【映画】「退屈な日々にさようならを」「街の上で」「サッドティー」を観に行ってきました(今泉力哉監督オールナイト上映『退屈な日々に街の上で』)感想・レビュー・解説


上映が始まる直前になっても、僕の前の席が空いていたので、もしかしたらここに今泉力哉が座るのか? と思った。というのも、少し前に観た「情熱大陸」で同じようなシーンがあったからだ。オールナイト上映の際に、客席の端っこに座っていた今泉力哉がそのまま登壇するというシーンだ。そして予想通り、今泉力哉が僕の前の席に座ったので驚いた。

というわけで、テアトル新宿で行われた「odessa Midnight Movies」の第19弾、「今泉力哉監督オールナイト上映『退屈な日々に街の上で』」を観に行ってきた。今泉力哉に限らず、映画のオールナイト上映に参加したのはたぶん初めてで、また、本作で上映された3作の内、『退屈な日々にさようならを』と『サッドティー』は初めて観た。『街の上で』では2度目である。

というわけでここでは、『退屈な日々にさようならを』『サッドティー』の感想をメインに、『街の上で』の感想を少し書くという形で感想を書いていこうと思う。

ちなみに、オールナイト上映そのものについて少し触れておこう。22:30から少しだけ今泉力哉の挨拶があって『退屈な日々にさようならを』が上映、それから「トークイベント&休憩を兼ねたサイン会」が入る。その後『街の上で』が上映、その後も「トークイベント&休憩を兼ねたサイン会」の予定だったのだが、今回は「休憩を兼ねたサイン会」のみだった。というのも、理由はよく分からないが、今泉力哉が4:30のタクシーに乗って撮影に向かわなければならなくなったから、らしい。大変だ。

普段は今泉力哉も朝まで残り、上映が終わった後のお客さんと喋ったりもするらしいのだけど、そんな事情で今回はそういう時間はなかった。そして最後に、『サッドティー』が上映され解散、という感じである。

個人的にはとりあえず、「全作品寝ずに見られて良かった」というところ。今泉力哉は最初の挨拶で、「寝るなり休憩するなり自由にしてください。それがオールナイト上映なんで」と言っていたので「寝てしまうこと」へのハードルは下がっていたが、それはそれとして、未見の作品2作はちゃんとみたい観たいと思っていたので、特段睡魔にも襲われずに3作品観れて良かったなと思う。

ちなみに、冒頭に書いた「今泉力哉が僕の前に座るのか?」の判断には、もう1つ間接的な要素がある。

本イベントは、8日前の6/21の19:00からチケットの販売が開始されたのだが、僕が19:04頃にテアトル新宿のサイトを観たら、その時点でほぼ満員状態だったのだ。恐らく、販売開始から5分ぐらいで売り切れたのだと思う。だから「空席があるはずがない」という頭があった。もちろん、電車が遅れたり体調を崩したりということもあり得るが、それと同じぐらい、「ここは今泉力哉用に確保されているのかも」とも思ったというわけだ。

さて、そんなわけで、オールナイト上映そのものの話はこれぐらいにして、感想を書いていこうと思う。

『退屈な日々にさようならを』は、今泉力哉作品を1作も観ていない状態で触れたらもしかしたらそこまで驚きはしなかったかもしれないが、今泉力哉作品に何作も触れてきた僕には、メチャクチャ驚かされる物語だった。「日常風景や、そんな日常から少しだけはみ出したような恋愛を丁寧に掬い取っていく」みたいな作品が「今泉力哉的」だとしたら、『退屈な日々にさようならを』は全然そんな作品ではなかったのである。やはり「恋愛」は物語の中核にあるのだが、物語のテイストが全然今泉力哉っぽくなかったのだ。

でも、僕的には凄く面白かった。クリストファー・ノーラン的な「時系列グチャグチャ物語」も好きだったりするし、色んな人物の群像劇がメチャクチャ奇妙な形で収斂していく感じがとても興味深かった。ちなみに、上映後のトークイベントの中で今泉力哉は、「初めて映画監督の名前を知ったのがタランティーノで、『パルプ・フィクション』みたいな時系列グチャグチャの群像劇とかやりたいと思って作った」みたいなことを言っていたと思う。

さて、本作はざっくり「前半」「中間」「後半」の3つに分けられると思う。そして僕がまず何よりも驚かされたのは「中間」である。本作『退屈な日々にさようならを』は、この「中間」を境に「全然違う物語が描かれている」みたいな感じになる。最後まで観ていけば「前半」「中間」「後半」の繋がりは分かるのだが、「前半」から「中間」に変わった時、そして「中間」から「後半」に変わった時には、とにかく驚かされた。おいおい、これ、同じ物語の中で処理できる話なんか? という感じだった。

しかしその3つのパートが、とにかく絡まりに絡まりまくった糸をほぐすみたいにして展開される物語によって繋がっていく。トークイベントの中で今泉力哉は、「元々は、『◯年どこどこ』みたいな字幕も表記して物語を分かりやすいようにしてたけど、結局外してしまった。だから、物語は凄く理解しにくいと思う」と言っていたし、こういう時系列がグチャグチャの物語にあまり慣れていない人には確かに捉えにくい物語かもしれないが、個人的には「よくもまあこんなわけの分からん話を『ちゃんと着地した』と思わせる感じにまとめたなぁ」と感じた。

そして僕がもう1つ驚いた点は、「『本作が物凄くリアルに展開されていること』が不自然ではないこと」である。これは少し説明が必要だろう。

本作においては、「中間」の物語がとにかく「非リアル」である。僕は「間違って違う映画のフィルムを繋いじゃったのか?」と一瞬思ったぐらい、「前半」「後半」のテイストと比べるとあまりにも「非リアル」だったのだ。

しかもこの「中間」の物語は、基本的には全然違う物語に思える「前半」と「後半」の物語を繋ぐ役割をしており、だから「絶対に不可欠なシーン」である。そしてそんな「不可欠なシーン」が凄まじく「非リアル」なのだから、物語全体も「非リアル」に呑み込まれてしまってもおかしくないように思う。

しかし、全然そうなってはいなかった。そしてそのことにとにかく驚かされてしまったのだ。

「前半」の物語は、正直さほど「リアリティ」を要求されない展開だと思うので問題ないが、「後半」の物語は割と「リアリティ」を必要とされる物語だと思う。そしてだからこそ、「非リアル」である「中間」から接続される「後半」がリアルな物語に見えることに驚かされてしまったのである。

そういう雰囲気の出し方が絶妙で、展開の妙や人物同士の繋がりなんかにもグッときたのだが、何よりもそういう「普通には成立しないだろう雰囲気」が素敵な作品だった。

ざっくり内容の紹介をしておこう。しかし、説明が難しいなぁ。

物語は、映画監督を志す梶原が知り合いの上映会の後の飲み会で酔いつぶれるところから始まる。梶原は目を覚ますと、複数の女性が本を読んでいる部屋にいた。その部屋にいた男に声を掛けられ、「昨日の話の続き」として色々と話をされるのだが、覚えていない梶原にはなんのことか分からない。どうやら梶原はその男からMVの仕事を引き受けることにしていたようだ。付き合っている彼女には「映画以外の仕事はしない」と言っており、清田と名乗る男の仕事も断ろうと思っていたのだが、アーティスト写真を目にして「一旦会ってみる」と考えを変えた。

その後梶原はそのアーティストのMVに、あるロケーションでの撮影を提案した。それは、知人の山下監督が昔映画の撮影で使っていた場所で、「飛んだり跳ねたり」という歌詞を含む曲には合うと考えたのだ。そこで梶原は、山下監督に連絡をし、撮影場所を聞き出すのだが……。

一方、今泉太郎は、父から受け継いだ造園業を廃業すると決めた。彼には、双子の弟・次郎がいるのだが、次郎は18歳の時に家を出て以来10年近く連絡がついていない。震災の時にも連絡がなかった。だから、次郎は父親が死んでいることも知らない。だから太郎もまた、次郎が死んでいても自分はそれを知らないよな、と考えている。

太郎は、会社を畳む手続きのために元恋人に連絡をしたり、最後まで残ってくれた従業員である清田に「妹の美希を一緒に東京に連れて行ってくれ」と話したりする。そうしてそれまでとは大きく環境が変わった中で数年を過ごしたある日、見ず知らずの女性から連絡があり……。

というような話です。

トークイベントの中で今泉力哉が、本作を作るきっかけとなった出来事について語っていた。大学時代の知人(そこまで距離が近い感じではなかったらしい)が亡くなったのだが、その事実を、その死亡時期から3ヶ月後に知ったというのだ。その3ヶ月間、今泉力哉は、その友人について「生きているとも死んでいるとも思っていなかった」、つまり「当然生きているだろう」と考えていたそうだ。だから、「肉体的な死」という事実を知らなければその人は生きていることになる、みたいなことについて考えたのだと思う。

さらにそこに、自身の出身である福島県郡山市(作中では具体的には明示されないが、舞台は郡山市らしい)と東日本大震災後の日常などを組み込みながら、「重い物語」にならないように構成したという。気になったのが、エンドロールで作中舞台になった造園業者「忠花園」について表記されたのだが、その関係者の名前なのだろう、名字が「今泉」という人が2人表記されたのだ。「忠花園」をネットで調べてみると、実際に郡山市に存在する造園業者らしく、代表取締役の名前が「今泉」になっている。初めは「実家なのか?」と思ったのだが、ネットで調べると「遠い親戚」らしい。

さて、「震災」的な要素は作中ではほぼ取り上げられないが、1ヶ所だけ、「りんご公園」に関して言及があった。美希と紗穂の2人が、学校帰りによく「りんご公園」で遊んでいるそうなのだが、その理由について、「放射能的なことでりんご公園から人が消えたから、誰かが遊んであげなきゃと思ったみたい」という形で言及されるのだ。直接的に震災が示唆されるのはこのシーンのみだったと思うが、これだけで「舞台が福島県だ」と分かってしまうことは、なんとなく淋しくもあるなと思う。どうでもいいが、この「りんご公園」を子ども2人が走るシーンでは、今泉力哉の実子が出演していたっぽい。エンドロールの名前から判断しただけだが。

今泉力哉作品を観るとやはり「会話」に注目してしまう。「会話」に関しては『街の上で』『サッドティー』の方が良いのだが、『退屈な日々にさようならを』も今泉力哉らしさが出ていると思う。本当に「何でもない会話」を切り取るのが上手い。「何でもない会話」だから、それ自体が物語を何か駆動させるとかではないのだが、しかしそれでも、作品全体の中に上手く嵌っているような雰囲気を漂わせる。本作でも、「太郎が元恋人と書類のやり取りをしている場面」とか、「太郎が千代と飯を食っている場面」など、「本当になんでもないのだが、喋っている者同士の関係性が絶妙に伝わってくる」みたいな会話が上手いなと思う。

さて、本作には「恋愛」がテーマとして存在すると書いたが、より正確に言えば、「『好き』とは何か?」みたいなことがテーマの1つになっている。そしてそのことが、「記憶すること」と「殺すこと」によって描かれていくという感じである。

「記憶すること」については、先程紹介した今泉力哉のエピソードのようなことである。つまり、「『死んでいる』という事実を知りさえしなければずっと生きている」ということだ。本作には、「18歳の時に失踪した次郎を、今も想い続けている女性」が登場し、彼女の実感として、「好き」と「記憶すること」に関係が語られていく。

面白いのは、その彼女の感覚が、物語の最後の展開を駆動するという点だろう。彼女には、「『ある事実』を明かすか伏せたままにするか」という選択肢があった。そして彼女は一方の選択をするのだが、その理由が、「自分と同じような感覚を抱かせたくないから」なのである。自分が辛い想いをし続けたからこそ、別の人にはそんな風に感じてほしくないと考え行動に移すのだ。そしてその時の彼女の感覚こそが、ある意味では「震災」を連想させるものでもあり、そのような構成も良かったと思う。

さてあといくつか気になることを書いて『退屈な日々にさようならを』の感想を終えよう。

まずは、松本まりかが出てきたことに驚いた。最初顔だけでは判断できなかったのだが、松本まりかの登場シーンは、しばらくまったく喋らないので確証が持てなかった。でもその後喋り方も含めて、やっぱり松本まりかだと確定できたというわけだ。

本作『退屈な日々にさようならを』は、ENBUゼミナールのシネマプロジェクトとして制作されたもので、今泉力哉はトークイベントの中で、「僕がこれを撮った翌年に、同じ企画で『カメラを止めるな!』が撮られた」と言っていた。ただ僕は、「ENBUゼミナール」と聞くと、濱口竜介の『親密さ』のことを思い出す。まあとにかく、「ENBUゼミナール」主催で行われたワークショップに参加したメンバーで映画を撮るという風にして作られた作品というわけだ。そして松本まりかだけはゲスト俳優というわけである。

本作は2016年制作、2017年公開の映画で、松本まりかは2018年に出演したドラマの怪演でブレイクしたので、まさにブレイク直前の松本まりかにオファーしたということなのだろう。だからなんだということはないのだが、松本まりかとしても今泉力哉としても良いタイミングだったのかなと思う。

あと、本作中のセリフで一番好きなのが、「もう一生会えないといいね」というものだ。日常会話ではなかなか出てこない奇妙なセリフだが、本作においては絶妙と言った感じのセリフで、非常に良かった。

「清田ハウス」だけは未だにちょっと謎なのだが(清田は芸能の仕事で上京すると言っていたから、タレントの卵的なことなんだろうか?)、正直そういうことがさほど気にならないぐらい全体的に奇妙な物語であり、個人的にはとても好きな物語だった。

では、2度目の鑑賞となった『街の上で』について少し触れておこう。1度目に観た感想は以下を読んでほしい。

『退屈な日々にさようならを』の後に観たということもあり、『街の上で』の「物語の無さ」には改めて驚かされた。僕は『街の上で』がメチャクチャ好きなのだが、しかし、ストーリーらしいストーリーはほぼ無いと言っていい。「物語らしさ」で言えば、映画のラストの「色んな要素がガチャガチャと一緒くたになっていく大団円的展開」だけはそうと言えるかもしれないが、それ以外は「物語」といえるようなものはほとんどない。

しかしそれでも、メチャクチャ面白いんだよなぁ、『街の上で』は。本当に不思議だなと思う。

全体的に好きなのだが、やはり僕は圧倒的に、後半から登場する城定イハ(中田青渚)とのやり取りが抜群に好きである。とにかく城定イハの造形が素敵すぎる。今まで色んな小説・映画で色んな人物に触れてきたが、その中でもかなり印象に残っているぐらいで、マジで城定イハと友達になりたいと思う。

中でもグッと来たのが、1度目に観た時も刺さったのだが、「こういう距離感で恋愛って出来ないものなのかなぁ」というセリフ。これは本当に、僕が昔から考えていることとピタッと一致していて、で、城定イハというのが「そういうことを言ってもしっくり来る人物」として描かれていることもとても良い。普通に口に出したら成立しないセリフだからなぁ。その会話が発生する前に、主人公の荒川青が城定イハについて、「イハにはこういうことを話しても良いと思えた」みたいなナレーションが入る場面があるのだが、まさにそういう雰囲気を醸し出していて、絶妙だなと思う。ホント絶妙。

というわけで最後に、『サッドティー』の感想を書いていこう。こちらはまず内容紹介から。しかし、これもまた内容紹介が難しいんだよなぁ。面白かったけど。

映画は、カフェで働くアルバイトの女性が、オーナーのボンさんに「好きです」と告白するところから始まる。のだが、すぐに焦点は、そのカフェの常連である脚本家・柏木へと移る。彼は「二股を掛けている」ということが、付き合っている女性にも周囲の人にも明らかにされている人物のようで、皆が当たり前のように彼に「二股」の話をする。

柏木は、緑の家を頻繁に訪れては不機嫌そうに脚本を書き、また夕子の家に行ってはくつろいだりしている。後々分かることだが、元々夕子と付き合っていたのだが、そのことを知りながら緑が柏木に告白し、それから公認の二股状態になったようである。

さて、ボンさんの妻が通うネイルサロンで働く夏は、結婚を控えた今、終止符を打ちたいと考えている事柄がある。彼女は10年ぐらいまえアイドルみたいなことをやっていたのだが、その時代の彼女を今も好きでい続けてくれるファンの存在を、その人が書いているブログを見つけて知ったのだ。そんな話を夏は、友人である緑や園子に話をする。

園子には早稲田という彼氏がいるのだが、しかし「園子は柏木のことが好き」というのは割と周知の事実であるようだ。だから園子は、「好かれること」と「自分が好きだと思える人と一緒にいること」のどっちがいいのかと考えている。

しかしその早稲田は、園子へのプレゼントを買おうと入った古着屋の店員に惹かれてしまう。彼は柏木とは違い、「『好き』は1人に向けるべきだ」と考え行動を起こす。

そんなある日、柏木の高校時代の友人が柏木を訪ねてくることになった。いや、目的な柏木ではなく、毎年恒例にしている「海に花束を投げる」という”儀式”のためにやってくるのだが……。

というような話です。

こちらも『退屈な日々にさようならを』と同様群像劇なのだけど、『退屈な日々にさようならを』とは違って全体的に「今泉力哉っぽさ」が溢れ出ている作品だと感じた。特に「好き」を巡ってウロウロしている人たちを描きながら、それぞれの関係性を絶妙に重ねていく感じはとても上手い。色んな人間が様々なフェーズで重なり合っていくことで物語が複層的になっていくし、そのことによって「好き」がさらに迷宮入りしていく感じが面白い。

特に気になったのは、まあ往年のテーマではあるのだろうけど、特に女性の場合に話題に上がりがちだろう、「好きになってくれた人を好きになる」か「自分が好きだと思える人を追う」かである。特に女性登場人物は、この点でのモヤモヤを抱えながら作中に存在しているように感じられた。園子は「そんなに好きではないけど自分のことを好きでいてくれる早稲田」と付き合っているし、夏は昔の話ではあるが「アイドルだった頃に自分を推してくれていた人」のことが気になっている。緑は「彼女がいると分かっていて、それでも好きだから柏木に告白した」し、夕子は「柏木の浮気を知りつつ一緒にいることを選択している」という感じである。この辺りの恋愛模様はなかなかに複雑である。

そんな中、作中の「恋愛」にほぼ巻き込まれない存在として描かれるのが、カフェで働く棚子である(僕は人の顔の認識に難があるので、「ボンさんに好きですと告白した」のが棚子だとずっと思っていて混乱していたのだが、そうじゃないんだなと理解した)。彼女は「暇だからバイトしている」と口にする女性で、「とにかく面白いことがあるなら巻き込まれたい」と考えている。彼女自身の恋愛観などについてはほぼ描かれないのだが、物語を駆動する人物としては重要で、個人的にも棚子は興味深く映った。基本的に「変な人」が好きなので、棚子みたいな人はいいなと思う。

さて、物語は、「朝日が柏木に家にやってくる」というところから一段違ったギアが入った感じで展開されていくのだが、これがまた変な話で、しかしながら、この朝日の登場が物語の主軸を生み出しているとも言えるわけで、これまた重要な存在である。ここでは朝日の役割には触れないが、「なるほど、こいつがそういう存在として登場するのか!」と分かった時には心の中で笑ってしまった。ちなみに、これが演技なのか役者の素に近いのかよく分からないのだが、「朝日の絶妙な変さ」が良かった。いや、「自分の身近にいたらちょっと嫌だな」と思うのだが、本作『サッドティー』の世界にはとても良く存在できていて、上手い造形だったなぁ、と思う。

そんなわけで、朝日の登場によって物語は一層ワチャワチャしていくわけだが、それと同時に、後半になると、それまで「のらりくらり」という感じだった柏木も、ちょっと動き始める。意思らしい意思が存在しないような雰囲気で存在し続けていた柏木が、自身の意思をちゃんと発動して行動を起こすようになるのだ。

まあ、その行動が良いかどうかはなんとも言えないのだけど。しかし、「こういうなんとも言えない男が結局モテそうだよなぁ」という感じもあって、そういう描き方は絶妙だったなぁ。本当は、早稲田とか朝日の方が「真っ当」と判断されて好意を集めてもおかしくない気もするのだが、現実はそうはいかないのが難しいものだよなぁと思う。

しかし、柏木が「朝日が羨ましいよ。俺にも朝日みたいに好きになれる人がいたら良かったんだけど」と夕子の前で口にする場面があるのだが、「それはダメだろ」と感じた。まあ、そういうダメさを描くシーンだから映画としてはいいのだけど、そういう無神経さみたいなものをナチュラルに発揮してしまう存在として柏木は描かれているし、でも何だかんだこういう男が異性を惹きつけたりするんだよなぁ、とモヤモヤした気分にはなった。

さて、本作『サッドティー』はやはり会話が素晴らしかったのだが、中でも「これは台本が存在するのか?」と感じたのが、朝日と夕子が酒を飲みながら会話するシーンである。とても台本が存在するようには思えないシーンで、「映画の会話」としては不自然に見えるのだけど、「現実の会話」としてはとてもリアリティがあった。今泉力哉は『退屈な日々にさようならを』後のQ&Aの中で、「『映画ってこうなるよね』みたいなお約束を外すことで、案外日常のリアリティが立ち上がってくる」みたいなことを言っていたのだけど、まさに随所でそういうことをやっているなと感じた。「映画としては不自然だけど、リアルの世界では自然」という感じを「映画」という枠組みの中でちゃんと成立させられるのは、やはりさすがだなと思う。

そしてラストシーン。『街の上で』と同じ感じの「主要な登場人物が最後にグワッと一箇所に集まってワチャワチャします」みたいな展開で、しかも『サッドティー』ではそれが実に奇妙な展開になっていくので、それを割とリアリティある感じで見せていくのが上手かったなぁ、と思う。

しかしまあ、本当に、今泉力哉の作品を観る度に思うことだが、「よくもまあこんな変な話を『どことなく普遍さを感じさせる物語』に仕立て上げるものだ」と思う。凄いもんだ。あと、今泉力哉が「猫背っぽい立ち方でちょっと下を向きながら喋る感じ」も「今泉力哉」っていう雰囲気に合っていていいなと思う。そういう佇まいであることによって、あまり距離を感じさせないみたいな効果もあるように思うし。「映画監督」というのがどういう人達なのか、ほぼ接したことがないのでよく分からないが、今泉力哉はちょっと特異な存在なんだろうなと思う。

そんなわけで、大変良いイベントでした。ちなみにトークイベントの中で話していたことだが、「オールナイト上映では『愛がなんだ』と『街の上で』は外せないのだが、今回は『愛がなんだ』は外してみようという話になった」と言っていた。というわけで、未だに僕は『愛がなんだ』を観ていない。「映画館でしか映画を観ない」と決めているからなのだが、まあいずれ観る機会もあるだろう。またオールナイト上映があれば、行ってみようと思う。

というわけで、22:30から朝6:30まで映画を観てお尻が痛くなり、7:00過ぎに家に戻って11:00ぐらいまで寝た後で1万字近い文章を書くというハードなスケジュールをこなした。まあそれでも、4:30にタクシーに乗ってそのまま撮影をしなければならない今泉力哉の方が大変だろう。お疲れ様です。

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