【映画】「そして父になる」感想・レビュー・解説

『面倒なことじゃなければいいんだけどな』

野々宮良多(福山雅治)は、妻・みどり(尾野真千子)から話を聞いて、そう呟く。息子の慶多が生まれた産院から、話したいことがあると連絡があったのだ。都心の大手企業で働く良多は、人も羨むような家や環境を手に入れてきたが、仕事ばかりで子どもと接する時間は少ない。

『子どもは、時間ですよ』

群馬で町の電気屋を営む斎木雄大(リリー・フランキー)は、「何でも一人で出来る子に育てたい」という良多にそう語る。妻・ゆかり(真木よう子)と共に、長男の琉晴を筆頭に三人の子どもと一緒に、一緒に遊んだり連れまわしたりして楽しく日々過ごしている。

良多は、息子にピアノを習わせ、幼稚園受験をさせ、一人でお風呂に入らせ、挨拶をきちんとさせる。一日でもピアノの稽古を休むと、「取り戻すのに三日掛かるんだぞ」と妻を責め、自分は仕事のため自室に籠もる。

雄大は、暮らし向きは決して楽ではないだろうが、子どもたちと無邪気に戯れるようにして日々関わり、家庭には常に笑顔が絶えない。妻とも、なんだかんだいいながらとてもよい関係を築いている。

『このような場合、ご家族は100%、交換を選びます』

突然の宣告。6年前、同じ産院で生まれた野々宮家と斎木家の息子は、取り違えられ、6年間両家族ともそれに気づかないまま息子を育ててきた。

『どうして気付かなかったんだろう。私、母親なのに…』

慶太の母・みどりは、自分の過ちを責める。

『二人とも、引き取らせてもらえませんか。まとまったお金なら、用意できます』

自身も、両親に対して不満を持ちながら子ども時代を過ごしてきた良多は、「親」というポジションに、まだ馴染めていない。

『負けたことのないやつってのは、本当に人の気持ちがわからないんだな』

雄大は、良多の「父親としての在り方」に、そして「人間としての在り方」に疑問を呈す。

『似てる似てないに拘るのは、子供と繋がってる実感のない男だけよ』

ゆかりはもしかしたら、目の前にいるどんな子供でも、愛することが出来るのかもしれない。

『今度琉晴君ち、いついくの?』

良多の息子・慶多は、それまでの6年間、きっと味わうことのなかった「父親」という存在を、斎木家で初めて知った。

『今、何時ですか?』

雄大の息子・琉晴は、何故自分が野々宮家にいなくてはいけないのか、理解が出来ない。

育ててきた息子は、血を分けた子供ではなかった―。
そんな残酷な現実を突き付けられた二つの家族。

『いろんな親子があって、いいと思うんですよ』

そう口にする良多こそが、このニ家族の「環」から、最も弾かれていくことになる。

「そして父親になる」

このタイトルには、良多の覚悟が詰まっている。


この作品には、元になった実際の事件が存在する。
その顛末は、「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年」という作品に描かれている。この作品が、本作の原案となっている(最後のクレジットでは、「参考文献」という表記だった)。昭和52年、沖縄で起こった赤ちゃんの取り違え事件は、二家族の環境の差や、経済的な状況などによって非常に捻れた展開を見せることになる。映画では、舞台も時代も家族の設定もまったく違っている。とはいえ、「会おうと思えば行き来出来る距離に住んでいる」「一方はきちんとした教育がなされ、一方は放任主義で子供が育てられた」など、背景的な共通項は多いと感じた。

原案となった作品では、ある少女に重点的に焦点が当てられる構成となっていた。著者もあとがきで、彼女の存在を追い続けたからこそ、こうして作品として結実した、というような趣旨のことを書いていた。

一方で映画では、良多(福山雅治)に焦点が当てられている。良多が父親としてどう変化していくのか。それが映画の焦点の一つだ。

良多はそもそも、子供を「教育すべき対象」としてしか捉えていない。良多にとって慶太は、「自分の手であれこれいじくることで、芸術的な形になるはずの粘土」のような存在でしかない。もちろん、子供を可愛く思うような気持ちもきっとどこかにはあるだろう。しかしそれは、明白な形では表には出てこない。良多の仕草や言動には、「こう振る舞うことが慶太の教育として良い」という瞬時の選択が見え隠れする。その笑顔も、その優しげな声も、すべては「粘土をこねるための仕草」でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

別に、そのことを非難するつもりはまるでない。良多が言っていたように、『いろんな親子があっていい』と思う。良多がそういう教育をすることで、慶太の内側に隠されていた才能が開くかもしれないし、最終的にそれらが慶太のためになるかもしれない。それはわからない。だから、慶太のことを「教育すべき対象」としか見ていない良多のことをとやかく言うつもりは僕にはない。

父親である良多にはなかなか視界に入らないだろうが、映画では当然慶多に焦点が当たることも多く、父親のいないところで慶多は時折「父親への不満らしきもの」を漏らす。しかしそれは、あやふやなものだ。慶多にとって良多は唯一の父親だし、他に比較すべき対象があるわけではない。父親に対して不満を抱いたとしても、「そんな不満を抱く自分が間違っているのだ」と解釈することは十分ありえる。実際僕の目には、慶多は父親との関係をそう規定しているように思える。そういう慶多の在り方を見てしまうと、良多の子育て・教育は「間違っている」と言いたくなる。しかし、そういう事実を知らない(見ようとしない)良多にとっては、自分は「良き父親」であり、「子供のために最善を尽くしている」という自覚で日々を過ごしているはずだ。それについてとやかく言える人物がいるとすれば、妻のみどりぐらいなもので、他人がとやかく言うことではないだろう。

そのままであれば、問題はなかった。いや、「問題は未来に先送りされた」というべきだろうか。もちろんそれは、未来に至っても問題とはならない可能性もある。問題の種のまま、芽を出さなかった可能性もある。それは誰にも分からないが、しかし、良多のような子育てをしていれば、未来にいずれ歪が出てくる可能性は高かっただろう。そういう意味で、もし「取り違え」なんていう出来事がなければ、「問題は未来に先送り」され、良多も「良き父親」という自覚をそのまま引きずることができたはずだ。

これが、取り違えが発覚するまでの、良多を取り巻く状況だ。良多はそれまで成功し続けてきたのだろう。自分には能力があるし、どんなことでもやれると信じている。努力をしない人間は無能で、良多には理解できない人種だ。

「取り違え」という現実に直面した良多は、「納得」と「理解不能」という二つの感情を併せて抱くようになる。

「納得」の方については、触れないことにする。

良多は、妻や斎木家の言っていることや反応が、理解できない。「自分は正しいことをしているはず」という思いが、さらにそれに拍車を掛けることになる。

『なんで上から目線で話されてるんだ?』

『あの壊れたヒーターも直してもらおうか』

『僕にしかできない仕事があるんですよ』

『なんで俺が電気屋にあんなこと言われないといけないんだろうな』

良多は、自分のことしか考えていない。『自分』が『息子』を最高の『芸術品』に仕上げる。それを邪魔するものは、すべて理解不能なのだ。何故それが、周囲に理解されないのかも、分からない。

『とりあえず手元に置いてみるよ。血が繋がってるんだから、なんとかなるだろ』

同級生の気安さから、本音も出る。良多にとって『子供』というのは、『その程度の存在』でしかないのだ。

そんな良多が、様々な出来事を経て、変わっていく。「取り違え」という無慈悲な現実が、良多を生まれ変わらせていく。

とはいえ当然のことではあるが、だからといって「取り違え」が「美談」のように描かれるわけはない。現実は現実として、取り違えられた二つの家族の悲哀には、常に焦点が当たっていく。

その中心にいるのが、やはり良多の妻・みどりだろう。

『二人でどっか行っちゃおっか。どこか遠いところ』

みどりは良多と違い、健全な(という表現はあまり使うべきではないかもしれないけど、あまり深い意味には取らないでください)母親として、野々宮家の「悲しみ」を一手に引き受ける。普段仕事で家にいない夫の代わりに家のことをすべて引き受けるみどりは、「子供の交換」という日常にも、基本的に一人きりで対処していかなくてはいけなくなる。

みどりの心は、最初から決まっているように思える。そういう意味では良多と同じだ。良多とみどりはきっと、最初から自分なりの結論を持っていた。

だからこそ、みどりの心は揺らぐ。

『慶多に申し訳なくて…』

母親として、「取り違え」に気づかなかったという罪悪感も、みどりを苛み続ける。そしてみどりは、良多に胸の裡をさらけ出すことが出来ない。さらけ出しても良多はきっと受け止めてはくれないだろう。みどりには、きっとそんな予感があるはずだ。だから、ぐるぐると渦巻く様々な思いを吐き出す場がない。

「取り違え」が発覚し、長い時間があったある場面。みどりはこんな風に呟く。

『慶多はきっと、私に似たのよ』

このセリフには、身をつまされる思いだった。みどりが、どんなつもりでこのセリフを言ったのか、それは分からない。願望なのか、諦念なのか、それとも冗談なのか。慶多は、良多とみどりの子ではないのだ。みどりに似るはずがない。それでも、こんな言葉を口に出すしかなかったその現実に、感じるところがあった。

慶多は、口数の多い子供ではない。大人しく、あまり自分の感情を表に出さない。だからこそ、慶多が何をどう感じ、状況をどう理解しているのかは、なかなか窺い知ることが出来ない。時々発する言葉も、非常に「お行儀の良い言葉」ばかりで、それは「父親の目を意識した発言」のように思えてならない。特に前半は、慶多の本心がどこにあるのか、ほとんど掴むことが出来ない。

非常に印象的なシーンがあった。この映画の中で、一番好きなシーンだ。そのシーンに繋がる、重要な場面を紹介したい。

珍しく良多が公園で慶多と遊んでいる。良多の手には、高そうなデジタル一眼レフカメラ。それで息子の写真を撮っている。慶多も撮りたいとせがみ、カメラを受け取る。そこで良多は慶多に、「そのカメラあげるよ」という。慶多はこう返す。

『要らない』

このシーンが、後々非常に重要な意味を持つ。何故慶多は、カメラを「要らない」と言ったのか。これまでにも、良多と慶多の間には様々な選択肢や分岐点が存在し、その度にお互いがそれぞれの選択をし、それが概ね一致するように慶多が努力してきたからこそ、この親子関係が成り立っていたのだろうと思う。しかし、慶多がこの場面で『要らない』と言ったことで、恐らく慶多は初めて、「父親の選択肢に寄り添わない」という決断をしたのではないか。慶多にとっては、6年間の人生の中でも非常に大きな、そして重要な場面だったかもしれない。

「要らない」という言葉の意味をやがて知ることになる良多。恐らくそれが、良多に最大の変化を与えたのかもしれない。このカメラを介したシーンは、物凄く良かった。慶多の、恐らく人生初の「反抗」が、良多の目を見開かせる。

この映画を見て強く感じたことは、「正解はない」ということだ。「親子の形」にも、「幸せの形」にも、どこにも正解はない。「正解かもしれない」ものを追いかけ続け、「正解ではないかもしれない」という逡巡と共に過ごしていくのが、つまり人生というものなんだろう。

ただ、それと同時に、「現在を基準にしたい」という個人的な思いも、強く持った。斎木家は、「現在の幸せ」を追い求めている一家だ。将来どうなるかは分からない。けど、とにかく今全力で楽しもうとしている。一方で野々宮家は、というか良多は、「将来の幸せ」を追い求めている。今は辛くても、必ず将来役に立つ。その信念が、良多を厳しくさせる。

これも、正解はない話だ。でも僕は、「現在の幸せ」を追い求める生き方の方がいいな、と思う。将来のことを考えなくていいわけではないが、「現在を著しく犠牲にしてまで追い求める未来」に、個人的には、強く価値を見出すことは出来ないなと、この映画を見て感じた。

『六年間は、パパだったんだよ』

そう息子に叫ぶ良多は、「強くなければならない」という自分の「弱さ」を、打ち破ることが出来たのかもしれない。

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