【映画】「彼女がその名を知らない鳥たち」感想・レビュー・解説
実にざわざわさせられる映画だった。
僕は、何かの存在に依存するということに怖さを感じる人間だ。人でもモノでも概念(宗教など)でもなんでもいい。それがないと生きていけない、困る、苦しい…そういう存在を出来るだけ減らしたいと思ってしまう。
極端な話をすれば、「家族」というものへの嫌悪感みたいなものも、この「依存」の話で説明できてしまう。家族というのは、子供が生まれたり離婚したり誰かが死んだりすることで、どんどんと変化していく。家に帰ってくれば当たり前にいるはずの存在が、時間や状況の変化によっていなくなってしまう。たぶん僕は、そういうことが怖いんだろうなと思う。
世の中には、何かに依存しないと生きていけない人がいる。僕の周りにはそういう人はあまりいなかったけど、あまり深く関わらないながらも、近くにそういう人がいたことはある。恋愛体質だと自分で言っていて、恋愛をしていないとダメ、という女性だった。あるいは、「マザコン」みたいなのも、依存と呼んでいいだろう。
この映画の主人公である北原十和子も、そういうタイプの女性だと思う。個人的には、苦手なタイプだ。誰かの善意や好意に寄りかかりながら生きている。別に、関わっている人に迷惑を掛けていないのであれば問題ないんだろうけど、なんとなく受け入れがたい。
この映画を観てざわざわさせられたのは、佐野陣治という男の存在が大きい。陣治と十和子は一緒に暮らしている。結婚しているわけではないようだ。陣治は働き、そのお金で十和子はフラフラと遊んで暮らしている。姉から「そんなの、人間のクズじゃない」と言われながらも、陣治が優しく十和子をかばっている。
僕は、人間同士の関係に名前が付く必要はないと思っているし、むしろ名前が付かない関係の方が良いと思うタイプなのだけど、陣治と十和子の関係はなかなか難しい。十和子は陣治のことを「同居人」と呼ぶが、その釣り合わなさはなかなかのものだ。二人の年齢差は15歳、陣治は50代だ。外出する時はキレイに着飾る十和子に対して、建設現場で働く陣治は、色黒で全体的に薄汚くみすぼらしい。そんな二人が、仲睦まじいわけでもなく、陣治が一方的に十和子に好意を寄せるような形で同居が成立している。
その関係に説明がなされるでもなく、映画はどんどんと進んでいく。二人の関係性はずーっと宙ぶらりんのまま話が進んでいくのだ。
その点が、観ながらずーっと僕をざわざわさせていた。当然、二人の関係性に物語上何かあることは誰でも分かるだろうけど、それがずーっと明かされることがないから、物語をどんな立ち位置で観ていいのか分からなくなる。これは、不満ではない。その不安定感が、良かったと思う。
「あなたはこれを、愛と呼べるか」
僕の記憶が確かなら、この映画の予告でこんなフレーズがあったと思う。確かに、映画を最後まで観ると、この二人は一体なんだったんだろう、と考えてしまう。もちろん、映画を最後まで観れば、二人の関係性は分かる。分かるが、しかしだからと言ってスッキリするわけではない。これが愛なのかどうか、それは観る人によって変わるだろうが、僕は愛ではないと感じた。愛を超えてるんじゃないかなぁ、と。
自分が陣治と同じ立場だったらどうだろう、と考える。ここまで踏み込むとネタバレになりそうなのであまり詳しくは触れないが、行動が伴うかはともかく、気持ちだけは陣治と近いものを持てるかもしれない、と思った。
内容に入ろうと思います。
マンションの一室に住む十和子と陣治。十和子は、特に何もなければ一日中テレビの前に座っているような生活で、陣治と一緒に暮らしながらも、陣治のことを毛嫌いしている。十和子は陣治がマッサージしてくれる時だけ褒めるが、その理由を「陣治の顔が見えないからや」と言ってのけるほどだ。そんな扱いをされても、陣治は十和子のために何でもしてあげる。俺は十和子のためだったら何でもできるといつも言っているのだ。
十和子は今、デパートの時計売り場と時計の修理の件で揉めている。その対応のために、責任者である水島が十和子の家まで来ることになった。泣いている十和子に水島がキスをしたことで関係が始まり、十和子は水島に惹かれるようになっていく。
帰りの遅い十和子を心配した陣治が、十和子の姉であるみすずに連絡し、十和子はみすずから問い詰められることに。みすずは、十和子は黒崎とヨリを戻したのだと勝手に勘違いして憤っている。黒崎というのは、十和子がかつて付き合っていた男で、8年前に別れた。別れる際暴力を振るわれ、顔と肋骨の骨を折る重傷を負いながら、十和子は未だに黒崎への想いを消すことが出来ないでいる。
黒崎からの電話を待ち続けながら何の音沙汰もないことに悲しむ十和子は、ある日衝動的に黒崎の携帯に電話をしてしまうが…。
というような話です。
なかなか面白い映画でした。
正直に言って、クソみたいな人間ばっかり出てくるので(笑)、共感ベースで観れる物語ではないような気がする。物語の序盤から、登場人物の誰かに感情移入できる人は、ほとんどいないんじゃないかな。十和子は人の金で遊んで暮らしながら、他の男とも寝ているし、陣治はまるで奴隷のように十和子に尽くしているし、水島は既婚者なのに十和子と関係を持つし、黒崎は暴力を振るうような男だ。なんなんだこいつらは、と思いながら僕は映画を観ていた。
とはいえ、不快なのかというとそうでもない。それは、十和子のキャラクターに拠るところが大きいと思う。陣治も水島も黒崎もロクデナシなのだけど、十和子も同じくらいロクデナシなので、ロクデナシ同士がわちゃわちゃしている、という捉え方になる。ロクデナシが真っ当に生きている人間に対して何かしているのであれば、それは不快感をもたらすかもしれないのだけど、全員ロクデナシだから、普通こみ上げてくるだろう不快感がこの映画では抑えられているように思う。だから、感情移入出来るわけでもないし、ロクデナシばっかり登場するんだけど、でも不快なわけではない、という不思議な感覚のまま物語を追っていく感じになる。
物語は、先程もチラッとふれたけど、結局は十和子と陣治の関係がメインになっていく。十和子と陣治の関係性は、冒頭ではほぼ情報がないままスタートする。しかし、周囲の変化や新たに知る情報などによって状況がどんどんと変化していき、それによって少しずつ十和子と陣治の関係性のベールが剥がれていくことになる。その過程を楽しむ映画だ。一体この二人はなんなのか。何がこの二人を繋いでいるのか。十和子や陣治の振る舞いの裏側には、一体何があるのか。それらをジワジワと染み出させるようにして描き出す構成は見事だと思う。
この映画の原作は女性が書いているが、映画の監督は男性だ(脚本が男性だったか女性だったかは覚えていない)。だから、この映画にどの程度女性視点が組み込まれているのか判断は難しいのだけど、しかし映画を観ながら思った。全員ではないにせよ、やっぱり女性というのは、水島とか黒崎みたいな、ロクデナシなんだけど優しい風、イケてる風の男がいいんかねぇ、ということだ。男から見れば、水島も黒崎もロクデナシだなと思うんだけど、女性はそうとは気づけないのだろうか。それとも気づいてて、それでも良いと思ってしまうのだろうか。
まあでもこういうのは、女性側も男に対して思っているだろう。女性からすればどう観てもロクデナシな女が男からモテるというようなケースはいくらでもあるのだろう。その辺りのすれ違いが不幸を生むよなぁ、と感じたりもしました。
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