図について尋ねてみた。美しいと話題になっていたからだ。
(中略)
「どうせ殺されてしまうなら…」
中村は確かに、殺されてしまうなら、と言った。
「いちばん綺麗な形で、と思ったんです。あの十手くらい前から、最後の投了図を描いて指していました。だから、羽生さんにも、思い描いた手順で指してもらえればと思っていました」
胸を衝かれた。勝負を見守っている者たちが逆転への一縷の望みを託していた時、中村は最良の死に場所を探していた』
こういう話を聞くにつけ、将棋というのは、単純な勝負の世界ではないと感じる。
投了図の美しさ、というものが、将棋の素人(僕もそうだ)に分かるのかどうかなんとも言えないが(本書にはその投了図は載っていないので判断不能)、フィギュアスケートのような採点競技ではない、勝つか負けるかしかない勝負の世界で、なお「美しさ」という要素が入り込む余地がある、というのが将棋の奥深さだろう。もちろんスポーツなどでも、プレーの美しさ、みたいなものはあるのだろうけど、将棋の場合、そういうものとも少し違うような気がする。将棋で言われる「美しさ」というのは、勝敗を決するために真正面からぶつかりあっている二人が、共同で作り出す芸術性みたいなものを指しているように思う。
もちろん、将棋には勝つか負けるかしかない。しかしトップ棋士の勝負の捉え方はなかなか独特だ。以下は、羽生善治と小学生の頃から現在までずっとライバル関係が継続している森内俊之の言葉だ。
『相手を打ち負かそうという感情は薄いと思います。でも、将棋は勝つか負けるかしかないので、負けないためには勝つしかないんですよね。負けるのは嫌なんです。自分を否定されるような感覚を持ちますので。でも、もっと嫌なのはできるはずのことができないこと。できるかできないか、というところでできないのは仕方がないんですけど、当然できるところで間違えたりミスをするのは嫌ですね。結局、負けることに結び付いていきますし』
羽生善治は、こんな風に語っている。
『彼は、過去の様々なインタビューで「実は将棋には闘争心はいらないと思っているんです。相手を打ち負かそうなんて気持ちは全然必要ないんですよ」といった趣旨の発言を度々している』
勝つか負けるかしかないし、負けるのは嫌なら勝つしかないのだけど、それでも闘争心や打ち負かそうという気持ちはいらない―やはり不思議な世界である。
とはいえ羽生善治は、こうも発言している。
『達観とは言わないまでも、達観に近いような心境になることは必ずしもいいことばかりではない、というのも間違いないですよね。ある種の貪欲さというか、なんて言うんでしょうかね、ギラギラしたものをどこかの部分で持っていないといけないということはあると思います』
この発言を僕はこう捉えた。つまり、勝つためにギラギラするのではなく、将棋を追求するためにギラギラすべきなのだ、と。そのギラギラが、結果的に勝ちに結びつくのだ、と。そうだとすれば、なんと純粋な勝負だろうか、と思う。
将棋というのはまた、強さを推し量ることが難しい、という面がある。もちろん、外形的に分かることはある。タイトルをどれだけ持っているか、勝率がどれくらいかなど、ある程度幅を持たせた期間の中での強さというのははっきりと現れてくる。シビアな実力の世界だ。
しかし、ある一局に限定すれば、両者の強さを測る指標は消える、と言ってもいい。
第72期名人戦を戦う羽生善治と森内俊之の第四局は、錚々たるメンツが立会人として部屋にいたが、『実力者ばかりが揃った顔ぶれでも、目の前の盤に一致した正答を導き出すことができなくなっていた。』『検討で一切触れられていなかった一手の出現に、四人は思わず自嘲の笑い声を洩らした。』という状況である。また対局後、長年プロ棋士としてトップに居続けている森内俊之は、『経験したことのない将棋が多く、難しかった』と発言している。
このエピソードだけで、将棋というのがどれほど難しいのか伝わることだろう。だからこそ、コンピュータソフトがプロ棋士を打ち破るという現実が凄まじいことだと思える。本書には、そんなコンピュータソフトとの対局を行った棋士のエピソードも載っている。
『彼らは「君の夢は極限まで努力しても叶うまで十年はかかる。むしろ叶わない可能性のほうが高い。失敗した場合の保証は何もない。やり直しの機会もない」という神様の声を聞きながら、夢を追い続け、明日のわからない勝負に討って出た勇者だった。』
将棋のプロ棋士というのは、年に4人(状況次第では4人以上のこともあるが)しか生まれない。東大に入るより遥かに難しい、と言われるほどの超難関なのだ。しかもそこに辿り着くためには、ありとあらゆる犠牲を払って膨大な時間を注ぎ込み、壮絶な戦いを繰り広げ続けなければならない。しかも、そうやってたどり着いた場所が、まだスタートラインなのだ。その先に、羽生善治を始めとする化物たちがうようよいる。そんな中で闘っていかなければならない。
棋士というのは、本当に凄まじい仕事なのだなぁ、と思う。
本書を読んで初めて知ったのが、中村太地だ。いや、中村太地のことは知っていた。NHKの将棋講座で乃木坂46の伊藤かりんと一緒に喋っている人だ。知らなかったのは、中村太地がそんなに強い棋士だった、ということだ。2012年には歴代2位の0.851(40勝7敗)というとんでもない勝率を残したし、タイトル戦にも出ている。まだ若い棋士だし、テレビで見ている限りにおいてはほんわりとしたスマートな印象しかなかったから、そんなに強い棋士だというのが意外だった。
意外ではなかったのは、彼の人柄だ。いや、想定以上ではあったのだが。棋士は基本的に良い人が多いようだが、中村太地は著者とのいくつかのエピソードだけでも、良い人感が溢れ出ている。羽生善治も、相当な人格者のようで、女流棋士でありながら棋士を目指す里見香奈(基本的に「棋士」というのは、奨励会を経てプロになった人を指し、今まで女性で「棋士」になった人はいない)の就位式でのエピソードなどは素晴らしいの一言に尽きるという感じだ。
さて、そんな風に様々な棋士と付き合いのある著者だが、元々将棋が好きだったわけではないという。
『多くの人と同じように、私は将棋という存在とは無縁の人生を歩んできた。学校の囲碁将棋部員に友人がいた経験はないし、桂馬は後方にも跳ねる能力を持つ駒なのだと長らく信じて疑わなかった。(中略)
勝負の世界について自分の手で書いてみたいと願い、報知新聞社に入社してからも、将棋という勝負の形が存在することに気付きもしなかった。正直、自分の会社が女流名人位戦(2014年度から女流名人戦)というタイトル戦を主催していることも入社当初は知らなかったし、知ったところで興味すら抱かなかった』
そんな状態から、よくもまあこれほど深く将棋に関心を持つまでになったものだ、と思う。やはり将棋には、知識がなくても感じ取れてしまう、人間の業みたいなものがほとばしっているということなのだろう。
そう、将棋は生き残るとも言える。コンピュータソフトにいくら負けようが、やはり僕たちが知りたいのは、生身の人間がどう戦いに挑んでいくのか、ということなのだから。
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