【欅坂46】【映画】「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」(二度目)感想・レビュー・解説

※一度目の感想は以下。
【欅坂46】【映画】「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」
https://note.com/bunko_x/n/nee04aa2dbb9b


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【欅坂46】表現者集団・欅坂46、そして平手友梨奈の存在感
https://note.com/bunko_x/n/n7d445c796b70


自分が関われなくても、生きてこの世界のどこかにいてほしい、と感じるタイプの人がいる。
今まで直接的に出会った人の中にもそう感じる人はいたし、直接は関われない遠い世界の人にそう感じることもある。
平手友梨奈も、まさにそう感じさせるタイプの人だ。
表現の中心にいなくても、世界の片隅で隠れていてもいいから、平手友梨奈には、この世界のどこかに生きていてほしい。
僕は、他人に「生きていてほしい」と願うことは傲慢だと思っている。だからこそ、なるべく他人に対してそう思いたくはないが、平手友梨奈には、「生きていてほしい」と思ってしまう。

僕も、平手友梨奈と比べるのは申し訳ないレベルではあるが、人生の様々なことから”逃げて”きた。
(”逃げて”とカッコに入れて表記したのは、平手友梨奈の意識の中で、それが「逃避」なのか分からないからだ。とりあえずこの”逃げて”という表現は、客観的にはそう見える、という捉え方をしてほしい)
だから、ちょっとは分かるつもりだ。逃げる側の苦痛が。

<黒い羊 そうだ僕だけがいなくなればいいんだ
そうすれば止まってた針はまた動き出すんだろう?>(黒い羊)

この映画を観て改めて感じたことは、「欅坂46」というグループに『黒い羊』という曲を歌わせることの凄まじさだ。
この曲では、自分のことを”黒い羊”だと感じている主人公が、自分の気持ちは曲げられないし、でも集団の理屈にも従いたくなくて、だったら自分がいなくなればいい、そんな風にしか生きられないんだし、”白い羊”のフリなんかしてたまるか、みたいな風に考えるという世界観だ。

映画を観る前であっても、確かに、「欅坂46」と『黒い羊』を重ね合わせることは容易なのだが、映画を観た後だと、『黒い羊』の歌詞やダンスの世界観が、平手友梨奈と平手友梨奈を擁するグループの関係の輪郭をより浮き彫りにさせているように思う。

秋元康の手法と言えばそれまでかもしれないが、しかし、平手友梨奈という、欅坂46の支柱たる人物がまさにグループを離れる離れないのやり取りをしている最中に、まさにその状況を映し出しているとしか思えない楽曲を当人たちに歌わせ踊らせるという、リアルとフィクションをごちゃまぜにする打ち出し方は凄いと思った。

印象的なシーンがある。2017年のどこかのタイミングで、平手友梨奈がメンバーを集めて、12/31でグループを離れるつもりだという意思を伝える場面だ。そこで平手は、メンバーにこう問いかける。

【みんなは今、欅坂をやってて楽しいですか?】

何故かは分からないけど、最初に観た時と、この言葉の捉え方が変わった。

僕は、欅坂46というグループを熱心に追いかけている人間ではない。グループとしてはむしろ乃木坂46の方が好きだ。楽曲やパフォーマンスには惹かれるが、メンバーについては、平手友梨奈以外に注目したことはほとんどない。平手友梨奈に関しては、色んな雑誌のインタビューを読んだりしているが、それだけだ。

一度目の時は、映画全体の展開もまだ分からないままの状態だったので、この場面での平手友梨奈の言葉は、単純に、「私は今、欅坂が楽しくないよ」という意思の表明だと単純に受け取ってしまった。

でも、一度最後まで映画を観た上で、改めてこの言葉に触れた時、違う意味に感じられた。それは、「私がいるせいで、みんな楽しめないんじゃない?」というものだ。

<全員が納得するそんな答えなんかあるものか!
反対が僕だけならいっそ無視すればいいんだ>(黒い羊)

客観的に見れば、欅坂46のメンバーは平手友梨奈に振り回されていると言っていい。ライブの当日に不参加を決めたり、MV撮影に来なかったりする。ライブのリハーサルでは、平手が出演するかどうかが決まっておらず、メンバーは「平手がいるバージョン」と「平手がいないバージョン」の二種類の振りを覚えなければならない。

そしてそれは、客観的に見れば、平手友梨奈の”ワガママ”によって起こっている。「その歌詞の世界観は表現できない」「今は表現に自信が持てない」というのは、表現者・平手友梨奈の強さの現れだと思うが、しかし一般社会の常識を持ち出してしまえば、ただの”ワガママ”と判断されても仕方ない。

つまり、平手友梨奈はまさに、<全員が納得するそんな答えなんかあるものか!反対が僕だけならいっそ無視すればいいんだ>を地で行っていると言っていいだろう。

難しいのは、平手友梨奈は、メンバーに共有することなく、「全員が納得するそんな答え」が存在しないと思い、自らの行動の決断をしてしまうことだ。

<放課後の教室は苦手だ
その場にいるだけで分かり合えてるようで
話し合いにならないし
白けてしまった僕は無口になる
言いたいこと言い合って解決しよう
なんて楽天的すぎるよ>(黒い羊)

映画の中で小池美波がこんなことを言っていた。

【平手の悩みが分からない。平手はいつも、欅坂のことを考えてくれているけど、もっとずっと先のことを考えているんだろうから、ちゃんとは理解できなかった】

平手友梨奈の主観では、まったく相談していない、ということでもなかったようだ。

【こうやって言えるのは、また“不協和音”みたいな曲が来るかもしれないけど、みんな“不協和音”の頃の私を知ってくれてるから、きっとわかってくれるなというか、わかってほしいなと思うから。初めてメンバーに本音を言いました。『表現ができない』って。『だから助けてほしい』って。すごい勇気がいったけど。そしたらすごいみんなが助けてくれた。初めて本音を言ったツアーでした。何回かメンバーが楽屋に来て『平手と話したい』って言ってくれて、そこで正直に話したし、『できない』って。みんながほんとに支えてくれたので助かりました、このツアーは。】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

外野の僕には実情は掴めないが、映画の中で守屋茜が言っていたように、

【『二人セゾン』辺りから変化を感じてたけど、それでもまだ日によってはコミュニケーションが取れてた。もう分かんなくなっちゃったのは『不協和音』辺り】

という感じだったのだろうと思う。

平手友梨奈は「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」の中で、「子供の頃は表現したいみたいな欲求はまったくなかったけど、表現することと出会ってその欲望に気づいた」という話をしている。「わたしがやりたいかやりたくないかは、表現がしたいかしたくないかなんだ」という発言も、過去にしているようだ。とにかく、欅坂46に入り、歌やダンスをすることで、「表現すること」に覚醒したと言っていい。

しかしその覚醒は、他のメンバーと共有できるようなものではなかった。まあそうだろう。秋元康は、RADWIMPSの野田洋次郎に、「平手友梨奈は、二度と合えないぐらいの天才だ」という発言をしたという(https://news.yahoo.co.jp/articles/aeb393f7ba78e31cde95bca8b51afa842e13b755)。平手友梨奈が”どの程度”天才なのかについては議論はあるかもしれないが、”天才であること”に異論を持つ人は少ないだろう。平手友梨奈自身は、自分のことを天才だと思っているわけではないだろうが、しかし、欅坂46の他のメンバーとの言葉・感覚の通じなさみたいなものはやはり感じ取ってしまうだろう。しかも、デビュー時から絶大な支持を受けた欅坂46だから、裏方の人も含め、業界トップの人たちと関わる機会も多かっただろう。恐らくだが、そういうトップクラスの人たちとは、言葉・感覚が通じたのではないかと思う。

<真っ白な群れに悪目立ちしてる
自分だけが真っ黒な羊
と言ったって同じ色に染まりたくないんだ>(黒い羊)

平手友梨奈には、目指したい表現の世界があり、トップクラスが集結する欅坂46という場は確かにそれを叶えうる場ではあった。しかし同時に、平手友梨奈の覚醒があまりにも目覚ましくて、他のメンバーと共有できる感覚がほとんどないという状態に陥ってしまったのではないか。言い方は悪いかもしれないが、小学生のサッカーチームにメッシがいるようなものだ。勝負にならない。

<人生の大半は思うようにはいかない
納得できないことばかりだし諦めろと諭されてたけど
それならやっぱ納得なんかしないまま
その度に何度も唾を吐いて
噛みついちゃいけませんか?
No No No No
全部 僕のせいだ>(黒い羊)

欅坂46が陥ったこの状況は、誰が悪いわけでもない。覚醒してしまった平手友梨奈が悪いわけではもちろんないし、覚醒した平手友梨奈についていけなかった他のメンバーが悪いわけでももちろんない。それは他ならぬ、平手友梨奈以外のメンバーの多くが感じていたことだろう。誰が悪いわけでもない。

しかしきっと、平手友梨奈はそれを、自分のせいだと感じたはずだ。

<誰かが溜め息をついた
そう それが本当の声だろう>(黒い羊)

<目配せしている仲間には僕は厄介者でしかない>(黒い羊)

主人公の一人称目線で描かれている『黒い羊』の歌詞から抜き出した上記のような描写が、実際に欅坂46内であったと思っているわけではない。そうではなくて、結局主観であり、『黒い羊』の主人公、あるいは平手友梨奈がどう感じたか、ということでしかない。誰かがふと溜め息をついたり、目配せをしている場面を見かけて、平手友梨奈は、自分の存在が欅坂46というグループには相応しくないと妄想を抱いてしまったかもしれない。

平手友梨奈はきっと、モヤモヤした思いをずっと抱えつつ、自らの表現欲も解放させていく。やはりそれは凄まじい。この映画には、ライブ映像がふんだんに使われているが、やはり平手がいるのといないのとでは違う。それは、他のメンバーを非難しているのではない。そうではなくて、やはり僕自身が、平手友梨奈の登場を求めているんだな、と改めて感じた。これも言い方は悪いかもしれないが、サッカーファンであれば、たとえその試合では目をみはるプレーをしなくても、メッシが自分の目の前でボールを追い、蹴っている姿を見れば感動するだろう。同じように、パフォーマンスそのものの差というよりは(僕はパフォーマンスの凄さみたいなものを感覚的にさえ捉える自信がない、というだけの話だけど)、僕自身が、平手友梨奈という存在の登場を望んでいるからこそ、平手友梨奈がいる時といない時では別のステージに見えるのだと思う。

映画の中で菅井友香は、平手友梨奈に対しては自分もファンのような目線になっている、と語る。

【彼女のパフォーマンスが好きだし、ステージで次はどんなものを見せてくれるんだろう、この曲をどんな風に表現してくれるんだろうっていつも思ってます。】

守屋茜は、【彼女の後ろだから踊れる、彼女が映える振りをしようって思える】【正直バックダンサーだなって思うこともあったけど、でも平手の後ろだから出来るんだっていうのもあった】という発言をしている。

平手友梨奈のパフォーマンス、そして存在が、「欅坂46」という存在を成立させている。それは、平手友梨奈以外の誰もが感じていることだろう。映画に登場するメンバーたちも、同じような主旨の発言をしている。

とはいえ当然だが、そこにはアンビバレントな感情も混じる。菅井友香はインタビューアーから、「でも、平手もうちょっとちゃんとしてくれよ、とか思わない?」と質問され、その質問に対して正面からの答えは返さずに、こんな話をしている。

【でも、てちがいてくれたことでここまで大きくなった反面、普通のグループではいられない部分があるんだなって、それは心配っていうか。他のメンバーのことを考えると、そのバランスが難しいなっていうのは感じます。やっぱりイメージしたグループではないから】

平手がいたからこそたどり着けた一方、平手がいることで崩壊の予兆を内包することになってしまう。全然話は変わるが、アインシュタインが生み出した相対性理論は、相対性理論から予測されるブラックホールで、理論が破綻することがわかっている。つまり相対性理論というのは、理論の崩壊を理論そのものが内包しているという稀有な理論である。欅坂46というのも、平手友梨奈という存在と不可分でありながら、平手友梨奈の存在によって崩壊が予兆されてしまうという、不協和音が鳴り響く状態にあると言っていい。

平手に出来ることは、その表現欲を最大限に放出することしかない。それは、欅坂46という存在を異常なまでの高みに昇華する原動力だ。しかし一方で、そうすればするほど、平手友梨奈の意識の中で、自分の存在が「厄介者」に感じられてくる。自分がいるせいで、他のメンバーが輝けない、日の目を見ない、自分だけが目立ってしまう。そしてそれは、彼女自身にとっても欅坂46というグループにとってもマイナスだと、彼女自身は結論したのだろう。

それが【みんなは今、欅坂をやってて楽しいですか?】という発言に繋がっていくし、結局、平手友梨奈が欅坂46を脱退するという流れに繋がっていくのだと思う。

平手友梨奈にとって、その決断は、本当に辛いものだったと思う。

彼女が、自分自身の都合だけで「欅坂46脱退」を決めたのであれば、むしろその方が気が楽だったのではないか、と僕は思う。グループの居心地が悪いとか、このメンバーではやっていけないとか、グループでの表現ではなく個人での表現をしたいなど、彼女自身の都合で欅坂46を離れるのなら、まだ楽だったんじゃないか。

でも、たぶんそうじゃないのだ。まさにそれが、『黒い羊』で描かれていることだ。

<黒い羊 そうだ僕だけがいなくなればいいんだ
そうすれば止まってた針はまた動き出すんだろう?>(黒い羊)

平手友梨奈が考えていることは、「自分がいなくなることが、グループを良くする方法だ」という方向の発想なのだと思う。僕がいなくなれば、止まってた針は動くだろう、ということだ。正直、平手友梨奈以外にそう思っている人はいないんじゃないかと思う。もちろん、平手友梨奈ばかり目立つ状況を苦々しく思うメンバーもいるだろうけど、その一方で、欅坂46というグループが平手友梨奈の存在感によって成り立っていることもまた理解しているはずだ。だから、総合的に考えて、「平手友梨奈がいなくなった方が欅坂46が良くなる」と考えている人は、メンバーを含めてほとんどいないだろう。

しかし彼女自身はきっと、そういう思考から抜け出せなくなってしまっていたのだと思う。彼女が、「卒業」という言葉ではなく、敢えて「脱退」という言葉を使った真意は、たぶんまだ語られていない(し、いつか語られる機会があるのかもわからない)が、僕が感じる印象は、「断絶」だ。「卒業」の場合、「卒業生」というような立ち位置で、グループの関わりは継続していると判断されうる。しかし「脱退」の場合、「脱退」した後は関係性が断絶している印象を与えるだろう。たぶんだが、平手友梨奈にとって、「自分という身体が欅坂46というグループを抜けること」よりも、「自分の存在感が欅坂46から抜けること」をより重視していたのではないかと思うのだ。

その理解が正しいかどうかは分からないが、つい先日発表された欅坂46の新たなグループ名には、平手友梨奈の存在感が感じられる。「櫻坂46」という名前に決まったようだが、地図上では「けやき坂」の「角を曲がる」と「さくら坂」に繋がっている、と話題になっている。『角を曲がる』というのは、映画『響』のエンディング曲である、平手友梨奈のソロ曲の名前だ。「欅」と「櫻」の漢字の画数が共に21画(欅坂46はデビュー時21人で、しばらく全員選抜として21人全員で楽曲に参加していた)こと、そして改名が発表された2020年9月20日のちょうど一年前に、『角を曲がる』のMVが公開されたことなど、「櫻坂46」と平手友梨奈の関連性が指摘されている。

もし僕の解釈が正しいとするならば、平手友梨奈が望んだ形になっていないと言えるだろう。自分の存在感を消すために「脱退」という言葉を使ったとするならば、平手友梨奈はこの「櫻坂46」という名前に何を感じるだろうか。

渡邉理佐が、欅坂46を離れた平手友梨奈に対して、

【これまで色んなものを犠牲にして表現をしてきたと思うから、これからは自分のために、自分の幸せのために時間を使ってほしい】

と話していたが、平手友梨奈の中にそういう発想はないだろうな、と僕は感じる。平手友梨奈は、「平手友梨奈」と「欅坂46」が共に全力で表現が出来るようにするために欅坂46を離れたのだ。表現にしか全力になれない彼女が、表現を止めることはないだろう。これからもきっと、自分の身を削りながら表現し続けるだろう。オファーがある限り。

平手友梨奈は、欅坂46の中にいて、様々に”逃げて”いた時は、自分がメンバーに多大なる迷惑を掛けていることを心苦しく思っていたはずだ。しかし、今は、自分だけが苦しめばいい。脱退のための決断は相当苦しんだだろうが、しかしそのお陰で、彼女自身の主観では、あまり人に迷惑を掛けなくてよくなった、と思っているだろう。欅坂46に残ってほしいと願っていた他のメンバーと、その点については最後まで溝が埋まらなかっただろうが、少なくとも僕の主観では、平手友梨奈は生き延びやすくなったと思うので、良かったと思う。

しかし、平手友梨奈は「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」のインタビューの中で、「子供の頃はまったく何もやる気がなかったし、欅坂46に入ってから自分の人生が始まったと言っていいくらいのレベル」というようなことを言っている。そんな平手友梨奈を、「表現の天才」に覚醒させたのは、やはり秋元康とTAKAHIROだろう。正直、並のクリエイターとの邂逅では、平手友梨奈は覚醒しなかったはずだ。欅坂46の異様な世界観を構築する秋元康の作詞と、独学でダンスを習得し唯一無二の振り付けを生み出すTAKAHIROの存在あって、平手友梨奈の覚醒が起こったのだろう。そう考えると、平手友梨奈のようにはまだ覚醒していない天才というのが、そこら辺のどこかを歩いていても、おかしくないんだろうな、とも思わされた。

二度映画を観て、改めて感じたことは、菅井友香の凄さだ。映画で、主要メンバーがインタビューに答えているが、多くのメンバーは「個人の意見」を話している。まあ、それで正解なのだと思う。「小林由依として」「原田葵として」「石森虹花として」彼女たちは話をしている。しかし菅井友香だけは「菅井友香として」ではなく、「欅坂46のキャプテンとして」話をしている。自らの果たすべき役割を忠実に担っている様は、本当に素晴らしいと感じる。

平手友梨奈が「正解を目指すタイプ」だとすれば、菅井友香は「最適解を目指すタイプ」だと感じた。どちらがいいというわけではないが、平手友梨奈も菅井友香も、自らのタイプを徹底的に突き詰めているという点で見事だと思う。例えは上手くないが、平手友梨奈は包丁さばきや調味料の組み合わせなど、自分の技量を高めることでより良いものを出したい人、菅井友香は、様々な状況を考慮した上で、今目の前にある調理器具や調味料を使って出来る最大のものを出そうとする人。平手友梨奈という怪物が集団の中に存在し得たのは、もちろん平手友梨奈を理解するメンバーの存在も重要だっただろうが、平手友梨奈とはちょっと距離を置いているように感じられる(それこそ「ファン」というような発言もそう感じさせる一つ)菅井友香が、最適解を目指すという自分の役割を徹底したことも大きかったのではないかと思う。

2020年7月に行われた無観客ライブの最後に改名することを発表した菅井友香は、「茨の道が待っていると思うけど、待っていてくれる方のために全力で頑張るので、これからも期待していてください」と力強く宣言した。彼女もまた、平手友梨奈とはまったく違う形で「欅坂46」そして最近発表された「櫻坂46」を背負っている。

菅井友香には、頑張りすぎないでほしいと、切に思う。

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