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【本】塩田武士「歪んだ波紋」感想・レビュー・解説

「正しさ」は、常にそれを判断するための「基準」とセットだ。そうあるべきだ。
しかし僕らは、そのことを忘れてしまいがちな、もっと言えば、忘れてしまえるよのなかに生き始めている。

「正しさ」の「基準」について考える時、僕はいつも戦争のことを考える。僕らは今、「人を殺してはいけない世界」に住んでいる。当たり前だ。それが「正しい」と、僕らは何の疑問もなく感じている。もちろん人を殺す人間はいつの世にも現れるが、それはごく少数であり、人を殺した人間に対してはほとんどの人が何らかの悪感情を抱くはずだ。

しかし、戦時中はそうではなかったはずだ。少なくとも兵士たちは、「人を殺すことが正義である世界」に生きていたはずだ。そう思い込まされたと言った方がいいか。いずれにせよ、人を殺すということについて、今の僕らとは違った価値観が存在していた。

何かを「正しい」という時に、僕らが無意識の内に想定している「基準」は、いわゆる「常識」というやつだろう。多くの人が、この「常識」というものを判断基準に、「正しい」「正しくない」を判定している。

「常識」について、僕が好きな言葉がある。物理学者のアインシュタインの言葉だ。

【「常識」とは、18歳までに身に着けた偏見のコレクションである】

この言葉を初めて知った時、あぁ分かる、と思った。僕の中にも、そういう感覚はある。多くの人が、何故なのか理由は分からないが、世の中の人が自分と同じ「常識」を持っている、と想定して話をする。特に日本は、(一応)単一民族国家であり、さらに島国で国境を接している国がないために、余計にそういう感覚が強まってしまうはずだ。

しかし、「常識」が「偏見のコレクション」なのであれば、そもそも一人ひとり違うことになる。というか、そんなことは当たり前だと僕は思うのだけど、それが当たり前だと感じられない世の中になりつつあることが怖いと思う。

ネットが出てきて、近い「常識」を持っている人同士が繋がりやすくなった。これはもちろん、様々にプラスの状況を生み出しもするだろうが、危険な側面もある。自分が持っている「常識」が、世間の「常識」と勘違いしやすくなってしまうのだ。自分の周りにいる人が、みんな同じ「常識」を持っているのだから、日本全体が、あるいは世界全体がそう思っててもおかしくない――そういう発想に行きやすくなってしまうだろう。ヘイトスピーチや排外主義などが、そういう感覚から生み出されているのだろうし、セクハラ・パワハラやいじめなども、そういう感覚が温床となってさらに被害が拡大しているような印象がある。


僕は理系の人間で、物理学が好きだ。物理学は、「誰が見ても正しい」「誰がやっても同じ結果が出る」ことしか「正しい」と認めない。そうであるためには、個人の感覚を判断基準から厳密に排除しなければならない。

例えば、提唱者がノーベル賞を受賞したヒッグス粒子は、「99.999%」の信頼度で発見された。物理実験においては、何かを「発見した」と主張するためには、この「99.999%以上の信頼度」が必要とされるらしい。僕らの感覚で言えば、「99.9%」信頼できる結果なら、「正しい」と言ってしまっていいような気もするが、そこは物理学は厳密だ。何故「99.999%」なのかは、確か統計学的な裏付けがあるはずだけど、ちゃんとは知らない。ともかく、物理学はそんな風にして、個人の感覚を一切排除して、「正しさ」を判定するルールを自らで生み出している。

物理学ほどの厳密さは求めないにしても、僕らにも出来るはずなのだ。「正しさ」の背後にあるはずの「基準」に目を向けることぐらいは。

本書に、こんな文章がある。

『テレビの本質は消費や。君の言うように虚実関係なく「分かりやすさ」と「面白さ」に無上の価値を置くから、短い時間でシロかクロかはっきりさせなあかんし、飽きっぽい視聴者のために常にオモチャを探してる』

これを読んで僕は、熱力学第二法則を思い出した。いわゆる、エントロピー増大の法則だ。世の中のエントロピー(いわゆる「乱雑さ」)は、外部から熱や力が加わらない限り、増大する方向にしか進まない、というものだ。マスコミと受け手の関係にも、近いものを感じる。受け手は、自然な状態では「分かりやすさ」と「面白さ」を求める方向にしか進まないから、それを押し止めようとするマスコミの努力はあまり意味をなさないし、であれば受け手が望む方向に進んでいくしかない。

僕らは、マスコミが何をどう報じるかが「正しさ」を決めるような感覚を持っているのだが、結局のところマスコミは、僕らが「正しさ」を感じるような情報を流しているだけであって、「正しさ」は実は受け手である僕らが決めているのだ、とも言える。

そう、本書は、警告をしているのだ。「正しさ」を決めているのが受け手である僕らに留まっている内に、自浄努力によって状況を改変させろ、と。そうしなければ、僕らは「正しさ」を決する権利すら奪われることになってしまうだろう。そういう世の中は、まさに間近に迫っている。本書を読めば、背筋が凍るような感覚と共に、そのことを強く実感させられることだろう。

内容に入ろうと思います。
本書は、マスコミの「誤報」に焦点を当てながら展開される5つの物語を描く連作短編集です。

「黒い依頼」
近畿新報の記者である沢村政彦は、息子が総合学習で作っている新聞の取材に張り切っているという話を妻から聞きながら、いつものように「満田タバコ店」の道路の話を振られる。道幅が狭く危険だから取り上げろというのだが、13年目の中堅記者の仕事ではない。
休日だったが、デスクの中島から呼び出された沢村は、ちょっとした取材を頼まれた。中島は、近畿新報が年間200万円という破格の予算をつけてスタートさせた「プロジェクトIJ」という調査報道の責任者で、今は、同社のエース記者である桐野が追っている政治ネタを進めている。関西で有名なコメンテーターが出馬する予定だが、彼が犯罪に関わっている疑いがある、という線らしい。しかし沢村が頼まれたのは、ひき逃げ事件の取材だ。読者からの投稿で、ひき逃げしたと思しき車が見つかったのだが、それがなんと被害者遺族の家にあるという。その情報が正しいとすれば、被害者遺族が一転加害者になるが…。

「共犯者」
定年後、殺風景な部屋でブラームスの交響曲を聞くことを趣味にしている、元新聞記者の相賀正和は、大日新聞時代の後輩である能美から、垣内智成が死んだと連絡を受けた。亡くなったのは一週間ほども前で、自殺だという噂らしい。垣内はかつて一緒に消費者金融の取材をした戦友だ。以前の住所を尋ねると、そこには垣内の妻だった女性がいた。離婚していたことも知らなかったが、もっと驚いたことは、垣内は消費者金融から借金をしていたというのだ。あれほど消費者金融の取材にのめり込み、その悪事に迫った男が何故…。相賀は、垣内の家まで行き、遺品を整理し、そして垣内の死について調べてみることに決めた。そしてその取材は、長い長い時を経て、相賀へと戻ってくることになる…。

「ゼロの影」
かつて大日新聞の記者だった野村美沙は、社内結婚をしたことで配置換えさせられ、その不満もあって会社を辞めた。今は「K―コミュニケーション」というところで韓国語を教える講師をしているが、なかなかうまくいかない。特に、美沙にちょっかいを掛けてくるように思える生徒が一人いて、非常に億劫だ。谷崎という名のその生徒との授業中、廊下が慌ただしくなり、谷崎も警備員に加勢して一人の男が取り押さえられた。盗撮だという。
しばらくして美沙は、娘の杏が通う保育園でその盗撮犯を見かけた。まさか。そのことを夫の新一に伝え、調べてもらうと、警察に盗撮事案の記録がない、と分かった。どういうこと…?美沙は、自分でも調べてみることにしたが…。

「Dの微笑」
近畿新報の上岡総局のデスクである吾妻裕樹は、「よろず屋ジャーナル」という関西ローカルの深夜バラエティを他の記者と一緒に見ていた。俳優の谷垣徹にセクハラ疑惑が噴出しており、その番組でも、被害に遭ったという女性がモザイクで出演していた。セクハラ問題は記者としては関心事だが、同時に、物証が提示されないまま記憶だけで「リンチ」のような状況が作り出されてしまう現状に怖さも感じている。
会社に、かつて入社面接で顔を合わせ、彼のような記者になりたいと思った大先輩である安田隆がやってきた。安田に送ってもらいがてら話をしていた二人だったが、安田が、バブル期に「闇社会の帝王」の異名を取った安大成の親戚だと言い出し、彼のインタビューを取りたいと吾妻に頼んできた。吾妻はお世話になった先輩の頼みと、安大成の行方を探してみることにした。
安大成は最近、「よろず屋ジャーナル」に登場していた。大物フィクサーと接触寸前まで行った、という内容だった。その件で知り合いのプロデューサーをつついてみると、その番組の構成作家がちょっときな臭いと分かった。さらに吾妻は、「よろず屋ジャーナル」の映像を見返してみて、衝撃的な事実を発見してしまう…。

「歪んだ波紋」
硬軟取り揃えた記事を常に出し続け、裏取りもきちんとやると評判のネットメディア「ファクト・ジャーナル」の三反園は、不倫報道を連発する「週刊文潮」のエース記者の不倫をすっぱ抜くなど、PVの稼げる記事を出しつつも、かつて全国紙で記者を経験していたという自負もあり、きちんとした記事を書きたいと思っていた。しかしそのためには、軟派な記事も取り混ぜて、母体を盤石にしなければならない。
三反園は、あるマスコミの捏造の背景にさらに大きな思惑がある、とする、近畿新報の吾妻からの連絡に辟易しながらも、程よくあしらっていた。そして今日の、吾妻がさらなる背景と言った人物と会うのだ。
そこで吾妻は、ずっとやりたいと願っていた硬派な記事が書けるチャンスをものにした。取材前から世間がざわつく様が想像できるほどの記事になるだろうことは間違いなく、事情があって行けなかったその取材がどんな記事に変わるのか楽しみに待っていたが…。

というような話です。

これは面白い小説だったなぁ!始めのウチは、よくあるような、新聞記者を主人公にした事件モノの小説だろうと思って読んでいたのだけど、全然違いました。これ、ちょっと凄かったなぁ。

物語全体の大きな枠組みはとりあえず置いておくとして、まずこの物語は、決して僕らとは無関係ではない。「新聞記者による誤報」の話であって、一般人である僕らが同じようなミスをするわけがないから関係ない――なんて言えるような物語ではない。

ネット社会が当たり前になったことで、僕らは、誰でも自分の意見を発信できるようになった。かつては、一部の人間に限られていたことが、誰にでも出来るようになったのだ。もちろん、誰もがミスをするが、発信する人間が専門職に限られていた時代は、専門職に就く以上最低限のリテラシーは身につけさせられるし、その枠の中で時々、どうしようもないミスが生まれる、という状況だっただろう。あるいはミスではなく、意図的な情報操作というものもあったのかもしれないけど、だとしてもその総数は非常に少なかったはずだ。

しかし今は、専門職としてのリテラシーを持たない人間が発信側に回ったことで、混沌とした状況が生まれているはずだ。流れてくる情報の真偽を判定しない(できない)ままに拡散に関わったり、善意の振りをした悪意をばら撒く手助けをさせられていることだってあり得る。本書では、新聞記者であるが故の虚栄心や特落ちの恐怖などに根ざした誤報が描かれることが多いが、しかしそれらは決して、僕らとは無関係ではないのだ。

「ファクト・ジャーナル」の三反園は、こんな実感を抱いている。

『心地のいい情報に包まれやすい現代ほど、真っ当なジャーナリズムが求められる時代はない』

僕らは、ほんの一昔前と比べても想像を絶するほどの情報に日々さらされながら生きている。そういう中にあって、情報の真贋を見極めることは非常に困難だ。しかしだからと言って、真贋を見極めなくていい、などということにはならない。だからこそ、真っ当なジャーナリズムがきちんと機能し、裏付けのあるきちんとした情報がより強度を保ったまま世の中に広まる社会を目指さなければならないのだが、「分かりやすさ」や「面白さ」にすぐに飛びついてしまうような時代環境では実現はままならない。そのもどかしさを、三反園も感じている。

こんな時代だからこそ、誰もが「誤報」と無関係ではいられないと強く実感させられる物語であると同時に、本書が訴えかける「ある危機」の怖さにも震撼させられる。

本書は、実に緻密に構成された物語だが、その緻密さは、既存のメディア(「レガシーメディア」と呼ばれているそうだ)の欠陥を際立たせる点においてさらに発揮される。「レガシーメディア」が元々カバー出来ていなかった領域が、様々な外的要因によって膨らんでいき、その現状を無視したままこれまでのやり方を踏襲しようとする「レガシーメディア」のあり方に一石を投じるような構成は、もちろんマスコミという仕事に携わる人々に多大なる衝撃を与えるだろうが、受け手である僕らにとっても破壊力を持つ。「レガシーメディア」であっても情報を精査すべきである点に変わりはないが、もはやそんな次元の話ではないのだ、ということが本書を読めば理解できるだろう。それはもう、「情報」とは何か、「情報が持つ価値」とは何か、という領域の話であり、本書で描かれていることが、現実を広く侵食していくとするならば、「情報」に依存している僕らの生活はある種の破綻を迎えることになるのだろうと思う。既にある程度壊れかけているとはいえ、まだまだ多くの人の幻想によって成り立っている「情報社会」が、音を立てて崩れるような日が遠くない内にやってくるのだろう。

そうなった時、きっと僕らは、迷惑メール程度の価値しかない情報のゴミに埋もれて、手近な情報にさえ手が届かなくなるような、そんな世界に生きることになるのかもしれない。


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長江貴士
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