【映画】「トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング」感想・レビュー・解説

相変わらず、事前にどんな映画なのか調べずに見たので、主人公が何者なのかよく分かっていなかった。なんとなくポスターのイメージで、アーティストなんじゃないかと予想していたけど、全然違った。

この映画の主人公であるネッド・ケリーは、オーストラリア人にとって「犯罪者」でもあり「英雄」でもある、という。

基本的には、「犯罪者」として知られている。歴史的な事実だろうから書いていいと思うが、最終的に彼は絞首刑に処されて人生の幕を閉じる。

しかし一部の人は彼を「英雄」と捉える。

彼が生きていた当時、オーストラリアはイギリスの植民地だった(恥ずかしながら僕は、この映画を見るまで、あまりその事実を正確に認識していなかった)。主人公一家はそんな環境の中で、かなり厳しい、貧しい生活を送る。

しかし、チラシの文章を読むまできちんと理解できていなかったが(映画を見終わったあと、チラシを読んだ)、ネッドはアイルランド系の出自なのだそうだ。確かに映画の中でも何度か「アイルランド人」だと言われている。母親は恐らくオーストラリアの人のはずなので(金持ちのイギリス人を追い返す場面からそう感じる)、ネッドの父親がアイルランド系ということなのだろう。

そしてネッドは、様々な経験(本当に、色んな経験をしている)を経て、最終的に「民兵を組織し、自分を捕まえに来る多数の警察を殺す計画」を立てる。このことで逮捕され絞首刑となるのだが、イギリスによる植民地支配に倦んでいた人々からは、彼の反逆は「英雄視」されている、ということなのだ。

映画の最後の方でも、ネッドが、「当然の権利を取り戻すまでだ」と言っている場面がある。ネッド自身も、横暴な警官を始め、抑圧的な支配に常にさらされていたこともあり、自分の行動を「犯罪行為」としてではなく、「当然の権利」と捉えていたということだろう。

この映画は、映画のお決まりの定型句をもじった、非常に印象的なフレーズから始まる。

【この物語に真実は含まれていない】

詳しくは分からないが、恐らくこの文言は、「ネッドがどう感じていたのかなど、誰にも分からない」という意味が込められているのだろう。映画は、小説が原作になっているようだ。その小説が何を元に書かれているにせよ、この映画で描かれていることがすべて事実に裏打ちされているとは思えない。そもそもネッドが処刑されたのは1880年であり、この映画で描かれている人物は全員、既に鬼籍に入っている。そういうような意味合いを、印象的な一文に込めていると感じた。

この映画は、「ネッドが息子に宛てた物語」として展開される。僕は原作を読んでいないが、恐らく原作がそういう構成になっているのだろう。映画では、ネッドが自分の物語を書くきっかけになっただろう場面が描かれている。かつて母親が彼を山賊に売り飛ばしたことがあり、その山賊が、自分の歴史を物語として記録していた。

「この物語に真実は含まれていない」に続けて、ネッドが息子に語りかけるナレーションが始まる。ネッドが息子に遺した物語の冒頭だ。

【俺は嘘と沈黙の中で育った。】

【たった一言でも嘘があったら、地獄で焼かれてもよい】

僕は、冒頭で書いた通り主人公がどんな人物なのか分からず観に行っているので、彼の切実さをこの時点では理解できていなかった。しかし、映画を最後まで観ると分かる。ネッドは逮捕される前から格好の新聞ネタであり、そしてどの新聞も「最も冷酷な殺人者」というような書き方をする。ネッド自身はそれらを見て、「ウソの方が盛り上がるし需要がある」と言っていた。

だからこそネッドは息子に、「世間では俺のことをとやかく言う輩がたくさんいるだろうが、俺が遺すこの物語の中には一言も嘘はない」と強調したかったのだろう。

その強い強調を、「この物語に真実は含まれていない」で打ち消す構成もまた、ネッドの多面的で簡単には捉えられない人物像を描き出す補助線として機能していると感じた。

僕が、「オーストラリアがイギリスの植民地だった」ということをあまりきちんと理解できていなかったこともあって、「なぜ警官があそこまで横暴なのか」など、ケリー一家の苦渋がしばらく上手く理解できなかった。これは僕の知識不足でお恥ずかしい限り。最初はなんとなく、ケリー一家が貧しい家の人間だからこれほど酷い扱いをされるのだろうか、と思っていたのだけど、たぶんそうじゃないんだな。

そういう視点で改めて映画を思い返してみると、少年・ネッドのやるせなさみたいなものがより強調されるように思う。母親が男と何かいかがわしいことをしている姿を目撃してしまったり、自分のせいで父親が逮捕されてしまったりという状況は、正直なところ、イギリスの植民地支配という外的要因がなければ起こらなかった可能性が高い。しかし、幼いネッドにはまだそこまでうまく理解できなかったかもしれない。そういう中で、「何を正解として生きるべきか」を見定めることができないまま成長せざるを得なかった人物の難しさみたいなものが描かれていると感じた。

冒頭の「父親が赤いドレスを着て馬に乗っている」という話が、まさか伏線回収されると思っていなかったので驚いた。ただ、それがネッドにとって良かったのかどうか分からない。「ある事実」を知らなければ、ネッドが「最も冷酷な犯罪者」になることもなかったかもしれないのだから。

全編を通じて、ネッドの母親の存在が色んな意味で鍵となっていく。母親は、見方によっては「たくましい」と言えるが、別の見方をすれば「イカれている」と判断されるだろう。植民地支配下において、ロクデナシの父親(しかも早い段階でいなくなってしまう)と共にたくさんの子どもを育てなければならない母親が、強くならざるを得なかったということはもちろん理解できる。しかしそれにしても、許容したくない存在だなぁ、という感覚も強い。

一番印象的だったのは、ネッドの妻が刑務所にいるネッドの母親に直談判に行った場面。ネッドの妻は、「あなたの息子が、あなたを救うために警官を殺し、ここに助けに来ようとしています。だからお願いそれを止めて」と懇願するのですが、ケリーの手紙を読んだ母親は、「私も同じ未来を見ていた」と呟いた後で、ネッドの妻にこう語る。

【自分が良い母親なのか知りたくなる瞬間がある。それは、子どもたちからの愛でしか測れないのよ】

つまり、「自分のために命を捨てようとしているネッドの行動を許容する」ということだ。なかなかこれは受け入れがたい決断だろう。他にも場面場面で、「母親としてどうなの」というよりも「人間としてどうなの」と感じてしまうことが多数あった。

この母親の存在もまた、ネッドという人物を形成する上で非常に大きなものだっただろう。

さて、いろいろ書いたが、重要なことは、「この映画で描かれていることが、どこまで真実かは分からない」ということだ。恐らくこの映画は、「ネッド・ケリー」という実在の人物を主人公にしたフィクションだと思った方がいい。ケリーが息子に宛てた物語というのは恐らく現存しているのだろう。そこにどこまでのことが書かれているのか不明だが、作家的想像力で補った箇所も多くあるはずだ。

個人的には、暴力や犯罪はダメだと考えている。しかしそれはあくまでも「平時」の場合だ。何を「有事」とするかにもよるが、「有事」の場合に、自らの命や権利のために暴力や犯罪に手を染めざるを得ないのは、仕方ないと思っている。

この物語はほぼフィクションだろうし、実際にネッドがどういう想いで犯罪行為を行ったのか確かめる術はない。しかし、他に手段がある場合に安易に暴力に手を出すのも違う、と考えている。ネッドのような人物を安易に「英雄視」してしまうことへの怖さもあるよなぁ、と感じた。

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長江貴士
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