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【本】天童荒太「包帯クラブ」感想・レビュー・解説
あぁそうか。僕らはいつの間にか、「見えない傷」を負っているのか。それを引きずりながら生きていたんだ。
見える傷は、すごくわかりやすい。派手に怪我をしたり、バンソウコウが貼ってあったり、血が流れていたりすれば、僕らはそれが傷だったこと、すぐわかる。傷だとわかってもらえれば、誰かが優しくしてくれるだろう。包帯を巻いてくれるかもしれないし、優しく声を掛けてくれるかもしれないし、とにかく何か優しさで包んでくれそうな気がする。
でも、「見えない傷」の場合、そうはいかない。誰も、傷を負っていることに気付いてくれない。だって、それは見えないのだから。隠しているわけでもないし、見つかりたくないわけでもない。それなのに、ただ「見えない」というだけの理由で、誰からも優しさを受けられない。
そうやって「見えない傷」をどんどん抱え込みながら、僕らは生きていくしかない。抱え込んだ傷があまりに多すぎると、やがてそれは「見える傷」、あるいは「見せる傷」に変わっていってしまうのだろう。例えば、リストカットもその一つなのだろう。「見えない傷」を抱えすぎた人が、誰かに気付いて欲しくて、誰かに傷ついてることを知って欲しくて、わざと「見える傷」をつけてしまうのだろうと思う。
僕にも、経験がないわけでもない。
普段から、感情をあまり表に出さない人間で、だから辛いことがあっても笑ってごまかしたりしていた。辛くなかったわけないけど、でも辛さを表に出して自分の世界を壊してしまうよりは、辛さを押し隠してでも、このささやかな世界を守りたい、なんてそんな風に思ってたんだろうと思う。
そんな風にしてずっと生きてきた。
もちろん、いずれどこかで破綻するだろうな、とは思っていた。それはもうずっと昔から思ってたことで、このまま辛さを隠して生きていれば、いつかどこかで何かが壊れるだろうということは知っていたのだ。
それでも、やはり「見えない傷」を周囲に見せることはなかなか出来なかった。何らかの破綻を迎えるまで、それを抱え込んでいくしかなかったのだと思う。
実際、カッターで手首を切ろうと思ったこともあるし、屋上から飛び降りようと思ったこともある。その時々で僕は本気だった自信はあるし、どうしても死にたいと思っていた自信もあるのだけど、でも振り返って考えてみると違ったのかもしれない。そういう行為の一つ一つは、「見えない傷」をなんとか見せようとして、見せられる形にしようという一心でのことだったのかもしれない。誰かにその傷を見つけてもらいたくて、誰かに優しく傷を撫でてもらいたくて、それでそんな行動をとったのかもしれないと思う。
「見えない傷」であろうとも、傷はいつかなんらかの形でふさがることだろう。ふさがらないような致命的な傷もあるのだろうけど、もはやそれは傷とは呼べないようなものだろう。傷であるからには、いつかふさがると僕は思う。
それでもその傷は、誰にも認められず、誰にも知られることなくふさがっていくのである。自分の中だけで傷を見つけ、自分自身の力だけでその傷を埋め、そうやって僕らは騙し騙し生きていかなくてはいけない。
なんだか哀しい。
最後に傷を塞ぐことが出来るのは自分自身でしかないだろう。それはどんな場合でも変わりはないのだけど、でも、傷を負っているということを誰かに認めて欲しいと思う欲求は、誰もが持っているのではないかと思う。
その傷を癒すことはできないし、治すこともできない。
でも、ただそこにあるものとして、きちんと存在するものとして認めてあげることは、きっと誰にだって出来そうなものだ。
僕らの日常の、触れられそうなところに、「見えない傷」はたくさん転がっている。多くの人間が、生きていく中で負わなくてはいけなかった様々な傷で、世界は溢れかえっている。
その傷を、僕らは何らかの形で見つめてあげるべきなのかもしれない。
見つめてあげる、ただそれだけの行為が、なんらかの力になるのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
高校二年生のワラは、世界の中に自分の居場所がないのではないか、と感じている。未来に対する希望も抱けないまま、今を享楽的に消費することも出来ず、ただ何でもない存在としての自分を見つめながら、日々を過ごしているだけであった。
高いところから街並みを見たい。そう思って行った病院の屋上で、ディノと名乗る奇妙な少年に出逢った。胡散臭い関西弁とその会話の内容に一瞬たじろぐも、彼が持っていた包帯を屋上に巻きつけ、「これでええ、血が止まった」と言った時、不思議なことにそれまでと風景が変わったように感じた。
それから、落ち込んでる友人のタンシオの話を聞き、フラれたという公園へと出向いた。そこで、ディノがやったようにブランコに包帯を巻きつけると、タンシオもなんだか気が楽になったと言う。
包帯を巻くという行為には、何かの力があるのかもしれない。
そうしてワラは、「包帯クラブ」を結成することにした。ネットで依頼者を募り、それぞれの人の抱える「見えない傷」に対して、包帯を巻くのである。
何でもない日常と、何者でもないという閉塞感に閉じ込められた若者達が、奇抜なやり方でその閉塞感から抜け出そうとする、一瞬の物語。
というような感じです。
久々の天童荒太の新刊でしたけど、これなかなかよかったです。
まず、「見えない傷に包帯を巻く」という発想が、本当にいいなと思いました。実際、これがどれほど効果的なのか、やったことがない僕にはきっとわからないだろうけど、でも気休め以上の効果はあるような気がします。「包帯を巻く」という行為そのものよりも、「誰かとその傷を分かち合う勇気を持つことが出来る」という点で、すごく意味のある行為だな、と思いました。
人は、人の悩みを解決出来るほど素晴らしくもないし、人の傷を引き受けるほどお人よしでもないのだけど、でも人の傷を分かってあげることぐらいは出来るのだろうな、と思います。分かってあげたところでどうにかなるわけでもないのだけど、でも誰かに分かってもらえたというそのスタートから、一歩を踏み出すことができる人は結構いるのかもしれません。
僕だったら、やっぱり実家に包帯を巻くのかな、と思います。僕のありとあらゆる感情が置き去りにされているのではないかというその空間に包帯を巻いてあげることで、閉じ込められてきたその感情を解き放つと共に、自分の中で何らかの解釈の変化を生み出せるかもしれないな、と思います。包帯を巻くというのを一つのきっかけにして、新しい一歩を踏み出すことが出来るかもしれない、とも思います。まあ、そう簡単なことではないと思いますけどね。
本作では、今の若い世代(一応僕の世代も含めたいところだけど、でもやっぱ今の中高生とかかな)の感じているだろう虚無感だとか閉塞感だとか虚脱感みたいなものが結構的確に投影されているような気がします。誰かと勝負をしているわけでもないのに負けないことを求められ、上を目指すようにはっぱをかけられ、ありがちな幸せを無理矢理押し付けられるような日常の中で、若い世代が感じていることをうまいこと描き出しているような気がします。
大人はそんな子供のことを、甘えてるとか言うのかもしれないし、実際そうなのかもしれないけど、でも僕はやっぱり違うと思うんです。今の大人が子供だった頃は、選択肢が与えられることなど稀で、既に自分が進むべき方向みたいなものが決まっていた、という風に思うんです。もちろんその決まった道からなんとか抜け出すような人もいたんでしょうけど、でも概ねそうなんじゃないかな、と思います。そんな生き方が幸せだったかどうかは別として、決められた道を歩むのに悩む余地が少なかったことは確かだと思います(これは僕の勝手な意見なので、そんなことない、と思われる方がいたらすいません)。
でも今の世代というのは、それこそ選択肢が無限に与えられていると思うのです。もちろん現実的な選択肢は少ないにせよ、それでもどんな方向にでも進もうと思えば進むことが出来るわけです。
もちろん、そんな時代を幸せだという大人は多いでしょう。しかし、たった一度しかない人生にこれほど多くの選択肢を与えられたって、どうやって選んだらいいのかわからない、というのが普通だと思います。自分で道を選ばなくてはいけないというのは、ある意味人生に対してものすごく前向きにならなくてはいけないことで、それを強いられるのはすごくキツイと僕は思います。
そんな時代を生きる若い世代の気持ちみたいなものをリアルに描いているような感じがして、さすが天童荒太だと思いました。
これは、結構読んで欲しい作品です。大人にも子供にも。分かるとか分からないとかじゃなくて、今はこんな時代なのだということを認識する、あるいは実感するのにもいいのではないか、と僕は思います。
是非読んで見てください。
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