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【本】榎本憲男「ブルーロータス 巡査長真行寺弘道」感想・レビュー・解説

いやはや、相変わらず、信じられんぐらい面白いな!

本書の核となるテーマの一つに、「宗教」がある。より具体的に言えば、本書ではヒンドゥー教が、非常に重要な要素として登場する。インドという国において、ヒンドゥー教はどういう立ち位置にあるのか、社会構造にどんな影響を及ぼしているのか、と言ったことから、宗教というものの支えがなければ人生や社会を成り立たせられないのは何故なのかという分析まで、「宗教」という切り口から非常に面白い話がたくさん飛び出てくる。

しかし、本書で僕が一番感心したのは、そういういわゆる「宗教」(本書では“ガチ宗教”という名前で呼ばれている)についての部分ではない。“ガチ宗教”と対比する形で登場する“宗教っぽいもの”の方の話である。これがメチャクチャ面白かった。いや、AIとかに関わっている人からすればある種常識的な話だったりするのだけど、なるほど確かにそういうことは考えなければならないし、その思考の先に生まれてくるものがあるな、と感心しました。

本書で描かれている“宗教っぽいもの”を突き詰めることで何が生まれてくるのかというと、それは「神」です。本書の中である人物が、【新しい“神”が出現する】と発言しています。この話が、べらぼうに面白かった。

“神”とは何か、という話になると、それはもう色んな学問・宗教の分野からあーだこーだ様々な話が飛び出してくるのだろうけど、本書の中では便宜上、分かりやすい定義が与えられています。それは「みんなが“神と呼ぶもの”」です。“神”とは、みんながそう呼べば神である、ということですね。だから、「ロックの神様」なんかも、世界中のほとんどの人がそう思っているのであれば、そう呼ばれている人は“神”ということになるわけです。

ではこれから、一体どんなものから新しい“神”が生まれてくるのか。それがAIです。何故AIが“神”と呼ばれるようになるのか、その説明はしちゃいたいんだけど、ちょっとそこまで書くと内容を明かしすぎという感じがするので止めておきましょう。

そこで、関連するかもしれない別の話をしましょう。これは、とある将棋の本の中に出てきたエピソードです。

今ではプロ棋士もAIを使って研究をしています。AIは、指した手やその時々の局面の良し悪しを数値化することが出来る。ある局面において、ある手を売った時、その手が良い手なのか悪い手なのか、数字で教えてくれるわけです。

その本に載っていたプロ棋士は、こんな話をしていました。ある局面である手を打った時、AIの評価値はとても高かった。だから当然その手は「良い手」のはずです。しかし、実際にその手を打った後の展開を見ると、薄氷を踏むようなギリギリの指し筋なわけです。決してミスをしないAIにとっては、指し切れる手であり、だから当然「良い手」ということになるわけですが、同じ手を人間が打とうとすると、あまりにも難解すぎて途中でミスをしかねない。そういう意味で言えば、AIにとっては「良い手」であるその手は、人間にとっては「悪い手」でもあり得る、というわけです。


この話を読んで、なるほどなぁ、と感じました。この話の肝は、「AIがどう判断しているのか分からない」ということです。AIというのは現在、自ら学習するようにプログラムされています。例えば、AIに猫の画像を見せ続けるとします。すると、AIは勝手に猫の特徴を分析し始め、しばらくすると、今まで見せたことのない画像が「猫かどうか」を判定できるようになるわけです。学習によって習得しているので、プログラムを組んだ人間側も、AIがどういう判断で猫かどうか判断しているのか分からない、ということになります。

AIが世の中を席巻していく世の中はもうすぐ傍まで迫っています。つまり僕たちは、「人間からはどう判断しているか分からない存在に、生活の大部分を依存する社会」に生きることになるわけです。

僕は、このこと自体は以前から認識していたし、だからこそAIに判断を預けっぱなしにする怖さを感じていたし、人間が人間として生きるためには、たとえミスや犠牲が多くなるとしても、人間自身が判断する領域を手放しすぎてはいけないと思っていました。

しかしです。本書を読んで、その先があるのだ、ということを知りました。「AIがどう判断しているのか分からない」ということの先に、新しい“神”の出現があるわけです。そしてその“神”は、結局のところ人間が生み出すわけであり、あまつさえ人間が“神”をコントロールする余地さえある、という状況さえ生むわけです。

正直僕は、本書で描かれている新しい“神”について考えたことがありませんでした。確かに、本書を読んでいると、それは実務上出現して当然の“神”だな、と思います。思いますが、やはり自分ではそこまで思い至らなかったですね。

そしてこの新しい“神”の存在が、なんとヒンドゥー教と結びつくわけです。この構成は天才的だな、と感じました。AIとヒンドゥー教を、新しい“神”というリンクによって結びつけることで、あらゆる行動の動機が非常にシンプルになり、そして同時に刑事である主人公の悩みは深まっていく、ということになるわけです。いやー、見事だなぁ。

もしも自分が、新しい“神”の設計者(本書に登場するとある人物)だとしたら、と考えてみると、なんというのか、同じ発想で同じ行動を取りそうだな、という気はします。考え方としては非常に分かりやすいし、乗り越えようがないはずのシステム闘う手段として真っ当な気がしてしまうし、もっと単純に言えば、いいんじゃないのそれぐらい、と思ってしまう気持ちもやはりあるわけです。


しかし一方で、主人公の刑事の葛藤も、どちらかと言えば共感できないけど、まったく分からないわけではありません。彼が危惧していることの本質的な部分をうまく言語化出来ませんが、「インチキな気がする」という本書の表現は、なんとなく分かる気がします。たぶんこの刑事が抱いている違和感は、「台風が意志を持って、壊滅させたいと思っている都市を狙って上陸する」という表現に感じる違和感に近いのではないか、と思うのです。そんなことはあってはならない(何故“あってはならない”のかはうまく説明できないけど)し、台風に関して言えばあるはずがない(何故“あるはずがない”と信じられるのかも疑問ですが)のだけど、でも彼が直面することになってしまった現実では、そういうことが起こっている(今後間違いなく起こると確信出来る)わけです。本書を読んだ僕の結論は、その違和感は飲み込むしかないんだろうなぁ、というものですが、しかしこの刑事が飲み込めないで納得行かないでいる様も、分かる気がします。

とここまで、とても抽象的な言い方であーだこーだ書いてきましたけど、今ここで書いたような本書の本質的な部分は、物語の中盤以降で結構出てくるので、やはり具体的な内容に触れるのは憚られます。そんなわけで、ほぼ何を言っているのか分からない文章だと思いますが、読み終わった人なら何か感じ取ってくれるんじゃないかな、と思います。

内容に入ろうと思います。
警視庁捜査一課の真行寺弘道は、53歳にして“巡査長”という、警察組織の中で最も低い階級にいる。そもそも捜査一課にいながら巡査長という肩書きの人間など普通いるはずがなく、真行寺は警察組織で新しい人物に会う度に驚かれることになる。真行寺は、とある信念を持って昇進試験を受けずにいて、課長で上司の水野玲子がうまくとりなしてくれているから、どうにか刑事部でやり過ごせているのである。
そんな真行寺は、フラッと立ち寄ってみた母校の大学で、ちょっとした事件に遭遇してしまう。真行寺が所属していた音楽サークル出身で、偉大なフォークロックミュージシャンの孫である巽リョート(芸能人である)が、下っ端の取り巻き連中に高校生を殴らせていたのだ。もちろん、真行寺は下っ端が殴っていたところしか見ておらず、巽リョートの関与を明確に証明出来ないわけだが。殴られていた高校生は、インディーズ界隈ではちょっとした有名人であり、一人で「愛欲人民カレー」というユニットをやっていて、人気があるのだという。森園みのるというその高校生と、成り行きでカレーでも食べようという話になり、森園の彼女がバイトしているというインド料理屋「マドラス」へと向かうが、閉まっていた。仕方なしにそのまま帰ることになったが、その途中で真行寺はパトカーと救急車の姿を見かける。どうやらインド人が殺されていたようだ。その殺され方が気になった真行寺は、その事件に勝手に首を突っ込むことにした。森園の彼女である白石サランが「マドラス」の鍵を持っているというので入ってみると、そこで血痕を見つけた。しばらく休業している「マドラス」と、インド人殺害が結びついた。真行寺は、白石から聞いたトラブルの中で「宗教上の理由」という言葉が出たことを聞き、嫌な予感を抱きながらも、とりあえず大学時代の宗教学の教授である島村隆明の元を訪れるが…。
というような話です。


ホント、これだけ書かれても、どうやって「AI」とか「新しい“神”」とかが出てくるんだか、全然分かりませんよね。いやホント、不可思議な物語なんですよ。

ホント、どこから物語を構築しているんだか全然分からない。本書の発想の端緒は、一体どこなんだろう?どこから考え始めれば、こんな訳わからん物語が生まれるんだろう。不思議だ。

本書の核となる部分については、ぼやかしながらではあるけどこの感想の冒頭であーだこーだ書いたので、そうではない表面的な部分に触れていこうかと思います。

本書は、シリーズの2作目で(前作を読んでなければ分からない、ということはないのだけど、1作目と共通する黒木という人物が登場するので、順番通り読む方が、黒木という人物については理解しやすいと思います)、このシリーズはとにかく、「警察小説」という概念から大幅にはみ出している。

普通「警察小説」と言えば、「膨大な聞き込み」「すり減った靴底」「現場百ぺん」みたいなイメージだろう。現代がいくら技術が進歩したと言っても、基本的に警察の捜査は人海戦術がメインなのだと思う。もちろん、知能犯罪を追うような、ハイテクを駆使する部署もあるだろうが、殺人事件を扱う捜査一課が登場するのであれば、基本的には人海戦術が基本だろう。

しかし本書には、そんな要素はほぼ存在しない。というか、真行寺弘道という刑事が、とにかくまともな捜査をしない。どれほどまともな捜査をしないか、ということが分かる、上司との会話をいくつか抜き出してみよう。

【「それは例によって―」
「勘です」
「状況証拠も―」
「ない」】

【―妄想ね。
「ええ、先にお断りした通りです」
―けれど、先に断っておきさえすれば捜査に妄想を持ち込んでいいってことにはならない】

こんな風に真行寺弘道は、「勘」とか「妄想」を頼りに捜査をしている。正直言って、無茶苦茶だ。

ただ、そんな捜査方法を「まあしょうがないか」という気分で読ませてしまうのには理由がある。それは、「通常の捜査ではまず真相に辿り着くのが不可能な事件」が描かれているからだ。

シリーズ1作目では、真行寺は違法捜査をしまくった。この場合の違法捜査というのは、よく悪徳刑事が登場する小説で描かれるような「カネ」とか「暴力」とかではない。どういう違法捜査なのかは是非読んでほしいが、とにかく、通常であれば許されない捜査手法(というか、真行寺にしたところで許可を取ってそういう捜査をしているわけではない)を駆使して真相を暴き出そうとする。正直、そんな風にしなければ立ち向かえない存在なのだ。


本書も同じである。通常のやり方ではまず理解できない事件だ。いや、犯人は分かっているし、犯人の居場所も大まかには分かっているという意味では難しい事件ではないのだけど、「何故そんな事件を起こしたのか」「ある人物を共犯として罪に問えるか」「実行犯をどう処罰すべきか」などの部分が、通常のやり方ではまず理解できない。本書は警察小説なのに、途中で宗教の講義が唐突に始まって面食らうが、しかし確かにそういうアプローチでしか真実にたどり着けない事件なのだ。

だからこそ、真行寺のやり方を「無茶苦茶だな」と思いつつも、受け入れている自分に気づく。まあしょうがないよ、普通のやり方じゃ無理だし、それに真行寺は巡査長なんだから、そういうムチャも、まあ出来ちゃうよね、みたいな妙な納得感があるのだ。そういう意味で、「53歳にして巡査長」という設定も、実に良く考えられた設定だと感じる。

あと面白いのは、本書のメインの物語と並行して語られる、大学構内で起こるちっぽけな事件だ。途中から「ちっぽけな」なんて言えない展開になったりもするんだけど、ただ基本的には、「ムカつくから殴った」程度の、深みがあるわけではない揉め事なのだ。しかし、本書を読むとなんとなく分かると思うのだけど、大学構内で起こった些細な揉め事があったからこそ、真行寺はメインの事件の真相にたどり着けた、とも言えるのだ。見方を変えると、メインの事件と学内の揉め事は、ある意味で構図が似ている。インドや北海道など、文化的・物理的な距離がある土地を舞台にして展開されるメインの事件は非常に掴みにくいが、学内の揉め事は、森園という男と仲良くなることで、関係者の関係性や状況の進展具合をほぼリアルタイムで知ることが出来る。そして、そこからの類推の助けもあって、メインの事件への想像が及ぶことになるのだ。この構成も実に巧いと思う。

あと、本書を読んでいて印象的なのは、若者の描き方だ。本書の著者は、60歳近い。大体そういう年代の人が書く「若者」というのは、古臭くて全然今っぽくないことが多い。一昔も二昔も前の「若者」のイメージのまま描かれている小説を読むと、ちょっとげんなりしてしまうことがある。

しかし本書は、僕が捉えている「若者」の感じと凄く近い。僕が今の「若者」をどれだけ正確に捉えられているかは分からないが、少なくとも僕が読んでまったく違和感を覚えないほどに、今の若者っぽさを正確に捉えているな、と感じる。60歳の著者がそういう若者っぽさを正確に捉え、それを言語で表現できる、というのは、僕にはちょっと驚異的なことのように感じられる。

真行寺の視点で捉えられる「若者」は、「理解しにくい部分がある存在」として描かれるのだけど、しかし真行寺は、そんな「若者」たちを排除せず、「自分に理解できないからと言って否定するんじゃなくて、そういうものだと受け入れる」という姿勢で関わっている。そういう姿を描き出すことで、「真行寺弘道」という、53歳にして巡査長であり、また事件に対して異質なアプローチをする人物像に一層のリアル感を与えているように感じられる。「若者」をリアルに描き、その「若者」とフラットに関わるおじさんを描き出すことで、「真行寺弘道」という人物の存在感が増すのだ。

そしてこの「若者が今っぽい」という要素と、この感想の冒頭であーだこーだ書いたような「哲学的な思考が展開される」という要素が、僕には森博嗣の小説を連想させるのだ。会話の「外し方」なんかも森博嗣っぽいなと感じる部分があって、森博嗣好きな僕としては、そりゃあドンピシャだよな、という作品である。

しかし本書の欠点は、「本書はどう見ても普通の警察小説にしか見えない」ということなんだよなぁ。この作品は恐らく、森博嗣が好きな人が面白がってくれる作品だと思うのだけど、本書があまりに警察小説的な外見をしているから、森博嗣ファンは恐らく似た匂いがする本として本書に手を伸ばすことはしないだろう。一方で、警察小説だと思って本書を読んだ人は、「なんだよ、全然警察小説じゃねーじゃねーか」と不満を抱くことになるような気がする。もちろん、「警察小説」というジャンルは、まだまだ固定的な売上が見込めるので、「警察小説」的な外見にしておくことで、「正しい読者」の元に届く確率は減るかもしれないが、一定以上の読者は獲得できるような気はする。そのことの利点と、「正しい読者にきちんと届く外見にする」ことの利点を比べてどちらに軍配が上がるのかは分からないのだけど、今の外見だとほぼほぼ「正しい読者」に届く可能性はない、と考えると、やっぱりもったいないなぁ、と気分になってしまうのだ。

このシリーズ、「真行寺が活躍する必然性のある事件や舞台設定を生み出すこと」が凄く難しい気がするので、なかなか量産出来ないかもしれないけど、いくらでも読んでみたいと思わせてくれる小説だなと思います。


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