【映画】「ゆきゆきて、神軍」感想・レビュー・解説

メチャクチャ面白かった。初めて観たけど、すげぇ映画だったな。

「ゆきゆきて、神軍」という映画の存在は知っていた。でも、どんな映画なのかは全然知らなかった。ドキュメンタリー映画について語られる時に必ず名前が挙がる、有名な作品、ぐらいの知識があるだけだ。

今回たまたま、映画館でやっていることを知ったので、まさに終戦記念日の今日観に行った。

とんでもない作品だったなあ。

映画の後には、原一男監督によるトークショーもあり、そしてこのトークショーも超面白かった。面白かっただけではなく、トークショーを聞く前後で、映画の見方がガラッと変わった。

そこで今回の感想は、「映画だけを観た感想」をまず書き、その後「トークショーを聞いてどう考えが変わったのか」について書くという流れにしようと思う。

まず、この映画の全体的な設定に触れよう。

中心人物として描かれるのは、奥崎謙三という男だ。彼は、36連隊の兵士として激戦地ニューギニアに派遣されるが、「兵士の中で誰よりも上官を殴った」らしく、そのお陰もあって、戦死することなく日本に帰還させられたそうだ。

終戦後、神戸市でバッテリー商を営んでいるのだが、彼は「たったひとりの神軍平等兵」として、天皇の戦争責任を追求したり、「田中角栄を殺す」とはっきりと書いた車に乗って自らの主張を繰り返したりと、一人でアナーキストとして自ら信じる活動を続けている。

彼は、昭和31年に不動産業者の傷害致死で懲役10年、昭和44年に天皇に向かってパチンコ玉を発射した罪で懲役1年6ヶ月、昭和51年にビルの屋上から「天皇ポルノビラ」を撒いた罪で懲役1年2ヶ月と、合計13年9ヶ月刑務所にいた(計算が合わないが、逮捕時の期間も含めているのかな?)。

映画では、そんな奥崎謙三にカメラを密着させている。カメラの前で人を殴り、相手と揉めると自ら警察を呼び、相手が折れるまで徹底的に議論で追い詰める姿は、ムチャクチャだ。

そんな男の、「衝撃的なラスト」までを描き出すドキュメンタリー映画だ。

さてまずは、「映画だけの感想」を書いていこう。

僕は、この奥崎謙三という人物を「嫌い」だと思う。自分の周りにいたら絶対に関わりたくない。しかし一方で、「嫌いにはなりきれない」という感覚もある。

というのは、映画を観る限り、彼は常に「誰かのために行動している」からだ。

映画の中でかなりのボリュームを割いて描かれるのは、「36連隊で起こった、終戦後の兵士の処刑事件」の追及だ。8月15日に戦争が終わり、ニューギニアにいた兵士たちも8月18日の時点で終戦を知ったそうだ。しかし終戦から23日後、既に9月に入っていたタイミングで、日本兵が中隊長に射殺された、という疑惑があったのだ。

それは実際に起こった出来事なのか? 実際に起こったとしたら、どのような命令系統で起こったのか? その場には誰がいて、実際に引き金を引いたのは誰なのか? などについて、奥崎謙三は遺族と共に元兵士を訪ね歩き、真相を聞くまでは帰らないと決意し、議論をふっかけ、どうにかこうにか相手の口を割ろうとする。

それらはすべて、自分のためではなく、誰かのための行動と言えるだろう。

もちろん、奥崎謙三の手段には問題がありすぎる。アポ無しで急襲し、気に食わないとなれば手術をした病人にも殴りかかり、(理由は分からないが)あるタイミングから遺族がついてこなくなると、自分の妻(ともう一人)に遺族のフリをさせて元兵士たちの元を回っていく。

ムチャクチャだなぁ、と思う。それでも、それらは決して自分のためにやっているというわけではない。

また、奥崎謙三の根底となる考え方も、全面的には否定が難しい。例えば、「人間が作った法ではなく、神が作った法に反しない者が勇敢だ」というようなことを言う。彼が言う「神が作った法」が何を指すのか不明だし、彼が思う「神が作った法」がなんであれ、殺人までは許容されないだろうから、どのみち彼の行動は間違っていると思う。

しかし、「人間が作った法ではなく、神が作った法に反しない者が勇敢だ」という言葉だけを捉えると、なるほどなぁ、と思う部分はある。

あるいは、元兵士たちを説得する中でよく口にしていたのが、「あなたは、他の人が経験しなかったような酷い経験をした。もしあなたと同じ経験をしている人がいるなら、あなたのところは来ない。別の人のところに行けばいい。ただ、それはあなたしか経験しなかったのだし、それをあなたがきちんと口に出すことで、戦争がいかに愚かなものであるのかが伝わる。二度とあんな戦争を起こさせないために、あなたは話すべきです」というようなことだった。

これも、どこまで本心かは分からない。相手の口を割るためのでまかせかもしれない。ただ、彼が口にしている言葉を言葉通りに受け取るのであれば、なるほど確かにそうだよなあ、という感じがするのだ。

こういう描写は結構ある。言ってることもやってることもムチャクチャで、感情的には全然許容したくないのだが、冷静になって、論理的に彼の主義主張を考えてみる時に、完全に否定することは難しいよなぁ、と。

「自宅の屋上に独居房を作ろうと思いたち、実寸を測るために神戸拘置所に乗り込もうとする」という、こうやって文書うで書いていても意味不明でしかない行動を取った際、彼は駆けつけてきた警察官に、「お前たちは人間の顔をしていない。命令か法律に従うだけだからだ」みたいな暴言を吐く。これも、言ってることはムチャクチャだと思うのだが、「命令か法律に従うだけ」という言葉が、妙に印象に残った。

こんなふうに、絶対に関わりたくないのだが、完全に間違っているとも言えないよなぁ、と感じさせられる、不思議な存在だ。

映画ではとにかく、元兵士の家を訪ね歩いて無理やり話を聞く、という展開に支配されていくわけだが、家に帰って、「ゆきゆきて、神軍」のHPを見ている僕は、メチャクチャ驚かされている。そこにはこう書かれている。

【だが、奥崎さんは、戦場で起きた事件なんかに興味はなかったのだ。「戦後36年経った今、戦争時の話を映画にしても誰も興味を持ってくれませんよ」と言っていた。(中略)「元兵士たちを訪ねてみてください。間違いなく、何かがありますから」と説得する私に、ほとんど関心ないが、そこまで原さんがおっしゃるなら、いいですよ、と渋々OKしてくれたのだ。】

なんと元々奥崎謙三は、元兵士を訪ね歩いて戦争時の真相を聞き出すことにまったく興味がなかった、というのだ。もちろん、途中から関心を持ち、突き進んでいく結果になっていくわけだが、まさか奥崎謙三がやりたくてやっていたわけではない(少なくとも当初は)ことだとはまったく想像していなかったので驚いた。

さてそんなわけで、単に映画だけ観ていただけなら、「奥崎謙三のことは嫌いだが、他人のために行動しているし、主義主張を100%否定しきれない」という感覚だった。

さてでは、「トークショー」でどんなことが話されたのかを踏まえつつ、印象の変化に触れていこう。

まず驚いた話は、「この映画は、監督の意向より、編集マンの意向の方が強い」という話だ。

この映画の編集を担当した鍋島淳という人物は、ドキュメンタリーの世界では非常に有名だそうで、当時の監督と比べてキャリアや立ち位置などが全然上の人だったという。

だから、監督がどれだけ強い口調で指示をしても、彼はその指示を無視し、自分が繋ぎたいように繋いだという。この話だけで、十分驚きだ。

さて、人にはそれぞれ主義主張があり、それは鍋島淳も同じだ。彼は「素朴な民主主義」と呼ぶべき価値観を持っており、それを監督らは「日共(日本共産党)的世界観」と読んでいたという。

鍋島氏からすると奥崎謙三というのは、「天皇制にたった一人で立ち向かっている人」である。「民主主義」という観点からすれば、「天皇制」というのは決して正しいとは言えない。だから、その現実と闘っている闘士である、というのが、鍋島氏による奥崎謙三の捉え方なのだ。

そして映画は、そのような印象を与える構成になっている。

だからこそ監督は、「この映画を観ても、奥崎謙三という人物についてはよく分からないだろう」と言っていた。監督自身、「自分が撮影していた時に見ていた奥崎謙三」と「映画として仕上がった奥崎謙三」の差に驚きを受けたという。

しかし、監督が唯一(と言っていた気がするけど違うかも)鍋島氏と議論して勝ち取ったシーンがある、という。それが、映画のかなりラスト、病院の前で「暴力」について語る場面だ。確かにこの場面は、印象的だったのと同時に違和感も覚えた。

奥崎謙三はこんな風に言う。

【良い結果をもたらす暴力であれば、私はこれからも躊躇なくやる】

このセリフを入れることに、鍋島氏は猛反対したそうだ。鍋島氏とすれば「素朴な民主主義」という観点から奥崎謙三を描きたいのだから、その構成には邪魔なセリフなのだ。監督は、確かにこのセリフがない方が、全体の流れが”スッキリ”すると言っていた。しかし、奥崎謙三というのは複雑な人間なのだし、スッキリなんかさせたくないんだと言って、監督はこのシーンを入れることを押し切ったという。

さて、僕はこの場面で、少し違うことを感じた。「良い結果をもたらす暴力」という表現を奥崎謙三が使ったことで、僕は、「そうか、奥崎謙三にとって暴力というのは『手段』なんだな」と感じた。

なんとなくそれまでの流れで、「カッとなって手を出してしまう」という、シンプルに短絡的な人間なのかなと思っていた。しかしこのセリフで、「暴力という手段を計算で使っているんだ」と感じたのだ。

そしてそのことについて、監督も同じような指摘をしていた。奥崎謙三は、その暴力を行使した場合にどんな効果が得られるのかを計算してやっていたはずだ、と。それを聞いて、なるほど僕の印象はあながち間違っていなかったなぁ、と思った。

そして、20分という短い時間の中で監督が語る「奥崎謙三」という人間は、やはり一筋縄ではいかないややこしい人間であり、映画を観て感じたことはちょっと手放した方がいいのかもしれないなぁ、と思った。

あと、僕は映画について何も知らないまま観て、ラストの展開には驚いたので、この記事でこの点については伏せるが、トークショーではこの最後の最後の話にも触れている。監督は奥崎謙三から「◯◯の場面を撮って」と言われていたようで、その時になかなか緊迫したやり取りも面白かった。

いずれにしても感じることは、「何もかも戦争が悪い」ということだ。すべてを戦争のせいにしていいと言えないこともあるだろうが、まさに死と隣合わせの境遇を経験した者にしか分からない世界というのは間違いなくあるし、それを知らないものがとやかく言えない領域は存在する。

「戦争」という巨悪さえなければ起こり得なかった様々なことがこの映画では描かれており、その一つ一つを、関わった個人だけに罪を着せて終わらせていいはずがない。

奥崎謙三という人物があまりにもトリッキーで受け入れがたい人物であるために、物事の本質を見誤りそうになるが、何にしても一番悪いのは「戦争」であり、広く捉えれば、この映画に登場する多くの人が戦争の被害者である。

「被害者だから何をしてもいい(加害者になってもいい)」という論理は誤りだが、「戦争」という背景を抜きにしてあれこれ言うこともまた誤りだろう。

なんか、凄い映画だった。

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