【本】売野機子「ルポルタージュ」感想・レビュー・解説
「恋愛」というのはどうも、「恋愛」という名前が付いた瞬間に別のものに変わってしまうみたいだ。
いつも、そんなことを感じてしまう。
今の僕は、もう、恋愛はいいや、と思っている。少ない経験値しかないが、自分の経験から、恋愛は向いていないな、という結論に至った。
僕は、友達として女性と関わるのは好きだし、他の男と比べれば断然得意だとも思う。女性の集団の中に、割と違和感なく入っていける。女性と関わるのが苦手、というわけでは全然ない。また、セックス的なものにもちゃんと関心はある。性欲がないから恋愛は要らない、と考えているわけではない。
僕が苦手なのは、「恋愛」という名前が付いてしまった時点で、「しなければならないこと」「してはいけないこと」が“暗黙のうちに”規定されてしまうことだ。
例えば、セックス的なことに関心はあるが、それが「しなければならないこと」になってしまうと、面倒くささを感じる。そして僕にはどうも、「恋愛」という名前が付くと、セックスはしなければならない、と感じられてしまう。
しなければならない、というとちょっと感覚がズレる。僕の中では、「恋愛」における「セックス」は、「愛の確認作業」であるように感じられる。つまり、セックスをすれば好き、セックスが出来なくなれば嫌い(あるいは関心が薄れた)ということになる、という了解があるように感じられる。僕は、そこが結びついてしまうことが嫌だな、といつも感じてしまう。別にセックスなんて、したければすればいいし、したくなければしなければいいと思うのだけど、「恋愛」というステージにおいては、するかしないかで「愛」が測られてしまうようなイメージが僕の中にある。それは、とてつもなく面倒くさい。
また、「恋愛」になると、他の女性と二人で会ったりすることがダメになるようだ。正直なところ、僕にはその意味がよく分からない。
何故なら僕は、恋愛に「排他律」を持ち込むつもりがないからだ。
排他律というのは、「Aでなければ必ずB」「Aならば必ずBではない」というような論理のことだ。例えば、赤と白のボールが一つずつ入っている箱があるとする。この例を使えば、「取ったボールが赤でなければ必ず白」「取ったボールが赤ならば必ず白ではない」となる。こういうのを排他律という。
多くの人が、恋愛において排他律を採用しているようだ。どういうことかと言えば、「私以外の異性と二人で会っているなら、私のことはもう好きではない」と判断しているからだ。これはまさに排他律だと僕は思う。
僕は、もっと可能性があると思っている。別に、「◯◯と☆☆が同時に好き」という可能性だってあっていいと思っている。先程のボールの例をまた使えば、箱の中に追加で青のボールを一つ加えると、「取ったボールが赤でなければ必ず白」という論理は崩れる。だって、青である可能性もあるからだ。しかし恋愛においてはどうも、多くの人が、この青いボールのような選択肢を排除したがるようだ。
僕にはこれがめんどくさく感じられる。
こんな風に、「恋愛」という名前が付くことで、「しなければならないこと」「してはいけないこと」が自然と規定される。そして、その規定の範囲内の振る舞いをしなければ、社会的な評価さえ下がる可能性もある(芸能人や政治家などがそういうことで評判を落としたりする)。うわぁ、めんどくさ、と思ってしまうのだ。
そんなわけで、今の僕はもう、積極的に恋愛しようという気持ちはなくなっている。さっきも書いたみたいに、女性の集団に入り込んでいくのは割と得意だから、セックスさえ除けば異性と関わる機会は普通に作ることが出来るし、性欲はまあなんとでもなる。
そもそも僕は、まったく結婚願望がないのだけど、仮に結婚を目指すとしても、恋愛にしようとは思わないだろう。何故なら、「恋愛的に気が合う人」と「結婚的に気が合う人」が合致するとは、僕にはどうしても思えないからだ。
恋愛や結婚に何を求めるのかは人それぞれ様々だろうが、僕には割とはっきりした感覚がある。恋愛には、「底知れぬワクワク感」を求めているし、(する気はないけど)結婚には、「一切気を使わない空気感」を求めている。
僕は、恋愛相手のことを「理解したい」と思うことはない。基本的には、永遠に理解できない存在でいて欲しいと思っている。その方が面白い。いつ会っても、まだそんな面があったの!と感じるような振る舞いをして欲しいし、そんなこと考えてたんだ!と思うような発言をして欲しい。捕まえようとしても捉えきれない底知れなさみたいなものを強烈に求めている。
一方、もし結婚するとしたら、相手の存在を無視し続けても自分の心が傷まないような相手がいい。こう書くとなんか酷い表現に思えるかもしれないけど、そういうつもりはない。僕はどうしても、誰かといる時には、相手基準で物事を考えてしまう。相手が楽しいか、相手が不快ではないか、相手が負担に感じていないか、みたいなことばかり考えてしまう。もうこれは性格の問題だからどうにもならない。ただ時々、あ、この人は、ホントに全然何も考えずに接しても大丈夫な人だな、と感じられる人がいる。こう感じさせてくれる人は、決して多くはないのだけど、時々いる。で、長いことずっと一緒にいるなら、そういう人がいい。
こんな風に僕は、恋愛と結婚に求めていることがまるで違うので、恋愛から結婚に至るイメージがまったくない。万が一僕が結婚するようなことがあったら、突然結婚するんじゃないかな、と思う。え、あんたたち付き合ってたの?と周りに思われるぐらいの感じになるんじゃないかと思う。
「恋愛」というのは、いつの時代も、特別素晴らしいものであるように扱われる。僕も、20代の頃は、恋愛したいと思っていた。そして、実際に恋愛をする機会があったからこそ、今こうして、恋愛なんかいいや、なんて言っていられるのだ。もし僕に恋愛経験がまったくなかったとしたら、やっぱり、恋愛したいと今でも思っているだろうと思う。そういう意味で言えば、恋愛経験を持てたことはとても良かったと思うし、ありがたいと思っている。
今僕はなんとか、女性との関係性に「恋愛」という名前が付かないことを祈っている。別に、他の名前を欲しているわけでもない。とりあえず、既存の概念では名付け出来ないような、そんな名前の付けがたい関係性でいられたらいいなと思っている。そういう努力を地道にしている僕だからこそ、この物語で描かれている設定は、非常に親近感があったし、興味深いものだった。
内容に入ろうと思います。
舞台は、2033年の日本。それは、恋愛を“飛ばし”て結婚する人が大多数となり、独身男女の未恋率は70%を超えるような時代だった。そんな社会においては、結婚マッチングシステムによって結婚相手を見つけるのが主流で、中には、一緒に住みながらお互いの相性を理解し合う、主体性のあるお見合いを実現できるシェアハウスまで登場した。非・恋愛コミューンとして記事に取り上げたことがあるのが、中央新聞社会部で記者をしている絵野沢理茗だ。
絵野沢は、先輩女性記者である青枝聖が退職するつもりだと聞いて動揺する。「(事件の)発生があるとワクワクするね」と言ってしまうような人が、警察常駐から外されてしまったからだ、と周囲は見ている。
そんな折、先のシェアハウスで事件が起こった。カラシニコフを乱射し、死者多数、容疑者は既に確保されているという。過激思想テロ組織XXXから犯行声明が出されるなど、大騒動に発展したこの事件で、絵野沢と青枝はコンビを組んでルポルタージュを書くこととなった。シェアハウスで犠牲になった住人の周辺の人間を取材して、その人となりを記事にするのだ。絵野沢は上司から、このルポルタージュが続いている間に、青枝の退職を思いとどまらせろと言われている。
“飛ばし”が当たり前になった世の中で、誰もが「恋愛」を遠いものだと思っている中、仕事仕事で働き詰めだっただろう青枝が、恋に落ちた…。
というような話です。
これは面白かったなぁ。これは、人に勧められて読んだ。自分が恋愛に対してどう考えているのかを話す機会があって、その相手から、だったらこれ読んでみてと勧められたのだ。作中では様々な価値観が描かれるので、その全部に共感しているわけではないけど、このマンガの舞台設定は非常に僕の感覚に沿うものだし、非常に興味深かった。
作中の登場人物の一人が、こんなことをいう場面がある。
『やっぱ、私達みたいな結婚適齢期が恋愛をしていたらバカみたいな雰囲気あるじゃないですか』
この一言が、彼らが生きている世界を端的に表現していると感じた。仕組みや制度だけあっても、人間は変わらない。このマンガで描かれている2033年は、仕組みや制度ではなく、既に人間の意識が大転換している世の中なのだ。「結婚適齢期にいる人が恋愛をしていたらバカみたいに思われる雰囲気」というのは、やはりまだまだ「恋愛」というものの力が強い現代では成り立ちえないだろう。むしろ、結婚適齢期にいるんだから「恋愛」しなさい、みたいに思われるのが僕らのいる世界だ。それとはまったく真逆の世界が、このマンガの中では成立しているし、それが成立しうると感じさせてくれる点が非常に面白い。
そう、この物語は、決して起こり得ないSF作品なわけではなくて、僕は、僕らが生きているこの世の中の延長線上にある世界だと思っている。それが2033年までにやってくるのかどうか、それは分からないが、地続きであることは確かだと思う。絵野沢はこう言っている。
『しかし楽な時代になったと思いませんか?結婚も、WEBで手軽にマッチングするシステムが定着しつつありますし、恋愛へのプレッシャーも減って、若者の自己肯定感も回復傾向にあると聞きます。いずれ少子化に歯止めがかかる…。いい時代です。』
この感覚を、まったく理解できない人もたくさんいるだろう。しかし、若い世代になればなるほど、たぶん共感できる人は増えてくるのではないかと思う。実際に、恋愛経験がないという男女が増えているというニュースをテレビでみたことがあったし、でも結婚したい人は相変わらず多いという。であれば、このマンガで描かれているような世界への需要は潜在的にあるのだろうし、需要があるものはいずれ実現するだろう。
作品の舞台設定も絶妙だ。この2033年という世界は、まだまだ新しい価値観への移行期のようで、絵野沢には恋愛の経験もないしその期待もないのだけど、青枝には、厳密には描かれていなかったと思うが、恐らく過去に恋愛経験がある。“飛ばし”に反対する人もまだ少なくない数いるようだし、だからこそ様々な価値観が局所的に入り混じっている世界が作られている。だから、価値観同士の衝突も起こりうるし、結果的にシェアハウスでの大事件のようなことも起こる。
物語は、絵野沢と青枝がルポルタージュのための取材をするのと同時に、青枝が取材対象者と出会い恋に落ち、その様子を見て絵野沢が「嫉妬(カッコに入れたのは、本人がそれを嫉妬であるかどうか理解していないため)」を感じる、というのをベースに展開されていく。ルポルタージュそのものも、非・恋愛コミューンを舞台にした事件であるが故に、取材によって恋愛や結婚に対する様々な価値観が浮き彫りになる。一方、絵野沢にしても青枝にしても、「恋愛」というものに絡んだ、長らく感じたことのない(あるいは初めて感じる)感情に振り回され、自分が今まで正しいと信じてきた価値観が揺さぶられる。そしてその過程で、「恋愛なんて、別に要らないよね」という態度が、ある種の「強がり」「虚構」「欺瞞」である可能性が示唆され、社会全体が自らの手で自らの感情に蓋をしてしまったかのような、そういうのっぺり感さえ抱かせる。
明白な結論が用意されないからこそ、誰もがきっとこの物語のどこかに自分を配置出来るのではないかと思う。この世界に賛成でも反対でも、恋愛を“飛ばす”という在り方について考えて、感じてみることは、あなたが当たり前のように抱き続けてきた価値観を自然と揺さぶるかもしれないと思う。