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【本】木村元彦「爆走社長の天国と地獄 大分トリニータVS溝畑宏」感想・レビュー・解説

溝畑宏とは何者か?

『溝畑宏が行ったのはビルド・アンド・スクラップであった。グラウンドもクラブハウスも選手もいないところからチームを立ち上げ、高級官僚の座を投げ捨て、社長に就任。15年で日本一(2008年ナビスコカップ優勝)に導いた。』

凄い男である。
しかしそんな溝畑宏は、世間からこんな風に見られているのだという。

『自らの放漫経営で、チームが6億円もの借金(公式試合安定開催基金)をJリーグから借り受ける事態に追い込み、Jリーグ全体に多大なる迷惑をかけ、某サッカー誌によれば「選手や職員の生活をメチャクチャにしながら、自分はさっさと社長職を辞めて観光庁の長官に大栄転した男」』

とんでもない言われようである。本書には、こんな記述もある。

『現在もトリニータサポーターにおける溝畑の評判は最悪のようだ。流言飛語が飛び交い、中には「前の社長がカネを私的に使い込んだのでクラブがつぶれた」と信じている方もいる』

溝畑宏は、特に大分県ではもの凄く評判が悪い。
しかし溝畑宏の近くにいた人間の見方は大分違う。溝畑が大分トリニータの社長を「解任」させられたことを知った当時の監督は選手に向かって、『いいか、社長を絶対に戻すぞ!』と言ったという。大分の経済界の長老は、『私に言わせれば、一番かわいそうなんは溝畑なんや。「俺がおまえの親なら泣くぞ」って、ようあれに言ったもんや』と発言している。

溝畑宏とは何者か?


人を評価することは、とても難しい。そして、人から評価されることも、とても難しい。

世の中には、様々な人間がいる。その中には、「やっているように見せるのが上手い人間」というのもいる。特に何もしていないのに、功績だけかっさらって威張っているような人間。

僕はこういう人間が嫌いだ。好きだ、という人は多くないだろう。しかし、特に現代は、こういう人間がどんどん表に出てきて、どんどん階段を駆け上がっていく。SNSなどにより、個人による発信力が格段に高まったこと、そして話題性のある情報が拡散されるスピードが驚異的に早くなったことによって、「見せ方」さえ整えてしまえば名前を売ることが出来てしまう世の中になってしまった。

もちろんそういう人間も、中身が伴わなければ長続きはしない。そこは、昔と変わらないだろう。しかし、そういう「見せ方」の上手い人間による情報戦略に反射で反応してしまう世の中にあっては、本当に汗をかき、実直に物事を進めている人間に、光が当たりにくくなっている、ということもまた事実だろう。

そんな世の中だから、軽薄で、賞味期限が短そうなものばかり表に出てきて、長く価値を見いだせそうな事柄がうまく軌道に載せられなくなっていく。短い期間で少ない労力で成功しているような事例を日々目にすることで、長い期間に多大な労力を掛けて成し遂げる事柄への興味が益々薄れていく。

それでいいのだろうか、と立ち止まる隙さえ与えずに、ただ闇雲に前に進んでいく世の中に対して、強く違和感を覚えることは多い。

文化も伝統も教養も知見も、長い年月の積み重ねによって洗練され、その土台の上に新たな発見を見出すことが出来るようなものだ。それらは必然的に、長い期間と多大な労力を必要とする。しかし、時代がそれを評価しなくなった。評価できなくなった、というべきなのかもしれない。それは必然的に、それらに携わる人間を評価しなくなることでもあり、結果的に文化も伝統も教養も知見も廃れさせる。結局残るものは、明日なくなってしまっても誰も困らないような、単純で分かりやすく脊髄反射的なものばかりだ。

それでいいとは思えない。

その状況をどうにかするには、「評価者」を育てなければならない。

『この10年、行政によって作られた政治的なトリニータをウォッチし続けて、ブレなくその公益性を指摘したのは、皮肉なことに県庁にとっては天敵であったオンブズマンの永井であった。政治から離れて屹立していた人物のみが、そのあり方をしっかりと相対化できたのではないだろうか。教員不正採用事件やキャノンの工場誘致問題で徹底的に県政に切り込んだ永井が「トリニータには公的支援をすべきだ」と、発言することは極めて興味深い』

溝畑宏にとっての最大の不幸は、彼の行動を適切に評価してくれる有力者がいなかったことだろう。大分の発展のためにゼロからクラブチームを作り上げた男は、しかし大分の政財界やサポーターから嫌われ続けた。彼らも、本書に書かれていることを知れば、恐らく考えを改めることだろう。溝畑宏という人間を、正しく評価できるに違いない。しかし、溝畑の性格や様々な組織の軋轢など、様々な要因が絡まりあって、結局溝畑は正しく評価されないまま、不本意に大分トリニータを去ることになってしまった。

どれだけ凄いことをやってのけても、それを正しく評価できる人間がいなければ物事は回っていかないし、歴史が歪んで伝わってしまう。僕は、常に問いかけるようにしている。人や物事を、他人の意見だけで判断してしまっていないか、と。人や物事に対する自分の評価は、自分の内側にある考えによって構成されたものなのか、と。他人がどう言っていても、自分が直接見たり聞いたりするまでは判断を保留にしろよ、と自戒している。

それぐらい意識しなければ、正しく判断することは出来ないと思っているのだ。

内容に入ろうと思います。
本書は先述した通り、W杯を大分県に誘致するためにゼロからクラブチームを作り上げ、スポンサー探しに奔走しながら、県リーグから出発してチャンピオンに導くというJリーグ史上初の快挙を成し遂げながらも、間違った現状認識によって失墜させられた「暴走社長」である溝畑宏を描いた作品だ。

著者は自身のスタンスをこんな風に書いている。

『ことわっておくが溝畑の擁護をする気はさらさらない。私はむしろ長い間、アンチ溝畑の書き手であった』

著者は雑誌上などで、アンチ溝畑の論調の記事を書いていたという。しかし、大分トリニータの内情を調べていく中で、どうも溝畑宏という人物像が違って見えてきた。監督や選手から信頼され、常にお金に苦労しながら給料の遅配は一度もなく、スポンサーを速攻で口説き落とすほどの夢を語り、その夢を現実のものとし、私費を投じ離婚までして大分トリニータに人生を捧げてきた男。溝畑宏という男のイメージが変わっていった。

本書では、溝畑宏が自治省に入省した頃の話からスタートする。官僚とは思えない型破りな存在感を放ち続けていた男は、著名な数学者である父の一言がきっかけでサッカーにのめり込むことになる。大分トリニータというクラブチームを、作り上げた溝畑宏の視点から、そして溝畑宏を支え続けた者たちの視点から、そして県庁を含む大分県の視点から描き分け、「大分トリニータを壊した男」という溝畑宏のイメージがどのように作り上げられていったのかを丹念に追っていく。サッカーのクラブチームの話ではあるのだが、話はむしろ会社経営の話であり、地方政治の話である。サッカーに詳しくなくても(僕は全然詳しくない)、面白く読めるだろう。

溝畑宏の存在感は圧倒的だ。夢を語る力、その夢を実現に導く力、一緒に夢を見る相手を見つけ出し口説き落とす力、官僚でありながらプライドの欠片も持たずに奉仕できる力、現状を認識して必要なものを差配し、特には非情な決断を下して必要ないものを排除する力。それらすべての力が圧倒していた。その手腕は、J2という下部リーグにいたチームが、大分とは無関係の企業から何度も大金を引っ張ってくる、という事実だけ見ても理解できるだろう。民意によって生まれたわけではなく、地元政財界もまったく協力的でなかったクラブチームを何年も存続させ、さらに優勝にまで導くのは、並大抵の努力ではなしえない。

『溝畑のファイン・プレーは本人が講演で語る「ゼロから日本一のチームをつくった」ことではなく、叩かれても嫌われても全部自分でのみ込んだ愚直な献身にあった』

著者は本書の最後で、溝畑をそんな風に評している。『努力して、究極の努力をしてできないなら私は納得します』とは溝畑自身の言葉だが、その言葉に見合った、常軌を逸した努力をし続けた溝畑という男の凄さは、本書を読んで何度も実感することだろうと思う。

そんな溝畑を支援し続けた者たちもまた魅力的だ。トリニータの初期を支えた、朝日ソーラーの創業者である林は、大分から全国へと快進撃を続ける精鋭の営業部隊を育て、あのトヨタと対等のパートナーシップ契約をした男だ。中興の祖であるペイントハウスの創業者である星野も、中卒でありながらリフォーム業界を16兆円規模の市場に引き上げた。パチンコチェーンの「マルハン」の創業者である林は、朝鮮人でありながら日本国籍を持ち、パチンコチェーンのイメージ回復のために、どんな超優良企業よりも透明度の高い経営をすると決心して、パチンコ業界のイメージ回復に貢献した傑物だ。彼らは皆、溝畑が語る夢に共鳴して、広告の宣伝効果という意味合いを超えたところで大分トリニータに大金を投じた者たちだ。他にも、スポンサーや溝畑の周りの人間など、溝畑の夢を支え伴走した者たちの奮闘があって初めて溝畑の無謀な挑戦は形になった。溝畑の、人を巻き込み、金を引っ張り、結果を出し続けるという手腕を認め、評価し、頼りにしていた者たちの数多くの証言から、巷間知られているのとは違う溝畑像がジワジワと浮かび上がってくる過程は読みどころ満載だ(とはいえ僕は、そもそも溝畑宏という男を本書を読むまで知らなかったのだけど)。

そして、最後の最後まで溝畑とは敵対的な位置を占めていた大分の政財界の様子も、非常に興味深い。本書はサッカーのクラブチームの経営の物語だが、ここで描かれていることは、地方がなんらかのブランディングをする際に非常に重要な事柄が描かれていると感じた。ブランディングの仕方によって、地方同士にも多大な格差が生まれ始め、自分が住む地をどうアピールしていくのかを常に問われ続けている現状に対して問いを投げかける作品でもあるのだ。

著者は取材を続けていく中で、「溝畑憎し」の感情の源泉にたどり着く。そしてそれは、溝畑宏という男の問題ではなく、地方政治の問題であったのだ。大分の政財界が何故溝畑に非協力的だったのか。その原因を明らかにせずに、溝畑一人にすべての責任を被せて知らん顔を決め込んでいる面々に、著者は厳しく迫る。

また、大分トリニータの、民意によるものではないという成立過程の不幸さは、地方が地方主導で何らかのブランディングをする際には確実につきまとってくる問題だろう。大分トリニータは、他のクラブチームとは違い、地元民が望んで出来たチームではなかった。W杯のために必要だったから作ったわけで、大分にクラブチームが存在していることが重要だった。それは特殊なことではなく、地方行政が何かを始めようとする際、同じようなケースはそこかしこに存在するだろう。その場合、どうやって民意を取り込んでいくのか。

『2000年に大分市内で乗ったタクシー運転手にトリニータの話題を振ると、初老のドライバーは「あれは知事と県の官僚がやっているだけですよ」と首を振った』

民意が盛り上がらない状況を打破するために溝畑がしたのは、勝つことだ。勝てるチームを作ることだ。溝畑のその方向性は、正しかっただろう。実際に大分トリニータは強くなった。溝畑がトリニータを解任される直前などは、『Jリーグで一番いいサッカーをしているのは大分です』と評されるほどのチームだった。大分のサポーターもどんどん増え、盛り上がりを見せていた。
しかし結局、溝畑に不備がなかったとはもちろん言わないが、地方行政の不手際と判断ミスにより、民意をうまく取り込むことができなかった。本書を読み込むことで、ブランディングの際に地方行政が必要とされる役割が何であるのかが捉えられるのではないかと思う。

溝畑宏というとんでもない存在感を放ち続けた毀誉褒貶の男と、Jリーグ最高と言われたチームを擁しながら生かしきれなかった地方行政という二つの柱を描き出す作品で、サッカーという枠組みを超えて読まれてよい作品だと思う。


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長江貴士
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