【本】鷺沢萠「ウェルカム・ホーム!」感想・レビュー・解説
一緒にいる理由を、世間が納得する形で説明できなければ「おかしい」と思われてしまう世の中は、おかしいと僕は思う。
例えば一組の男女がいる。彼らが「夫婦」や「恋人同士」なら、誰もおかしいと思わない。しかしこれが、「ただのクラスメイト」とか「ただの先輩後輩」とかになると、途端に「んんん?」となる。そして人々は、「夫婦」や「恋人同士」であるはずだ、あるべきだ、というような見方をしたがる。
例えば男が二人でいるとする。彼らが「先輩後輩」や「クライアントとの商談」みたいなことなら、みんな納得する。しかし、少しでも世間の概念を逸脱すると、世間は彼らのことを「ホモなのか?」という風に見たがる。
意味が分からない。誰かと一緒にいることについて、何故「世間様」の了解を得なければならないのか。
と僕は思ってしまう。本書の解説を書いている三浦しをんも、似たようなことを考えているようだ。
【私がずっと不思議だと思っていること、理不尽だと感じていることへの答えを、『ウェルカム・ホーム!』は物語の形で見せてくれる。】
【なぜ、「家族」という単位を不動のもののように見なすのか。それが私には分からない。仲の悪い家族だっていっぱいいるし、家族だからといって一緒に住んでいるとも限らない】
うん、その通りだ。完全に、三浦しをんに賛同する。
日本は、「◯◯はこうあるべき」という圧力がとても強い。男はこうあるべき、女はこうあるべき、夫は、妻は、家族は、恋人は、子供は、学校は、先生は、先輩は、後輩は、地方出身者は、◯◯県人は…。そういう、明文化されていないはずの、でもだからこそ強力で厄介なルールがあちこちにあって、そういうものにちゃんと従って生きていこうとすると、窮屈で仕方ない。
でも、そもそも「ちゃんと従って生きていこう」という発想からして、もう外れているのだ。作中から引用してみる。
『彼女たちは、女というものは、結婚したら男の帰りを待ちながら家を守るものだ、と信じて疑わない』
そう、「信じて」「疑わない」のである。「従わなくちゃ」などと思っているのではない。そうすることが当たり前で、それ以外の選択肢など考えたこともないし、そうではない行動を取っている者は異端者。そういう風に考えている人が多数派だからこそ、世の中が窮屈なんだよなぁ、と思う。
僕は、「家族」だの「恋人」だのと言った、人間関係に付けられた名称はすべて、「便利なタグ」ぐらいにしか思っていない。日本のパスポートは世界中の大抵の国にすんなり入国できるから、闇のマーケットでは人気らしい。彼らにとって日本のパスポートは、日本に入国を果たすのに便利なタグでしかない。人間関係の名称も、それを持っていることで便利に世の中を渡っていけるタグみたいなものでしかないと思う。
だってそうだろう。一番大事なことは、「その人と一緒にいる理由」だ。そこさえはっきりしていれば、二人の間の関係性の名称などどうでもいい。「友達」から「恋人」になって「夫婦」になることで関係性の名称は変化するが、それは本質的な変化ではない。より本質的な変化は、「その人と一緒にいる理由」だ。そこを捉え間違わなければ、呼び方などどうでもいい。その時その時で、一番便利さを発揮できる名称を選択すればいいと思う。
三浦しをんも解説でこう書いている。
【私たちはたぶん、常識や社会制度や受けてきた教育から、完全に自由になることはできない。だが、幸せになるために生きるのだ、という大前提を、決して忘れてはならないはずだ。】
「世間のフツー」に収まるために、「自分の幸せ」を手放すのだとしたら、これほどアホらしいことはない。
三浦しをんはこうも書く。
【私はたぶん、結婚することはない(というか、できない)と思うし、子供もいないままだろう。「社会」の単位となりうる「家族」を、ついに自分では形成できないままなのではないか、という予感がする。
そういうひとは、きっと多くいることだろう。堂々たる「家族」を形成してはみたが、その人間関係のなかで自分はちっとも幸せではない、というひとも、少なからずいるはずだ。
では、どうすればいいのか。どうするべきなのか。私はずっと、それを考え続けている。】
「家族」を形成できたからと言って、幸せであるとは限らない。名称は、あなたの幸せとイコールではない。名称ばかりを追いかけているように見える人も、世の中には多くいるだろうと思う。その無意味さを、本書を読んで実感してみて欲しい。
内容に入ろうと思います。
本書は、2編の中編が収録された中編集です。
「渡辺毅のウェルカム・ホーム」
渡辺毅は今、無職に近い生活を送っている。そして一日の大半を「シュフ」として生活している。父親が始めた洋食屋「アンジェロ」を継ぎ「シェフ」になったが、テキトーに生きていたが故に潰してしまい、今は「シュフ」である。
と言っても、毅は結婚しているわけではない。彼女はいるが、独身だ。じゃあ誰の「シュフ」をしているのか…。大学時代の同級生であり、親友でもある松本英弘だ。彼らは、毅、英弘、そして英弘の息子である小学六年生の憲弘の三人で生活をしている。
ある日毅は、本当にたまたま、憲弘の作文を読んでしまった。「ぼくにはパパが二人いる」という内容の作文を読んで、毅は「ヤバイ」と思った。これじゃあ、俺達がホモみたいなじゃないか…。
「児島律子のウェルカム・ホーム」
児島律子は、結婚したら家庭に入るのが当たり前だった時代に証券会社での仕事を続け、離婚後にアメリカで学んだ「フューチャーズ(先物)」の知識を駆使して投資の個人オフィスを立ち上げるまでになっていた。頭を切り替えるのも不可能なぐらいの目まぐるしさの中、この4年間で大分成長し、目だけで意思疎通が出来るようになった秘書が、忙しいと分かっている状態の律子に何度も話しかけてきた。待っている人がいる、というのだ。もう2時間も。学生のようだけど…と言われて要件がさっぱり思い浮かばなかったが、久部良拓人と名乗った青年(学生ではなかった)からその名前を聞いて律子は驚愕した。
聖奈。石井聖奈。かつての結婚相手の連れ子で、もう何年も連絡を取っていない。
久部良と名乗った青年は、聖奈と結婚するつもりであるという。その報告にやってきたのだ。
久部良青年の登場により、律子の頭の中では、一度目の結婚とその破綻、そして二度目の結婚と聖奈との出会い、そしてその破綻の記憶が駆け巡っていく…。
というような話です。
これは結構面白かったなぁ。僕も三浦しをんと同じく、家族というものについては不思議や理不尽を感じているので、そういうものが物語として描かれているなぁ、と思いました。作中、様々な価値観が登場するが、「別にそんなの関係ないじゃん」的な意見は大体同じことを考えていたし、大きく賛同している。
本書で描かれる「家族」は、どちらも本質的な部分では血縁では繋がっていない。狭義で考えれば、彼らが言う「家族」というのは、言ってしまえば「自称」ということになるだろう。「自称家族」ということだ。しかし、やはりその捉え方は狭すぎる。僕は、自分たちが「家族」だと思っているのなら、そこに血縁がなくたって世間が認めなくたって「家族」でいいと思う。ペットならそういう発想が許されるのに、どうも人間だと許されないみたいだ。
『家事を女に押し付けるのはおかしい、とか、そういう話をしたいわけじゃないんです。でも、女が結婚したあとも仕事を続けることになると、すぐに「家庭と仕事を両立できるのか?」みたいなこと言われるじゃないですか。なのに男の人は結婚しても「家庭と仕事を両立できるのか?」とはゼッタイに言われないでしょう…?』
ホントその通り。ちょっと前にある人から、会社の面談で結婚するのか、子供を生むのか、みたいなことを聞かれた、みたいな話を聞いたことがある。僕が、会社の役員に女性は何人いるんですか?と聞いたら、一人もいないという返答だった。そういう会社なら、そういう無神経な質問もするんだろうなぁ、と思ったことがある。
フツーではない「家族」の中にいると、自然とこんな発想が生まれる。
『自分が向いてない分野のことは、向いてるヒトに任せる。その代わり、自分は自分が向いてる分野で役に立つ。それでいいんじゃないっすかね』
これはまさに至言と言っていいだろう。人の属性に対して役割が与えられているのではなくて、関係性の中で役割が生まれてくるという捉え方をすることは大事だと思っている。僕は普段からそんな風に思って人と関わっている。今この集団の中で足りない部分はどこで、その中で自分が埋められそうな箇所はどこだ、というように。
属性に対して役割が割り振られているとすると、一生その役割から逃れることは出来なくなるが、関係性の中で役割が生まれると思えれば、一つの役割に押し込められるわけでもないし、もちろん自分が望むなら自分が得意だと思っている役割を貫き通すことも出来る。こういう生き方の方が自由で、そして何よりもより全体のパフォーマンスが向上するように僕には感じられる。
本書を読めば、きっと分かるだろう。自分が今何に囚われていて、そしてそれが捨てて良いものなのかどうかを。捨てていいはずのものに囚われているなんて馬鹿らしい。考え方をちょっと変えるだけで手に入る自由が、この作品の中には詰まっています。
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