【映画】「判決、ふたつの希望」感想・レビュー・解説
この映画を観るには、僕にはちょっと知識が無さすぎた。
それでも、凄い映画だということは分かる。
見て良かった。
個人には、どうにもならないことがある。
例えば、「災害」などはその最たるものだろう。
もちろん、自然災害にも、「人災」に近いものはあるかもしれない。地球温暖化など、人間が地球に負担を掛けていることが、遠回りして自然災害として僕らに返ってきている、ということはあるだろう。しかしそうである場合、先進国に生きる人間は全員加害者ということになるだろうし、それを原因とした対立は生まれないように思う。
戦争や革命などは、個人にはどうにもならないことではあるが、自然災害とはまたちょっと違う。「アラブの春」のような、特定の誰かが主導したわけではない革命もあるが、大体の場合、戦争や革命には、それを引き起こした個人や団体がいる。イデオロギーや宗教などによって「正しさ」は様々だが、戦争や革命などは、明確に「人間」が引き起こしているものだ、と判断できる。
そういうものに巻き込まれた時、個人にはなす術がない。
抗ったり、主張したり、守ったり、戦ったり、勝ったり負けたり、そういうことは、個人の努力でどうにか出来る領域ではなくなってしまう。戦争や革命という外枠に遮られて、「個人」というものがどこまでもないがしろにされていく。そういう現実の中を生きなければならない。
僕は、個人的には、そういう経験をしたことがない。本や映像で、そういう出来事に巻き込まれた人や状況について知識を知っているだけだ。そしてそれらは、どうしても「遠い情報」になってしまう。日本には民族的な対立も、内乱も、目に見える範囲では存在しない。もちろん、どこかには必ずあるのだろうが、はっきりと誰もが認識出来るような形でそれらが社会の中に存在しているわけではない。
だからこそ、想像しにくい。「遠い情報」として、頭で理解するしかない。
この映画の凄さは、そういう「民族的な対立」や「内乱」が、「個人間の争い」として理解出来ることだ。
個人の物語として、民族的な対立や内乱が立ち上がってくるので、「遠い情報」にならずに、その状況を受け入れることが出来る。もちろん、彼らが立つ場所の背景は恐ろしく複雑だ。背景をちゃんと理解しようとすれば、分厚い本を何冊も読まなければならないだろう。しかし、そういう複雑な背景が、「ご近所トラブルに端を発する問題」という、非常にミニマムな世界から湧き上がってくるのだ。
物理学の二大理論として、「相対性理論」と「量子論」がある。大雑把に言うと、相対性理論は惑星などのメチャクチャ大きな対象に、量子論は原子などのメチャクチャ小さな対象に適応する。そして、現在の物理学の難問は、この両者が混じり合わないことなのだ。相対性理論の常識は量子論の世界では通用しないし、量子論の常識は相対性理論の世界では通用しない。科学者たちは今、この二つの理論を融合させようと必死になっている。
この映画からも、似たような印象を受けた。ご近所トラブルは、「量子論」のように小さな世界の話だ。しかし難民や虐殺などは、「相対性理論」のように大きな世界の話。それぞれの領域の内側であれば、適切な解決法が存在するかもしれないが、量子論的な話を相対性理論的な世界で解決しようとすると途端に難しくなっていく。
しかし、現実は現実だ。映画の中の世界(それはつまり、中東の今の現実ということだが)では、量子論的な世界の中に、あっさりと相対性理論的な世界が割り込んでくる。それぞれを分離して、単独で扱うことが出来なくなっている。
その困難さが、この映画では実に見事に描かれている、と感じた。
内容に入ろうと思います(映画では、レバノン人にとって常識であることは当然描かれません。なので、設定などの説明は、僕が映画を見ながらおそらくこうだろうと理解したことを書いています。事実と違っていたらすいません)。
舞台はレバノン。内戦の続く中東の国であり、現在はレバノン人と、国内の難民キャンプで暮らすパレスチナ人が住んでいる。レバノンは「レバノン軍団」という、先の内乱で最も苛烈な虐殺を行ったとされる政治団体が政権を握っており、対立の火種はくすぶったままだ。
自動車修理工場を営むトニーは、そんなレバノン軍団の党員だ。パレスチナ人への異様な敵愾心がある。レバノン軍団の演説を終始テレビで見て、当主の顔写真を家に飾っている。妻のシリーンはそんな夫をそこまで快くは思っていない。それもあって、首都のベイルートではなく、トニーの出身地であるダムールに引っ越したいと言うのだが、にべもなく断られる。
一方、パレスチナ難民であるヤーセルは、不法就労ではあるが、とある工事請負会社で現場監督を務めている。仕事ぶりは実直で、必ず工期内に作業を終わらせると評判だ。
ヤーセルは今、市内の違法建築を修繕する仕事に取り掛かっており、ちょうどトニーの家の真下で作業していた。トニーは日課である水やりをしていたが、バルコニー(これはレバノンでは違法建築だ)に取り付けた排水管から階下に水が流れ、ヤーセルに掛かった。ヤーセルはトニーの自宅を訪れ、違法建築を修繕する目的で排水管を見せてほしいと言ったが、トニーに断られたので、無断で排水管を付け替えた。しかしそのことにトニーは激怒し、付け替えたばかりの排水管を破壊。そのことで頭に血が上ったヤーセルは、トニーに向かって「クズ野郎」と言い放つ。
トニーは侮辱されたことを事務所に抗議した。ヤーセルが謝罪しなければ訴えると伝え、所長はヤーセルに謝罪をさせようと手を尽くすが、色々なすれ違いがあり、ヤーセルはトニーを殴り、肋骨を二本折る怪我をさせてしまった。
やがて裁判が行われた。双方とも代理人を立てずに争ったが、話を聞いた裁判官は、「トニーがヤーセルに対して何らかの暴言(ヤーセルが裁判で明かさなかったので裁判官にはそれがどんな暴言であるか分からない)を向けたことで暴力に至った」と認定。ヤーセルを無罪とする判決を出した。この判決に納得がいかないトニーは、優秀な弁護士と共に控訴審を起こすことになるのだが、この裁判が国を揺るがす大騒動へと発展していく…。
というような物語です。
これは考えさせる物語だったなぁ。正直なところ、背景的なことは知りません。これは映画が悪いわけではなく、僕の知識不足です。おそらく一般的には、世界史や現代史の授業で、大雑把な概要は習うものなんでしょう。僕は、パレスチナやパレスチナ人について、漠然としたおぼろげな知識はありますが、詳しいことはわかりません。そういう状態でこの映画を見ているので、恐らく深いところまでは理解できていないでしょう。
それでも、トニーとヤーセルをとりまく状況が、個人の思惑を離れてどんどん大きくなってしまっている状況に、複雑な感覚を抱くことが出来ます。
正直、争っているトニーとヤーセルのどちらに正義があるのか、僕には分かりません。「どんな理由があれ暴力を振るうのは許されない」という話も分かるし、「暴力を振るわざるを得ないほどの状況はあるし、仕方ない暴力は許容されることもある」という話も分かります。トニーもヤーセルも、世の中のほとんどの人がそうであるように、単純に善悪で切り分けられる存在ではなく、ある場面では悪寄りだし、ある場面では善寄りです。「どちらが正しいのか」という話は、そういう意味で非常に判断が難しい問題です。
ただ、一つだけはっきりしているシンプルな事柄があります。それは、「トニーが求めていたことは謝罪だけである」ということです。これは一貫しています。トニーは、どこかの段階で謝罪をしてくれていれば裁判など起こさなかったと語っています。そう、ヤーセルは、頑なに謝罪しませんでした。その理由も恐らく、過去の歴史や民族的な対立に根ざしているものでしょうから、部外者の僕がどうこう言う話ではありません。ただ、単純な事実として、「トニーは謝罪のみを求めている」し、「ヤーセルが謝罪すればすべて終わる」ということです。
さて、そういう状況の中で始まった裁判ですが、状況は個人の思惑を超えた不可解なものへと進展していくことになります。
裁判という「戦場」においては、「勝つ」か「負ける」かのどちらかしかありません。そして弁護人(代理人?)は、勝つためにあらゆる手を尽くすことになります。しかし…その手段が、原告・被告ともに望んでいないものへと発展していきます。トニーは謝罪だけを求めているし、ヤーセルは実は自分が有罪であることを認めています。しかし、第一審後に起こった状況の変化が、ヤーセルに厳しい現実を突きつけます。詳しいことは書きませんが、ヤーセルは「負ければ過失致死罪として長く刑務所に入れられるかもしれない」という、当初からは想像もつかない難しい立場に置かれることになります。だからこそ、自分の有罪を認めていながらも、裁判の場において戦わざるを得ないという、苦しい立場に置かれます。
苦しいのはトニーも同じです。こちらも詳しいことは書きませんが、トニーにとっても「そんなことをしてまで勝ちたくない」と思えるような、辛く厳しい状況が目の前に現れることになります。「法廷戦術だ」と言われればそれまでですが、個人の感情としては受け入れがたい状況に置かれることになります。
それ以外にも、様々なことが起こります。そのほぼすべてが「場外乱闘」というべきもので、トニー・ヤーセル両者のことは置き去りにされていきます。
そういう中で、置き去りにされた両者が「個人」としてどう振る舞うのか。これについては深く描かれるわけではありませんが、後半のあるシーンで、観る者は二人が置かれた状況の異様さを強く認識するのではないかと思います。
個人という実に小さな世界の物語が、様々なフィルターを通り抜けることで、民族や国家という非常に大きなものと直結し、そうなったが故に個人が置き去りにされていく、という矛盾みたいなものを明確に突きつける映画だと感じました。前半は、トニーもヤーセルもたくさん喋りましたが、後半はほぼ喋る機会がなかった、という意味でも、個人がないがしろにされている状況がうまく描かれていると感じました。
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