【映画】「リリーのすべて」

『私はやっと本当の自分になれた』

昔の僕は、本当の自分、というものについてよく考えていた。
何かに違和感を覚えていた。自分の存在に。何か違うと。でも、どうしてそう感じるのかは、全然理解できなかった。

『毎朝、今日こそ一日中アイナーでいようと誓う』

誰か他人といる時、僕は僕ではないような気がした。一人でいる時、僕はそんな気分になることはなかった。他人の存在が、僕に違和感をもたらした。

『時々アイナーを殺したくなる。
でもできない。リリーを殺すことだから』

初めは、他人にその原因を求めようとした。他人の何かが、僕をざわつかせるのだ、と。他人といる時だけそう感じるのだから、僕はずっとそんな風に勘違いしていた。

『僕は自分を隠している』

何がきっかけで考え方が変わったのか、僕は覚えていない。しかし次第に僕は、その原因を、自分の内側に求めるようになった。これは僕の問題なのだ、と。

『君のせいだ。彼女を刺激したから』

他人といると、僕の中で<僕>が生まれる。Aさんといる時は<僕A>が、Bさんといる時は<僕B>が、AさんとBさんといる時は<僕AB>が生まれる。<僕A>と<僕B>と<僕AB>は、確かに<僕>ではあるのだけど、少しずつ違う。

『君が姿を与えたけれど、リリーはずっといた』

そしてさらに、<僕>と僕も少し違う。本当の自分である僕と。いや、少しかどうかは、もう覚えていない。大分違ったのかもしれない。とにかく、他人といる度に、僕とは違う<僕>が常に生まれていく。僕と<僕>のズレに違和感を覚えるのだと、次第に理解できるようになっていった。

『君はアイナーを愛している。
僕は彼を殺しに行く』

だから僕は決めた。僕を殺せばいいのだな、と。
他人と関わる度に<僕>を生み出す生き方をずっと続けていた。だから、その習慣を変えるのは難しいと思った。僕と<僕>のズレに違和感を覚えていて、<僕>が生み出されることを変えられないのなら、出来ることはただ一つ。僕を消せばいい。言葉でそうと認識していたわけではないけど、僕は次第にそう考えるようになり、それを実行した。

『アイナーは死んだのよ。受け入れないと』

今、自分の中には、僕がいない。もちろん、完全にいないわけではない。時々、自分の奥深くから僕を引っ張りだしてこないといけない時がある。だから、消したというよりも、隠したという言い方が近いだろう。日常的には、僕は現れない。本当の自分である僕は。

『私は私の人生を生きる』

僕は<僕>の人生を生きることに決めた。色んな<僕>がいて、少しずつ違う。<僕>が生まれる度、僕はその<僕>を生きる。演じる。もう、そういう生き方しか出来なくなった。

『「彼女はどこから?」
「僕の中から」』

アイナーは、間違った自分を殺して、本当の自分になった。
僕は、本当の自分を殺して、「間違った自分」という概念が存在しないようにした。

『もうリリーは現れないほうがいいわ』


1926年。コペンハーゲン。
アイナー・ヴェイナーとその妻ゲルダは、共に画家として活動していた。アイナーは、その実力が高く評価されながらも、パーティ嫌いでなかなか表に顔を出さない。デンマーク最高の画家とは言わないまでも、最高の一人とは言える、というほどの評価を受けている。
ゲルダの方は、画商に絵を持って行ってもまだ扱ってもらえない。ゲルダは人物がを好んで描くが、画商からは、人物がではない方が一流の画家になれるのではないか、と暗にほのめかされる。しかしゲルダは、それに従うつもりがない。

アイナーとゲルダは、夫婦としてはうまくやっていた。なかなか子供に恵まれなかったが、結婚6年目でもセックスはしているし、お互いを信頼し必要な存在だと確認しあっている。

“リリー”が初めてこの世に現れたのは、アイナーがゲルダに、脚のモデルを頼まれた瞬間だ。バレリーナの友人が来られなくなり、急遽バレリーナのようにタイツを履いてモデルを務めることになったのだ。アイナーが務めたそのモデルは、遅れてやってきたバレリーナに、“リリー”と名付けられた。
リリーの存在が急激に大きくなったきっかけを作ったのは、妻のゲルダだった。パーティ嫌いのアイナーを表に引っ張り出すために、違う自分で、つまり女装してパーティに出ることを提案する。乗り気になったアイナーと二人で、完璧な女装が出来るよう準備を重ねていく。
そのパーティが終わった後から、アイナーはどんどんとおかしくなっていき…。

というような話です。

映画を最後まで見て初めて知ったのだけど、この作品は実話だそうです。どの程度実話に忠実に描かれているかは知りませんが、アイナーが記した日記を元に出版された「男から女へ」という作品が元になっているようです。

この作品の一番の肝は、もちろん、アイナーが苦しむことになる性同一性障害です。当時はまだそんな名称はなかったでしょう。映画の中でアイナーは、肉体を女性に変える手術を受けますが、アイナーに対して行われた手術が世界で初だそうです。アイナーは、多くの医者から「精神分裂」「性的倒錯」など、本人の意に染まない診断を受け続ける。当時はまだ、性同一性障害という名前どころか、そういう症状が実在することさえ、ほとんど受け入れられていなかった。そういう中で、自分の内側に“リリー”が存在し、リリーこそが本当の自分であり、アイナーは殺すべきなのだ、という決断に至るまでのアイナーの葛藤が、丁寧に描かれていく。

『どんな服を着ていても、眠りの中で見る夢は、リリーが見る夢よ』

リリーは、最初からアイナーの中にいた。しかし、アイナーは常にリリーを抑えこもうとしていた。「毎朝、今日こそ一日中アイナーでいようと誓う」というのは、アイナーの子供の頃の話だ。ずっと昔からアイナーは、内側に存在するリリーを感じ続けていた。

しかし、それをゲルダが助長させたことで、アイナーの内側のリリーは歯止めが利かなくなる。今まで抑えこんでいたリリーが、アイナーの内側で大きくなっていく。
今までは、アイナーとして夜夢を見ていただろう。少なくともアイナー自身はそういう意識でいられた。しかし、リリーを解放したことで、アイナーは思考や価値観がリリーに塗り替えられていくのを感じる。

『君が望むことを、僕は与えられない』

妻であるゲルダにそう語るアイナーの姿は、とても辛そうだ。

この物語の肝がアイナーの性同一性障害であることはその通りなのだけど、しかし、物語の中で最も重要な役割を握るのは、妻のゲルダだと僕は思う。

ゲルダは、最愛の夫を失うのだ。

『僕は君を愛している』

アイナーは繰り返しそうゲルダに語りかける。この言葉がアイナーの本心であるのかどうか、確かなことは何もいえない。しかし、アイナーが男としてゲルダを愛しているかどうかはともかくとして、アイナーが人としてゲルダを愛していることは間違いないだろう。彼らの間からは、それだけの強い信頼関係を感じることが出来る。

しかし、ゲルダは、そんな相手を失うことになる。

『私はあなたの妻よ。何でも知ってるわ』

アイナーとの強い絆を信じて疑わなかったゲルダ。しかしやがてその絆は解かれていく。

『「私たちは夫婦よ」
「あなたとアイナーはね」』

ゲルダは、「最愛のアイナー」を失いはした。しかし、「アイナーだった人」を失ったわけではない。この葛藤が、見ていて一番苦しいと感じた。アイナーは、もちろん苦しんだだろう。アイナーの苦しみは、生まれてこの方ずっとなわけで、単純に比較は出来ない。出来ないけれど、しかし、かつて愛した人がそこにいるのに、でも絶望的にそこにはいない、という辛さも、相当なものだろう。

『アイナーに会いたい。私には、夫が必要なの。夫と話したり抱きしめたりしたい。彼を呼んで。せめて努力をして』

ゲルダは、どんな風に折り合いをつけていけばいいのか。「何でも知ってるわ」と思っていた最愛の夫が、別人になっていく。今までそこに存在していたはずの、目に見えるものも目に見えないものもすべて、変わってしまった。その現実を、どう受け入れていけばいいのか。

「私もそう思います」

映画の終盤。ゲルダは迷いなくそう断言する。ここに行き着くまでのゲルダの心情に、一番心を掴まされた。自分がリリーを目覚めさせてしまったのかもしれない、という罪悪感と、アイナーに戻ってきてほしいという切実な願いが交じり合って、ゲルダは自分自身を制御しにくくなっていく。

リリーを解放して以降のアイナーは、僕にはわがままであるように見えた。
アイナーが、本当の自分を追い求めることは当然だ。その姿勢を否定したいわけではない。しかし、それまで妻だった女性、本心はともかく、深い信頼と絆で結ばれていると思わせていた女性の扱いが、酷く映った。ただ、ゲルダのことをちゃんと顧みることが出来ないほど、アイナーの内側はかき乱されていたのだろうとも思う。症例は存在したかもしれないが、少なくとも世間では受け入れられていない状態に今自分自身は陥っている。そういう中で、自分がどういう決断をすべきか。どういう振る舞いをするべきか。アイナーは悩み続けていただろう。そしてそれ故に、周りを見る余裕がなかったのだろう。しかしそうだとしても、ゲルダにはもう少しきちんと接するべきだったと、僕は感じてしまった。ゲルダに感情移入していたのだろう。

現代でさえ、LGBTと称される性の問題は、まだまだ社会の中で広く受け入れられているとは言えない。そういう中にあって、性同一性障害という症状自体まだ存在をほとんど知られていなかった時代のアイナーの決断は、LGBTに限らず、自らのアイデンティティに苦しむ多くの人に、勇気を与えることだろう。

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長江貴士
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