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【本】水城せとな「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」感想・レビュー・解説

僕はこの物語が怖い。それは、“恭一”が、僕の中にもいるかもしれない、と思うからだ。

『貴方は自分から人を想ったりしない。そのくせ誰からも愛されたがって言いなりになったフリをするんだ。被害者ヅラして、「もっと自分を愛してくれる相手がいるはずだ」ってキリなく期待して』

『あんたって相手から好意を示されると絶対拒めないんだもん。そういう主体性のない付き合いって、自分も相手も不幸にするよ。わかってる?』

恭一自身も、こんな風に考える。

『人生で一番大切なことはなんだろう。
人によって様々だろうけど、俺にとっては、「自分が確実に受け入れられている」という保証のもとに生きられることが、一番重要なことらしいと悟りつつある。』

そんな恭一は今、「ゲイの後輩・今ヶ瀬に押しかけられている状態」だ。

『あれが女なら、俺って結構幸せな立場じゃないかとも思う』

『やばい…。楽だ。押し掛けゲイに居座られて世話を焼かれる生活は存外に楽だ』

恭一自身は同性愛者ではない。これまでずっと女性とばかり付き合ってきたし、今ヶ瀬に押し掛けられた今でも、男が好きになったわけではない。ただ、恭一の弱みを握る、という形で始まった関係を、今ヶ瀬が絶妙にコントロールする。大学時代、恭一のことばかり見続け、恭一の恋愛観を知り尽くした今ヶ瀬が、全精力を傾けて、「恭一にとって不快ではない環境」を作り上げる。
そんな“日常”が、恭一を力強く押し流していく。

僕はこれまで、恋愛関係に至る前に、「相手から好意を示される」ことも、「自分が確実に受け入れられている」と感じることもなかった。だから、恭一のように力強い流れに流されたり、あちこちにフラフラするような経験をすることはなかった。でももし僕が恭一のように、恋愛関係に至る前に女性を惹きつけてしまうような容姿や振る舞いを持っている人間だったとしたら、

僕はまさに恭一のようになっていたかもしれない、と感じるのだ。
だからこそこの物語は、僕をその内側に引きずり込んでいく。
「今ヶ瀬のような奴がもし現れたら、お前はどうするんだ?」と。

『貴方は愛されることを何よりも望む人だけど、その実、他人の愛情を全く信用していない。だからフラフラ彷徨って、自分に近付く相手の気持ちを次々に嗅ぎまわる。何故だか俺には分かります。貴方が自分のことをつまらない男だと思っているからだ』

ああ、僕もそうだ、と思った。僕も「他人の愛情を全く信用していない」し、「自分のことをつまらない男だと思っている」。恭一は僕自身かもしれないという気持ちが、さらに補強されてしまう。


『正直、俺には都合が良すぎて心地良すぎて、これが愛なのかどうか判別がつかないんだ』

この物語で重要な点は、恭一は最後の最後まで、同性愛に目覚めることはない、ということだ。BLの世界で、同性愛者ではないことを「ノンケ」と呼ぶが、恭一は最後の最後までノンケであり続ける。そのことも、余計に物語をリアルに感じさせる。知らなかった世界に触れて、自分の中の新しいスイッチが入る可能性ももちろんあるかもしれないが、少なくともそうなってはいない今、どんな経験をしようが、自分が「同性愛」という方向に目覚めるイメージは出来ない。もし恭一が「同性愛」に目覚めたのだとすれば、僕はここまで恭一に引きずり込まれることはなかっただろう。しかし、恭一にとっての問いは最後まで、「恋人にも妻にもなるわけではない、男であるコイツと一緒にいられるか?」というものだった。僕には、その問いはリアルに感じられるのだ。

『こんな関係、俺が「欲しい」と言うのをやめたら、今すぐ終わってしまうのに…』

今ヶ瀬は、恭一自身が「恋人にも妻にもなるわけではない、男であるコイツと一緒にいられるか?」という問いにたどり着くはるか以前から、恭一にとって自分が「選択肢」に入るはるか以前から、この関係の脆さなんてきちんと分かっていた。

『ヤバイ。期待してしまいそうになる。わきまえろ俺。どんなに優しくしてくれたって、あの人はほんとは月みたいに遠い人なんだ』

今ヶ瀬の、恭一への愛は、本物だ。

『貴方が女からもらったものなんか、本気で欲しかったわけないじゃないですか。あの頃、貴方を好きだなって言えるはずもなかった俺は、ただ…ただそれを口実に、貴方の指に触りたかっただけなんです』

学生時代、同性愛者であることも、恭一が好きであることも言えるはずがなかった今ヶ瀬は、自分の心を傷つけると分かってていても、普通にしてては望めない“接触”を求めた。

僕には想像することしか出来ないが、同性愛者がノンケと恋愛関係になることは相当難しいだろう。僕は、だからこそBLは“強さ”を持つのだと考えている。僕はBLを、「日常の中に深い絶望を持ち込む装置」と捉えている。男同士、しかも一方がノンケであるという状況は、非日常的な一切の設定を排して、その物語に「絶望」を組み込むことが出来る。この物語は、まさにそれを究極的に突き詰めていると僕は感じる。

『俺、これでも結構いっぱいいっぱいなんですよ。キツイ思い何度もして、ノンケのあの人相手にやっとここまで漕ぎつけたんです』

今ヶ瀬は、この恋にゴールがないことをきちんと理解している。そして、恭一がゴールのことなんて考えずにフラフラしてしまう人間であることも理解している。だから、この恋はいつか終わる。そもそも恋ですらないのかもしれないが、少なくとも今ヶ瀬側からは確実に恋だ。今ヶ瀬にとっては人生最大の恋だ。でも、それは、終わることが確定している。
だからこそ、今ヶ瀬は予防線を張る。ブレーキをかけ続ける。

『あんまり難しく考えないでくださいよ。俺は別に貴方にゲイになってもらおうとか、一生付きまとってやろうとか思ってるわけじゃありませんから。貴方はいつか本当の恋をしますよ。他人にじゃなく、自分の内側から溢れてくる感情にどうしようもなく流される思いをする時がくる。そういう「運命の人」が現れたら、俺はスンナリ貴方の前から消えますよ。だからそれまで、俺と遊んでください』

もちろんこれは、半分は策略だ。ノンケである恭一を、同性愛の俎上に載せるのは難しい。出来るだけハードルを低く、低くして、相手に越えてもいいかなと思わせるハードルにする。その目的もある。しかし同時にこれは、今ヶ瀬の本心だ。今ヶ瀬が、自分の心が壊れないように設けたストッパーだ。

『あんなにうちにいついていたのに、その荷物は驚くほどコンパクトで、どんなに一緒にいてもいずれこうなることを考えて根を張らないようにしていたのだと思い知らされた。そういえば今ヶ瀬は、最後まで自分の部屋を引き払わなかった。「家賃が勿体ないよ」と俺が遠回しに同棲を促しても、笑って受け流すいていた今ヶ瀬は、どんな未来を予想していたのか、今はよく分かる』

僕がこの物語の中で、一番好きな台詞がある。

『貴方はいずれは女の人のものになる人だ。だからこそ俺は、貴方の中でたった一人の男になれる。…それだけが俺の心を守る縁なんです。どうぞ貴方は女と幸せになることだけ考えていてください。何ももらえなくたった俺は勝手に貴方に尽くすし、邪魔になればちゃんと空気を読んで消えます。迷惑はかけません』

「だからこそ俺は、貴方の中でたった一人の男になれる。…それだけが俺の心を守る縁なんです。」という台詞には、グッと心を掴まされた。恭一との関係は、今ヶ瀬にとって人生史上最大の恋だ。しかし、恭一という男を知り尽くしているだけに、それなりの関係までには持ち込めても、そこに未来はない。ゴールはない。終わりしかない。「こんな関係、俺が「欲しい」と言うのをやめたら、今すぐ終わってしまうのに」という絶望と不安定さを常に抱えたまま、学生時代には想像さえ出来なかった望外の状況に素直に反応してしまう心と身体を必死でコントロールしながら恭一と関わっていくのだ。

『わかんないかな。潮時だって言ってるんですよ。貴方は本当に俺によくしてくれた。望んだことはすべて叶えてもらいました。もう十分です。来れるところまで来れた。…でも、もうここまでです。これ以上先、貴方と行ける場所なんてどこにもない。行き止まりまで来たんですよ…』

物語の始まりは、恭一と今ヶ瀬の温度差は相当なものがあった。当然だ。恭一はノンケで、今ヶ瀬はゲイだ。今ヶ瀬は、脅迫めいたことで無理やり恭一を支配する。支配しようとする。そうでもしなければ、恭一との間にある高すぎる壁は乗り越えられないのだ。

しかし、様々な経験を経ることで、恭一の中に徐々に変化がやってくる。それは「恋」ではなく「情」だ。今ヶ瀬にも、そんなことは分かっている。しかし少しずつ、恭一が今ヶ瀬の温度に近づいてくる。
いや、恭一はただ、見栄えのいいその場しのぎを繰り返しているだけなのだけど、それが今ヶ瀬を期待させる。

『貴方のせいで俺はほかの全部を失った。いくらでもほかの道があったのに、貴方のせいで!…貴方は、いくらでも貴方を押し流してくれるものがそこらじゅうにあって、でも俺にはほかに何もない!何もなかったんですよ!貴方以外、俺を押し流してくれる人なんて…!』

今ヶ瀬は、本当に本当に、この恋は終わると考えていただろう。しかし、恭一の、恭一らしい優しさが、今ヶ瀬を狂わせる。期待しそうになる。もしかしてと思ってしまう。「俺、これでも結構いっぱいいっぱいなんですよ」と、恭一の元カノに牽制してしまうくらいにしんどい。もしかして、と、そんなバカな、の間を常に行き来する。そんな不安定に耐えられなくなって、自分から嫌われるようなことを言ってしまう。

『…よく…そんなことがいえますね…。美化できるような想い出なんてひとつもくれなかったくせに。貴方がどれだけ俺の気持ちをわかってるっていうんです』

『そんなに簡単にいくと思わないでください。貴方が今いるところから俺がいるところまで来るのはとても大変なことなんですよ…。目を瞑っていれば俺がどこまでも貴方の手を引いてくとでも思ってるんですか?』

僕には、今ヶ瀬の恐怖も理解できる。今ヶ瀬と重ねられる部分もある。
今ヶ瀬は、恭一との恋は終わると思っている。そしていつか自分の周辺から失われてしまうものに傾倒することへの本能的な恐怖を感じている。
僕も同じだ。決して、今ヶ瀬と同じ状況にいるわけではない。ただ僕は、未来に対して極端に期待していないが故に、自分の周囲のものはすべて失われる、消えてしまう、と思ってしまうだけだ。自分の心が弱いことを知っているから、自分と深く繋がった何かが、自分の周囲からなくなってしまうことに耐えられないだろうという予感がある。
だから僕は本能的に、「それがなければ生きていけない」という存在を作らないようにしている。これは人に限らない。モノや概念に対しても、真っ先にそのことが頭に浮かぶ。自分の周りを、「いつ失われても大丈夫なもの」だけで固めておきたいと思ってしまう。

だからこそ僕は、今ヶ瀬の気持ちが理解できてしまうのだろう。僕の中には、“今ヶ瀬”もいる。だからこそ、この物語は僕にとって怖い。

自分の傍からいつか必ず消えてしまうものをどれだけの力で掴めばいいか。その逡巡に囚われ続けた今ヶ瀬。そしてその逡巡は、ある意味では恭一と同じものなのだ。「恋人にも妻にもなるわけではない、男であるコイツと一緒にいられるか?」という問いを考え始めた恭一にとっても今ヶ瀬というのは、自分の傍からいつか必ず消えてしまう存在だ。妻や恋人という重しで捕まえておくことが出来ない。今ヶ瀬にとって恭一は、「去られてしまうかもしれない存在」。今ヶ瀬の思考には、自分が去るという選択肢は恐らくない。しかし、恭一の方は違う。恭一は何度か、今ヶ瀬が去るという経験をした。恭一の家に根を張らないようにしてきたのも知っている。今ヶ瀬が去るのは、ある意味で当然で、ある意味で恭一が悪い。だからその事実に対してどうこうということではないはずだ。それでも、恭一の中には、「今ヶ瀬は自分から去る可能性のある存在だ」という感覚は残る。

さらに恭一は、「自分が今ヶ瀬から去る」という選択肢も考えなければならない。恭一には、今ヶ瀬と違って、女性と生きていく道も当然ある。そちらの方が恭一にとっては自然なのだ。だから、今ヶ瀬と一緒になったところで、自分の気持ちがいつどう変わるか信じ切れない、という気持ちもある。

恭一が「恋人にも妻にもなるわけではない、男であるコイツと一緒にいられるか?」という問いを考え始めるまでは、今ヶ瀬の方が圧倒的に深い悩みの中にいた。しかし、恭一がその問いを真剣に考えるようになってからは、より深く悩んだのは恭一の方だっただろう。

『あいつは十分誓ってくれた。信じるには十分すぎた。俺は、自分の聞きたい言葉をさんざん言わせて、気持ちいいと思いだけさんざん味わって、結局あいつを自分のものにしてあらなかった。だめじゃないって俺が言ってやらなきゃいけないんだって心のどこかでわかっていたのにしなかった。意気地がなかった』

恭一がどんな決断を下すのか。さらにその決断を、どんな過程を経て下すのか。恭一は、それまで通り生きていれば囚われるはずもなかった問いに向き合わざるを得なくなった。それは、BLなんてと思っている人からすれば、非日常にしか思えないかもしれない。しかし僕にはこの物語は、男と男の物語だからこそ問うことが出来る、人間としての根幹を問う物語ではないかと思うのだ。恭一が、今ヶ瀬が、僕自身の内側にいることを感じる。この物語を読むと、僕たちは“たまたま”恭一や今ヶ瀬のようになっていないだけなのだ、と感じる。運良く、恭一や今ヶ瀬を追い詰める「究極の問い」を突きつけられずに済んでいるのだ、と思う。もし同じ状況に陥ったとして、恭一や今ヶ瀬のように振る舞えるだろうか?どんな決断を出すのか、ということではなく、決断に至る過程で、人間として自分自身を見損なわない生き方を選択できるだろうか?そんな風に僕は考えてしまう。

『ああ、遠くに来たな。戻れるところはもう、失ったよ』

僕は、絶対数は少ないが、多少BLを読んでいる。その少ない絶対数をサンプルにして話す話なのだけど、本書には他のBLとは明らかに一線を画す点がある。

それは、「恋愛対象としての女性が作中に登場する」ということだ。

普通BLというのは、男しか出てこない。妹とかショップの店員など、何らかの形で女性が出てくることはあるが、「恋愛対象としての女性」というのは基本的には出てこない。

まあそれはそうだ。全員ではないだろうが、BLを読む女性の心理には、「自分自身を投影せずに、純粋に恋愛物語に没入できること」というのがあると聞いたことがある。男女の恋愛物語の場合、どうしてもヒロインの女性と自分を重ねてしまう。そうなると、ヒロインとの差ばかりが意識されて物語に没入できない人もいるらしい。BLには、「恋愛対象としての女性」は出てこないので、自分と比較することなく安心して読むことが出来る。自分という存在がまるで入り込む余地のない「男同士の恋愛」によって、純粋に恋愛物語を楽しむことが出来る、という側面があるようだ。

しかしこの物語には、「恋愛対象としての女性」が何人も登場する。恭一の浮気相手だったり、元カノだったり、新たに出会った恋人だったりするが、どんな形であれ、「恋愛対象としての女性」が登場するというのがBLとしては異質だ。

それはつまり、今ヶ瀬が「女性」と同等の存在として描かれているということである。

BLには、「攻め・受け」や「タチ・ネコ」など、同性愛上の役割は頻繁に描かれる。ゲイとノンケの物語ではそこまで過剰ではないが、しかしノンケにとってのゲイが、女性と同等レベルの存在として描かれることはほぼないだろうと思う。

それはたぶん理由が二つあって、「純粋にBLを突き詰めたい」というのと、「恋愛対象としての女性が出てきた場合にリアリティを保つことが不可能だから」ということではないかと思う。
世の中のほとんどのBLは前者のタイプだと思っている。難しいことは考えずに、ただ男同士がセックスをしているのをエンターテイメントとして楽しむ、というものだ。まあとりあえずこういう作品のことはおいておこう。
そして、時々、男同士の恋愛をリアルに描き切ろうとするタイプのBLが存在する。僕が読めるのはこういうタイプのBLだ。主に、ノンケとゲイの恋が描かれていると勝手にイメージしている。ただこういうタイプのBLの場合、「恋愛対象としての女性を登場させながら、作品全体のリアリティを担保するのは相当に難しい」だろうと思う。なにせ相手はノンケだ。普通に女性と争って勝たせるのは難しい。だから、後者のようなタイプのBLが、どれだけ日常を舞台にしていても、それは「恋愛対象としての女性」が排除された作られた日常なのだ。

しかしこの物語では、その困難なハードルに果敢にチャレンジしている。「恋愛対象としての女性」を何人も登場させ、そしてその中の一人として今ヶ瀬を描き、恭一に選択させるのだ。だからこそこの物語は、僕には、完全にリアルで起こりうる物語として受け止めることが出来るのだ。この圧倒的なリアリティを担保する、「恋愛対象としての女性」を登場させるという設定を採用し、見事描き切った著者の力量は見事だと思う。

男はもちろん、女性であっても、「BLなんて…」と思う人は多くいるだろう。しかし、そういう人にこそ是非読んでみて欲しい1冊だ。本書のような物語はBL界にはそう多くはないだろうが、確実に存在する。男同士の物語だからこそ描くことが出来る、人間の生き様と根幹の物語を、是非堪能してください。


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長江貴士
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