【本】辻村深月「水底フェスタ」感想・レビュー・解説
内容に入ろうと思います。
舞台は、睦ツ代村という、ロックと織物の村。
睦ツ代村では毎年、日本五大フェスの一つ、ムツシロ・ロック・フェスティバル、通称ムツシロックが開催される。広大な敷地のあちこちに会場が散らばり、元ゴルフ場だった場所にテントを張ってオールナイトのイベントにも参加できる。このムツシロックのお陰で睦ツ代村はかなり裕福で、平成の大合併の際にも、周辺の自治体からの合併要請をはねのけ、今でも村として存続している。
高校生の湧谷広海は、そんな睦シ代村の現村長・飛雄の息子だ。
広海は、睦ツ代村でほぼ唯一、ムツシロックの価値を知っている人間だ。ムツシロックを睦ツ代に誘致した全村長も、そして村の住人のほとんども、ムツシロックがいかに価値のあるイベントであるのか理解していない。それは、広海の幼なじみである門音と市村も同じだ。広海の後をついてムツシロックまで来るものの、その価値を理解しているわけではない。睦ツ代村でムツシロックの価値を理解できているのは、広海と、現村長で父である飛雄ぐらいのものだ。穏やかで村長らしからぬ飛雄とは、音楽の趣味を通じて繋がっている。
そしてもう一人、ムツシロックの価値を共有できる人物がいる。
ムツシロックの夜、広海はフェスの会場で、織場由貴美の姿を見かけた。
織場由貴美は、睦ツ代村出身の女優だ。知名度はそれほど高いわけではない。それでも、人目を惹く容姿は圧倒的だ。幸いその夜は、由貴美の存在に気づいたものはほとんどいなかったようだ。プライベートで来ているのだろうから、気づかれたくないだろう。
しかしフェスの夜から由貴美は、かつて自分が住んでいた、荒廃したボロ家に住み始めた。由貴美は既に両親を亡くしている。由貴美はただでさ、中学卒業と同時に村を出て、村の人間からよく思われていなかったが、母の葬式の際の態度で、また村中を敵に回すことになった。今村に居着いても、由貴美の味方はほとんどいないと言っていいだろう。
何故由貴美は、狭い社会特有の好奇心から自分が住む家の周囲を取り囲まれるようなことになっても、何故村にとどまり続けているのか。
それは、ちょっとした偶然だった。夏休みの最後を、小さな集落を水没させて作られた水根湖のほとりでゆったり過ごそうと思った広海は、そこで泣いている由貴美と出会ってしまった。
出会ってしまった。
広海は由貴美に言われた。
「村を売る手伝いをしてくれない?」
というような話です。
いやー、これは良かったです!こういう陳腐な表現は僕はあんまり好きじゃないんだけど、でもこれは、辻村深月の新境地と表現してもいいのではないかという感じがしました。これまでの辻村作品の良さを継承しつつ、新しいステージにたどり着いている。そういう印象を強く受けました。
まずはじめにどうしても書いておきたいことがある。あくまでこれから書くことはすべて僕の憶測で、まったくそういう意図はなかったりするのかもしれないけども。
僕は昔から、辻村作品に対してはこういう感想を常に抱いていた。
『子供の世界を書くのは巧いけど、大人の世界を書くのはそれほどでもない』
本作を読んだことで、この表現を訂正しなくてはいけないだろう、と思いました。
辻村深月は、子供を描くのが巧い、というのは正しいのだけど、それをもっと正確に捉えれば、『閉じ込められている感』を描くのが抜群に巧い、ということなんだと思います。子供の世界というのは本当に閉じている。主に学校で、もちろん学校以外の場所でもいいんだけど、基本的に狭い世界の中で生きている。それ以外の場所に逃げこむことは、自分一人の力ではなかなか難しい。また時には、閉じ込められているだけではなく、自らを閉じ込めることさえもある。辻村深月はそういう、絶望的な環境に閉じ込められた、その状況を描くのが抜群に巧いのだと思いました。
だからこそ、と繋げるのは少しおかしいのかもしれないけど、だからこそ辻村深月は、大人の世界を描くのが不得意、というか、子供を描く時のような強さを感じられないことが多いのかな、という感じがしています。
大人って、どこか一つの世界にどうしようもなく閉じ込められてしまうことってなかなかないし、あったとしても、自分一人の力でそこから抜け出せる、それだけの環境は持ち合わせている。だから基本大人の世界というのは閉じない。もちろん閉じた世界もあるのだろうけど、子供の世界は閉じているのがデフォルトであるのとは対照的に、大人の世界はそこまでは閉じていない。
本書では、『閉じ込められている感』をすべて、『村』という環境が担っている。恐らくその点が、この作品が成功している大きな理由の一つではないかと思うのだ。
本書では、詳しい部分には触れないけど、かなり大人の世界が描かれている(その部分はネタバレ満載なので、ほとんど触れられない)。これが普通の環境での話であれば(もちろんそうであればこの作品は根本的に成り立たないのだけど、まあそれは置いておいて)、『閉じ込められている感』の含まれていない作品になって、辻村さんらしさの出し切れていない作品になっただろうと思います。
でも本書では、大人の話を描きつつ、『閉じ込められている感』については、『睦ツ代村』という特集な村の環境がそれをすべて担っている。周囲の幼なじみなどと比較しても、そういう『閉じ込められている感』に敏感な広海を主人公に据えることで、子供の世界をほとんど描くことなく『閉じ込められている感』を滲み出させることに成功している。個人的に僕はずっと、先ほど書いたような、大人の世界は基本閉じていないという理由から、辻村さんは大人の世界を、子供の世界ほどには力強く描けないのではないか、と非常に失礼なことを考えていた。
でも本書を読んで、なるほどこんなやり方があったのか!と驚きました。もちろん、じゃあいつでも村の話にすればいいかってそういうわけでもないから、まあ大変は大変だろうけど、本書で辻村深月は、『閉じ込められている感』と『大人の世界』を両立させることが出来る、という証明をした、と僕は感じました。
これを辻村さんが意図的にやったのか、あるいはただの偶然だったのかはわからないけど、どちらにしてもこの作品を書いたことで、辻村さんは作家としてちょっと何かが変わったんじゃないかな、と物凄く勝手に想像しています。
どうしても書きたかったことはとりあえずここまで。
正直本書は、なかなか内容に触れにくい。僕がさっきからそう表現している『大人の世界』の部分については、物語の大きな核になるので、基本的にはほとんど何も書けない感じです。物語がどう展開していくのか、読み進めながらしばらく予想がつかない物語でもあるんで、物語の大きな核の一つであるこの部分についてはほとんど触れないことにします。ただちょっとだけ感想を書くとすれば、怖い。怖すぎます。物語を追っていくと、東名高速道路を車で走っていたら、いつの間にかエアーズ・ロックに辿りついた、とでもいうような、そういう、日常から非日常への移行があります。
いや、移行というのは違うか。日常と非日常が融け合って混じり合っていくような、そういう不安定感が本当に恐ろしいです。辻村深月の描く、刀を一閃するような鋭い文体と村の稠密な情報とが、日常の輪郭を否応なく際立たせた上で、その日常が非日常と融け合って行くので、恐ろしいなんてもんじゃありません。僕は昔から、こういう狭い共同体(村に限らず)って体質的にまったく受付ないんだけど、この物語は、僕みたいな拒絶感を普段抱かない人でも、ちょっとゾワッとするような、そんな物語なんじゃないかな、という気がします。
でも一応書いておきますけど、別に本書は、いわゆる『ホラー作品』ではありませんよ。怖さを感じるのは、ここで描かれていることが、現実と地続きなのだろうと容易に想像できてしまう部分なのです。
というわけで僕は、もう一つの物語の核である、広海と由貴美の恋愛の話を書くことにします。
本書の帯には、色んな文句が書かれています。例えば、『祝祭の夜には誰も死んではならない。』『復習するためこの村に帰ってきた。』とかですね。
その中の一つに、
『辻村深月が描く一生に一度の恋』
というフレーズがあります。
正直こういう煽り文句は好きではないですが(まあ、売るためには仕方ない、という理由ももちろん分かるんですが)、確かに本書では、広海と由貴美の恋が物語の一つ大きな核になっていくことになります。
この恋は、ちょっとゾクゾクさせられる。
由貴美というのは、ひと言で表現してしまえるような人格ではないのだけど、敢えて無理矢理表現すると、『魔性の女』という陳腐な表現になります。容姿・体型・表情など、すべてが人目を惹く、芸能人だなというオーラをまとわせる由貴美は、何故か広海をゆるやかに絡めとっていく。何故広海なのか、という部分が、先ほどの『大人の世界』の云々と繋がっていくわけで、そっちとの関わりもなかなかスリリングなんだけど、広海と由貴美のやり取りだけ純粋に抜き出してみても、これは恋愛小説として凄く面白い。
これ、女性はどんな風に読むんだろうなぁ。
男的には、正直たまらん。作家名を知らずに、広海と由貴美の恋愛に関する部分だけ読んだとしたら、これ男の妄想バリバリじゃんか、と思っちゃうような感じはします。それぐらい、広海羨ましいぞテメェ!(とまあ、初めの内は思うわけですよ) 桜庭一樹の「私の男」を読んだ時も似たようなことを思ったけど、こういう、まさに男の願望丸出しみたいな展開って、女性はどんな風に読むのかちょっと気になります。もちろん、後々由貴美の目的(つまり、何故広海なのか、という部分)がきちんと語られるんで、ストーリー全体で考えれば別に問題ないんだろうけど、そこだけ抜き出した場合、もしかしたら一部女性からはあんまり支持を得られなかったりするのかなぁ、という感じがしたりもしました。
広海と由貴美の関係は、ここでも閉じている。広海も由貴美も、まず『村』という大きな存在に閉じ込められていて、そしてさらに自らを、二人の関係の中に閉じ込めようとする。元々孤独な身である由貴美はともかくとして、広海の方は大変だ。『睦ツ代村』に生まれた時から住んでいる広海にしてみれば、『村』から閉じ込められているという感覚は一度外に出た由貴美よりは大幅に薄いだろうけど(それでも、幼なじみである同級生たちよりは、そういう部分に敏感である)、由貴美の魔力に絡め取られていく広海は、自らを二人の関係の中に閉じ込めようとする過程で、どんどんと孤立していくことになる。そこにもまた、『村』という存在が立ちはだかる。
二人が例えば東京で出会って東京で付き合いを重ねれば、何の問題もなかっただろう。しかし、村の中では、二人の自由は大幅に限られている。しかも、『大人の世界』との絡みで、広海の知らない部分でさらに大きなしがらみがついて回るのだ。
そんなかなり制約のある環境の中で、広海は由貴美に溺れていく。溺れていく、という表現がぴったり過ぎるほどに、広海はズブズブと由貴美の魅力に魅了されていく。その過程は、本当にゾクゾクさせてくれる。確かに広海は高校生だから、8歳も年上である由貴美にすれば、手懐けるのはさほど難しいことではないのかもしれないけど、それでも、由貴美が広海に対峙する際のあり方はカッコイイ。痺れるほどだ。これは高校生じゃなくたってやられるだろう、って感じするよなぁ。もちろん由貴美は、自らの容姿の良さを最大限に知った上でやっているわけで、誰にでも出来ることじゃないわけだけど、っていうか真似できる人はほとんどいないでしょうけどね。
広海と由貴美の関係は、中盤以降恐ろしく変遷していく。初めはたった二人だけで完結していた、そしてこれからもそうであることを広海は願っていた二人の関係に、徐々に『村』が侵食していく。海岸が波に削られて形を変えるように、『村』の存在が二人の関係の形をどんどんと変えていく。最後は、本当に怖い。何が本当なのか、わからなくなる。
これが、広海と由貴美の恋愛だけがメインの物語だったら、さほどどうということもなかっただろう。やはり二人の関係が、『村』という大きな存在に侵食され飲み込まれていく過程が凄まじいと思う。広海の運命を翻弄するその波は、村がとんでもない事態に陥った時でさえ、広海の目には見えない。それほど、日常によってその波は隠されてしまっているのだ。その、『村』の存在の大きさ、そして恐ろしさが、本当に凄まじい、という感じがしました。
『閉じ込められている感』を『村』に託しつつ描かれる『大人の世界』と、二人だけで完結するはずだった広海と由貴美の関係が『村』に侵食され飲み込まれる過程。この二つが、この物語の大きな核であり、そして大きな魅力であると思いました。
正直に言うと、物語の序盤は、それほどの物語にはならないのではないか、と思ってしまいました。フェスが行われ潤っているということを除けば、どこにでもあるような古い価値観を引きずった村と、そこに住む、村の違和感に嫌気が差しつつも村から離れる勇気があるわけでもない少年による、小さな物語なのだろう、と高を括っていました。とんでもありませんでした。中盤以降、日常がどんどんと非日常に侵食されていく過程は、まさに圧巻だと思います。また陳腐な表現を使いますが、この作品は辻村深月のターニングポイントとなる作品なのではないか、とそんな予感がしました。
辻村作品は割とどれもそうだと思いますが、読む人によって違う姿を見せる万華鏡のような物語ではないか、と思っています。本書も、どういう生い立ちの人が読むかによって、また感じ方が大きく変わるような気がします。僕は、本書で描かれるような強烈なムラ社会の経験はないのですが、そういう経験のある人が読んだらどう感じるのか、非常に気になります。もちろん、誰が読んでも楽しめる作品だと思います。是非読んでみてください。