【映画】「ディストラクション・ベイビーズ」感想・レビュー・解説

常識やルールから外れるのには、ちょっとした勇気がいる。自分が常識やルールを守らないということは、自分も誰かからの常識外・ルール外の行為を受けても文句が言えなくなる、と僕は思うからだ。

人間が社会というものを作って暮らすようになったのも、そういう理由が大きいのだと、社会契約論という考え方では説明している。人間は、お互いにルールを守ることで自分も安全に生きられるように誰かと契約しているのだ、というような考え方である社会契約論は、暴力などを個人から奪い、それを国家権力が管理する(現代社会でいえば、国家権力が行使できる暴力には、例えば警察などがある)という約束事に基づいている。この約束事をみんながなんとなく守っているのは、他人の常識やルールを冒さないことで、自分の常識やルールも冒されないと信じているからだ。

しかし、そういう常識やルールから外れる人間というのが時々いる。

僕らの社会は、先程書いたように、自分の安全を脅かされないために相手の安全も脅かさない、という約束事に基づいている。であれば、「自分の安全なんてどうでもいい」と思っている人間を止める手立てはほとんどない。

時折、死刑になりたいからと言って凶悪犯罪を犯したりする者がいる。あるいはヤクザの中には、刑務所に行く覚悟をして何か罪を犯す人間がいる。そういう人間を止める手立てはほとんどない。自分の人生や安全などに関心がないのだから、そこで踏みとどまる理由がない。

社会は、そういう人間の出現に対して無力だ。確かに逮捕して裁くことは出来る。しかし、犯してしまった犯罪に対して何か出来るだけであり、犯さないように教育をするだとか、二度と同じことをしないように矯正するだとか、そういうことは不可能だ。

僕らは、巻き込まれないように逃げるか、安全な場所から傍観することぐらいしか出来ない。


一人の人間が、松山の街を狂気に陥れる。

愛媛県松山市の小さな港町に住む芦原兄弟。両親はおらず、兄弟二人で暮らしている。兄・泰良は日々喧嘩に明け暮れている。誰も手がつけられない。弟・将太は、18歳になって姿を消してしまった兄のことを探し続けている。

兄・泰良は、松山市内にいた。

強そうなやつを見つけては喧嘩を仕掛け、やられてもやられてもやり返す泰良。その狂気は収まることがなく、誰かれ構わず喧嘩を仕掛けては、ボコボコにされたりボコボコにしたりしている。

泰良の狂気は、毎日暇そうに過ごしていた高校生・北原を刺激する。それまでは暴力には極力関わらずにいた北原。仲間が窮地に陥っていても助けないほどの臆病者だったが、泰良と出会ったことで北原は豹変。狂気に身をやつす暴走を繰り返すことになる。


警察に捕まる前に車を奪って四国中を巡業することに決めた北原は、たまたま奪った車に乗っていたキャバ嬢の那奈を乗せたまま、あてどなく車を走らせる。淡々と、特に変わらない様子で暴力を続ける泰良。何かが破裂したかのように狂気を漲らせる北原。そして彼らの狂気にただ巻き込まれただけの那奈。狂気の渦は、三人に何をもたらすのか…。

というような話です。

この映画から何か意味を読み取ろうとした場合、僕にはちょっとそれは難しいなと思います。ただ、全体の雰囲気は好きだな、と思いました。

映画の中では、「暴力」がひたすら無意味に描かれていく。これほど「暴力」そのものに意味が与えられない物語も珍しいのではないかと思う。国家権力に歯向かうため、仲間を救うため、自由を勝ち取るため…、様々な形で暴力というのは描かれるのだけど、この映画の中では「暴力」は一切固有の意味を持たない。

一見、「楽しいから」という理由で「暴力」が描かれているように見える。少なくとも、北原の暴力にはそういう意味が付加されているだろう。
しかし、泰良の暴力には、それさえないように見える。
いや、実際には泰良は、「面白ければなんでもいい」という発言をしている。だから泰良にとって、泰良が仕掛ける「暴力」は面白いのだろうし、そのためにやっているのだろうと思う。

しかし、少なくとも僕には、泰良が楽しみのために「暴力」を繰り返しているようには見えない。北原は明らかに楽しみのために「暴力」を繰り返すが、泰良からはそんな雰囲気を感じないのだ。

そう思わせるほどに泰良は、表情というものを持たないし、喋らない。

泰良は、映画が始まってから30分くらいひと言も喋らない(ほとんど出ずっぱりにも関わらずである)。映画全体を通して見ても、泰良のセリフは5行ぐらいしかないのではないか。とにかく喋らないし、表情も変えない。だから泰良が何を考えて「暴力」を繰り返しているのか、僕にはちゃんとは分からない。

抑えきれない衝動が吹き出したとか、自分にもやれるんだということを見せつけたいとか、とにかく北原の「暴力」に対する衝動は分かりやすい。しかし泰良は真逆で、泰良の「暴力」に対する考え方・感じ方みたいなものはほとんど分からない。それが観ている者をざわつかせるのだ。

さらにそこに、巻き込まれた那奈も絡んでくる。那奈の「暴力」はある種の生存本能ではあるが、しかしそれだけではない。ある意味では北原以上の何かを孕んでいる。那奈の「暴力」の発露は、かつて人類が暴力を手放したことが大いに正解だったのだと思わされるようにも思う。

三人がそれぞれの形で発揮する「暴力」の形が、松山の街を狂気に叩きこみ、さらに彼ら三人の関係を変質させていくことになる。それを狂気と共に描き出した映画だと思う。

正直、よく分からないと言えばよく分からない映画だった。しかし、それは受けとり方としてある意味で正しいのかもしれない。彼らの「暴力」がよく分からない形で描かれることで、僕らがいかによく分からないものの土台の上に社会を構築しているのかが炙りだされる、そういう受けとり方も出来るかもしれない。であれば、この映画を見てよく分からないという感想を抱くのは、一つの正解なのかもしれないとも思う。

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