【本】加藤文元「宇宙と宇宙をつなぐ数学」感想・レビュー・解説
今回紹介する本は、加藤文元「宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃」だ。「数学の本かよ。興味ねぇ」と思った方、少しだけ待ってほしい。今回の記事では、「IUT理論」そのものの説明はしない。
では何について書くのか。それは、「斬新すぎる新たな価値観と出会った時、人はどうあるべきか」について、そして「斬新すぎる新たな価値観の誕生を知り、今後どう受け入れられていくかを期待する」ことについて書いていきたいと思う。
「IUT理論(宇宙際タイヒミュラー理論)」は、それが発表された際、衝撃をもって迎えられた。何が凄かったのかについては、数学的な話をせずにあとで説明するつもりだが、まずはその前に、現時点での受け取られ方について、本書からこんな引用をしてみよう。
【欧米や日本も含めて、世界中の多くの数学者たちにとって、IUT理論の受け止められ方はさまざまですが、多くの場合、次のような印象をもたれている感があります。「IUT理論とは単に新奇な抽象概念が恐ろしく複雑に絡まり合っている理論装置で、その中身はあまりに複雑なので、それをチェックすることは人間業では到底困難である」。したがって、だれもその真偽をチェックできない以上、これ以上まともに請けあってもしょうがないと、多くの数学者たちは考えているようです】
この引用に登場する「数学者」というのは、当然、第一線で活躍する、僕ら凡人からすれば意味分かんないぐらい頭が良い人達である。そしてそんな人達が、「IUT理論」はお手上げだ、と言っているというのだ。そして本書は、そんな「IUT理論」を一般向けに説明する本なのだが、そんな話を聞くと、「いや、無理でしょ…」と感じる人がほとんどだろう。
しかし、僕は理系ノンフィクションが好きで、かなり読んできた方だと思うが、本書ほど分かりやすく書かれた数学書はなかなかないと思う。もちろん、「数学が嫌いだ」という人にはオススメしないが、「数学は決して得意ではないんだけど、興味はある」という人であれば、十分についていける内容だ。本書の著者は、「IUT理論」の提唱者である京都大学の望月教授と親しい現役の数学者だが、通常、数学者が書く数学の本というのは、どうしても難しくなってしまう傾向があると僕は思う。しかし本書は、これでもかというぐらい易しく書かれている。もちろん、「IUT理論」そのものが恐ろしく難しいから、決して「簡単な本だ」とは言えないが、その難しい世界観を、可能な限り噛み砕いて説明してくれている。凄まじい本だ。
本書が易しく描かれている理由は、本書の成立過程を知ればある程度理解できるだろう。本書は、ドワンゴの社長である川上量生氏が個人的にスポンサードしている数学イベントの目玉企画として、本書の著者に、「IUT理論」を一般向けに分かりやすく説明してほしいと依頼したことがきっかけで生まれた。その模様はニコニコ動画で配信もされたが、日本語での講演だったこともあり、諸外国からも高い関心が寄せられたものの、なかなかうまく伝わらなかった。この理論が日本発だということもあり、きちんと書籍化して、日本からこの理論を発信していきたい、という川上氏の思いを受けて、多忙な中でその役割を著者が引き受けたという。
さてそれでは、何故「IUT理論」に注目が集まったのかについて説明をしよう。それは「ABC予想」と関係がある。これは、現代数学に残っている未解決問題の内、「最も重要」とも言われる予想だ。その重要性について、僕がきちんと説明できるわけではないが、理由の一つは説明できる。それは、「ABC予想」が正しいと証明されれば、いくつかの難問が正しいことになる、というものだ。例えば、「シュピロ予想」や「フライ予想」と言ったものは、「ABC予想」さえ正しいことが証明できれば、自動的に正しさが証明されるという。
また「ABC予想」には、「強いABC予想」というちょっと異なるバージョンも存在する。そして、もしこの「強いABC予想」が正しいと証明されれば、あの誰もが名前ぐらいは聞いたことがあるだろう「フェルマーの最終定理」が一瞬で証明できてしまうという。「フェルマーの最終定理」は、ワイルズという数学者が7年の歳月を掛け、100ページ以上の論文にまとめたもので、「代数幾何学」や「数論」などの様々なテクニックを使って証明がなされた。しかし「強いABC予想」が正しければ、その証明が10行程度で出来てしまう。僕はその証明を読んだことがあるが、僕程度でも理解できるほど、簡単な証明だった。
「ABC予想」というのは、それぐらい包括的な予想なのだが、しかしそれ故にあまりにも難しく、「IUT理論」の登場まで、解決の糸口はまったく見つかっていないような予想だった。
「IUT理論」は、この超絶難問の「ABC予想」を証明する手法として注目を浴びることとなった。つまり、「IUT理論」を使えば、「ABC予想」が証明できるということだ。現時点ではまだ、「IUT理論」の正しさは認められていないので、「ABC予想」も証明されたという状態にはなっていない。しかし、もし「IUT理論」が正しいのなら、あの「ABC予想」が解決する……この事実が、「IUT理論」が衝撃をもって迎えられた非常に大きな理由だった。
しかし、「IUT理論」を理解するためには大きすぎる障害がある。
望月教授は、2012年8月30日に自身のHPで「IUT理論」を公開した。しかしそれは、600ページにも及ぶ長大なものだった。しかもこの論文は、それまで望月教授が発表した論文を下敷きとしていたために、「IUT理論」の論文そのものを含め、読むべき論文は1000ページ近くにもなる、という。
さらにこの「IUT理論」は、とある数学者が「まるで未来からやってきた論文」と言ったくらい、それまでの数学の常識を遥かに超越する内容だった。使われている用語そのものや扱われる概念が馴染みのないものばかりだったのだ。それら一つ一つの概念を理解するだけで一苦労なのだ。
例えば、僕なりに「IUT理論」を要約すると以下のようになる。
【複数の数学世界同士の通信を考えた時、その通信による情報の歪みをある不等式で表すことが出来る】
この文章そのものは理解しなくていいが、数学者たちにとって、「複数の数学世界」「通信」「情報の歪み」などが、これまでの数学の世界では存在しなかった新しい概念なのだ。このように、論理展開やアイデアが難しいというだけではなく、「IUT理論」という世界観そのものがあまりにも斬新すぎるが故に、受け入れがたさが勝ってしまう、という状況になっているのだ。
僕らも、あまりにもこれまでの常識とかけ離れたものが目の前に現れた時、それに対してどう振る舞うべきか悩んでしまうことはあるだろう。製品やサービスなどであれば、消費者にとって使いやすいように練り込まれてから提供されることが多いだろうからそこまで問題にはならないだろう。しかし、社会の劇的な変化や、異なる文化の人たちとの関わりなど、ついていけない現実に出会うことはある。「IUT理論」の場合、読むべき論文が1000ページ以上もあるという別の問題もあるため、同列で語るわけにはいかないが、「受け入れがたい」という感覚で遠ざけていれば、新しいものは何も生まれなくなってしまう。著者は、そうした現状を憂え、「IUT理論」の普及や理解のために本書を記している。そういう思いがあるからこそ、本書では、「IUT理論」がどのように「ABC予想」を証明するのか、については書かれていない。あくまでも、「IUT理論」がどういうものであるのかについて、噛み砕いて噛み砕いて噛み砕いた説明をしてくれるのだ。
「IUT理論」について著者は、
【おそらく数学史上に匹敵するものを見出すことが難しいほどの、巨大な影響力をもつイノベーションを起こそうとしている】
と書いている。もちろん、「IUT理論」が正しいかどうかなど、僕には判断できないが、「正しいと判断される日」を待ち望むことくらいは出来る。そして、その日は恐らく、数学にとって新しい歴史がスタートする日になるのではないだろうか。数学に興味がなければ、そんな日のことはどうでもいいかもしれないが、「IUT理論」がもし正しければ、望月教授は大数学者として、永遠に数学の歴史に刻まれることになるだろう。僕が生きている内になんとか正しさが証明されてほしいと願うばかりである。
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