【映画】「プリズン・サークル」感想・レビュー・解説
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凄い映画だった。
今刑務所って、こんな感じになってるのか。
確かにこれは、「私だけ知って、感動してちゃだめ(by坂上香監督)」と思うだろう。
僕には、映画や小説などで描かれる刑務所のイメージしかない。実際、どういう形であれ、刑務所の中に入ったことはない(面会や見学など含めても)。だから、勝手なイメージしか持てないが、しかし、やはりそこは、厳しい管理によって、「罰則」という形で受刑者が扱われていく環境なのだと思う。
今でも、日本の刑務所のほぼすべてが、そういう形だろうと思う。しかし、この映画で描かれる「島根あさひ社会復帰促進センター」は、まったく違う。これまでの「刑務所」の概念を一変させる存在だ。
2008年の開設で、現時点で最も新しい刑務所である同所は、民間の経営も取り入れているという。他にもそういう刑務所が存在するかもしれないが、僕は初めて聞いた。調理や正装などは民間企業が請け負っているようだし、機械による自動配膳、自動施錠や解除など、機械化もかなり取り入れられている。受刑者にICタグをつけたり、館内をカメラで撮影したりすることで、「独歩」が許されている珍しい刑務所だ。「独歩」というのは、刑務官の付き添いなしで刑務所内を歩ける、ということで、通常はあり得ないという。
しかし、何よりも特徴的なのが、「TC」と呼ばれる教育システムだ。「TC」については後で詳しく書くが、同所には、日本唯一の「刑務所内TC」が存在する。そして、この「TC」で何が行われているのかが、この映画では描かれている。
そう、この映画は、実際の刑務所内にカメラが入り受刑者たちを撮影するという、相当特殊なドキュメンタリー映画だ。他に例があるのか知らないが、僕は相当驚かされた。
2006年に、法律によって、刑務所での「改善指導(教育)」が義務付けられたという。そしてそれを受けて同所では、先端的なプログラムが採用されている。それが「TC」だ。
「TC」というのは「回復(治療)共同体」の略だ。欧米では1960年代からその取り組みが始まり、受刑者たちの回復に効果ありとされているものだった。「TC」では対話が重視され、この映画ではまさに、受刑者同士による対話の様子がリアルに収められている。
同所では、希望する者だけが「TC」に参加できる。島根あさひ社会復帰促進センターでは、初犯か、あるいは犯罪傾向が進んでいない者が収容される刑務所だが、詐欺・性的暴行・傷害致死・窃盗など、様々な犯歴の者がいる。そういう様々な者たちが、「TC」に参加する。
同所では、「ユニット」と呼ばれる単位が存在し、そのユニットの一つが「TC」である。他にも「職業訓練ユニット」など様々なユニットが存在し、半年から2年毎にユニットを移動していく。各ユニットには、60の個室と多目的ホールが存在し、ユニット単位で受刑者がまとまって生活をすることになる。
「TC」に参加する者たちの多くは懲役刑であるため、刑務作業が必須だ。しかし、週に12時間は、教育のため刑務作業が免除される。週に3回、2つのグループに分かれて「TC」の対話が行われることになる。
取材者に課せられた撮影のルールは、「2名以上の刑務官が常に付きそうこと」「受刑者や刑務官との接触・会話は禁止」「個別インタビュー時のみ、受刑者と話すことが許される」というものだった。
この映画でメインで焦点が当たるのは4人。いずれも仮名だが、「拓也」「真人」「翔」「健太郎」である。彼らに重心を置きながら、映画は進んでいく。
凄かった。
何が凄いって、「おぉ、そんなこと言っちゃっていいんだなぁ」ということを、彼らはどんどん口にするのだ。例えば真人は窃盗や強盗致傷などで逮捕されたが、窃盗に関しては未だに罪悪感がない、という。「目の前にご飯があるから食べる」という感覚らしい。「盗りたい」と思って手が伸びるのではなく、自然と手が伸びてしまう。そこに悪意も、金が欲しいという欲求もなく、ただ手が伸びてしまうのだという。
翔は、同所に来る前にいた刑務所での感覚をこんな風に語っていた。
【刑務所では、名前ではなく番号で呼ばれて、何かに付けて怒られる。せめて怒られたくない、という気持ちで日々を過ごしていると、被害者のことを考えている時間なんてない】(一応ここで書いておくが、彼は「TC」での語りを通じて、この感覚が変わっていくことになる)
健太郎は、叔父の家に強盗に入り逮捕。それをきっかけに、婚約者だった女性が中絶するのだけど、そのことについて聞かれた時に、
【子供を堕ろしてくれて、どこかホッとしたような気持ちもあった】(これも先程と同じく、感覚は変わる)
と言っている。
これらの発言には、正直驚かされた。どれも、犯罪者が「言ったらマズイ」と自制するような内容だと感じたからだ。一応書いておくが、彼らは、「言ったらマズイ」という自制心を抑えきれずにこういうことを言っているのではない。そうではなく、この「TC」という場の雰囲気がそうさせるのだ。つまり、「どんなことを話しても否定されない」という空気がそこにあるということだ。
この点に関して、誰の発言だったかちゃんと覚えていないが、「今まで何か言っても否定されることばっかりだったし、一人の人間として扱われることが少なかった。ここでは何を言っても否定されないし、みんな聞いてくれる。だから自分の話が出来る。こんなに自分の話をしたことなんて、今までない」というようなことを言っていた。
彼らは、なかなかしんどい人生を歩んでいる。中心となる4人はみな、何らかの形で家族との問題を抱えている。貧しさ、虐待、施設での生活、親の不在などなど、彼らは加害者になる以前に、長い時間被害者だった。
もちろん、だからと言って、犯罪が許容されるべきだ、などと言いたいわけではない。しかし、彼らは、
【加害者になる前に、被害ばっかり受けてるから、こんなんされてれば(犯罪を)やっても仕方ないだろうって思っちゃう】
と誰かが言っていた通り、彼らにはまずこういう感覚がある。そして、「自分だってメチャクチャ被害者だった」という部分を自分なりに消化しないと、自分が与えた被害について思考が行き着かないのだ。
このことは、これまで色々本を読んできて、頭ではそれなりに理解しているつもりだった。犯罪の裏には、そうなった理由がある。お笑い芸人のEXITの兼近に逮捕歴があるとして一時期騒ぎになったが、彼にもなかなかしんどい家庭環境があった。繰り返すが、だから犯罪が許される、という意味ではない。しかし、犯罪の裏側にあるものをまったく見ないで、「犯罪に手を染めた人間は悪だ!罰を受けろ!」とやっていても、何も解決しない。解決のためには当然、周囲のサポートも必要だろうが、まず何よりも、その本人の自覚が追いつかなければいけない。先程話に出した、窃盗に罪悪感を覚えないという真人に対して、ただ「窃盗は犯罪だから止めろ」と言っても無理だ。例えが適切かどうか分からないが、日本は諸外国から「クジラを捕って食べるなんて野蛮だ」と言われて批難されるが、日本人の感覚としては理解できないだろう。なんで魚は良くて、クジラは駄目なんだ?と。これを、「外国人が、クジラを捕るのは野蛮だって言ってるから、クジラ捕るの止めよう」なんて言ったところで、納得できる人はあまりいないだろう。「クジラを捕る」という行動を止めさせたいのであれば、まず、「クジラを捕まえることは悪だ」という認識を持つ必要がある。それと同じで、真人に「窃盗は悪だから止めろ」というのではなく、「窃盗が悪であると感じてもらう」ことが先決だろう。
真人は、映画の始めの方の対話では、「窃盗が犯罪で悪いことだという感覚は芽生えてきているけど、やっぱりまだ悪いことだと実感はできない」という風に言っていた。しかし、後半の方で彼はカメラの前で、「窃盗が悪だ」と実感できたエピソードを語る。それは、受刑者(「TC」の中では「訓練生」と呼ぶが)の一人が、仕事道具を盗まれたことをきっかけに自暴自棄になり、犯罪に手を染めてしまった、という告白を聞いたことがきっかけだった、という。今まで彼は、「何かを盗んでも、その人にだってお金はあるだろうからまた買えばいいし、別にそこまで困らないだろう」と思っていたのだが、実際に盗まれて困った人の話を聞いて、やっと実感を持つことが出来たのだ。
真人の件は、自分が被害者だった話というわけではないが、話は同じことだ。「自分は被害者だ」という感覚が強い人間に、「お前は加害者なんだから反省しろ」と言っても通じない。そうではなくて、まず自分がどんな被害を受けて、その時どう感じていたのかということを話す。それを、一人の人間の話として、誰かに受け止めてもらう。そういうプロセスを経て初めて、「加害者としての自分」という地点に立つことが出来るのだ。
【すべてを吐き出してからやっと、関わってきた人たちのことを考えられるようになった】
出所者の一人で「TC」に参加していた人は、こう語っていた。
【TCに行ってたのは本当に良かった。相談に乗ってくれる人もいるし、内情を吐露出来たのは良かった。自分の気持ちを空っぽに出来る】
「TC」で行っている対話には、こういう効果がある。そしてだからこそ、自分自身のことを、否定されるかもしれないという不安一切を排除して話すことが出来る場が必要だし、この映画では、同所でその環境が見事に作り上げられている、と感じた。
映画の後、監督による舞台挨拶があったのだが、そこで監督はこんな話をしていた。
【アメリカで生まれたTCが、日本で定着するとはまったく思っていなかった。対話というのは、キリスト教圏の人たちによる、語りに慣れた文化基準の中でこそ成立するものであって、日本では絶対に無理だと思っていた】
この監督が、どういう経緯でこの映画を撮ったのか、という話はまた後で触れるが、実はこの監督の存在が、同所に「TC」が組み込まれるきっかけになっていた、という話を知って驚いた。まさにこの映画は、彼女が撮るべくして撮った映画だと強く実感した。
衝撃的なシーンが多すぎて、驚きの連続の映画だったのだけど、その中でも特に印象的だった場面を一つ挙げるとすれば、ロールプレイングを挙げる。
これは、「TC」のメンバーで小さいチームを組み、その中で役割を決めて演技をする、というものだ。しかし、何の演技をするかと言えば、そのチーム内のメンバーの実際の事件を演じるという。映画で映し出されたのは、叔父宅に強盗に入った健太郎で、チームの面々は「叔父役」「婚約者役」「母親役」となって、強盗を起こした健太郎に、それぞれの立場から質問を投げかけていく、というものだ。前述の「子供を堕ろしてくれて、どこかホッとしたような気持ちもあった」という健太郎の言葉も、「婚約者役」の訓練生からの質問に答える形で出たものだ。
このロールプレイングを見ていて、印象的だった点は2つある。
1つは、健太郎を責め立てる訓練生たちの言葉が、結構厳しい、ということだ。当たり前のことだが、彼ら訓練生も、何らかの事件によって誰かに被害を与えている存在だ。そんな彼らが、健太郎をかなり手厳しく責め立てる。それを受けて、最終的に健太郎は号泣するのだが、それを見ていて、あぁ彼らにはきちんと信頼関係が出来ているのだなぁ、と感じさせられた。
いくら役割だからと言って、ある程度の信頼関係がない相手には、手厳しいことも言えないだろう。彼らは「TC」の対話の中で、自身の話を曝け出したり、誰かの話に自分の意見を述べたりする経験をずっと重ねている。そういう時間の堆積がきちんとあるからこそ、彼らは「仲間」である健太郎に対して、厳しい言い方が出来る。そしてそれによって、健太郎自身も、自分が一体どれほどの罪を犯してしまったのかということを、リアルに実感できるようになる。凄いシステムだなぁ、と思った。
さらにもう1点、凄いなと思った部分がある。これは、先に挙げた4人以外の誰かの発言だと思うのだけど、こんなことを言っていた。
【自分の事件に関しては、なかなか被害者の気持ちを理解することは出来なかった。でも、ロールプレイの事件だと、被害者の気持ちに立つことが出来る】
この映画の中で、僕が一番好きなセリフだ。これは凄いなぁ、と思った。そして、なるほどなぁ、と思った。彼らは確かに、子供の頃の虐待や、大人になってからの差別など、自身を「被害者」だと経験を重ねてはいる。しかしだからといって、自分が「加害者」になった事件について、「被害者」の気持ちが分かるわけではない。というか、確かこれは翔が言っていたが、「被害者だって悪いという気持ちがある」ということなのだと思う。自分の事件については、そういう部分について冷静な判断ができなくなる。
ただ、ロールプレイの事件だと、自分は「架空の加害者」でいられる。そして、そういう立場に自分を置くことで、冷静に「被害者」というものについて考えられるのだ。実際、ロールプレイの際の被害者役による健太郎への突っ込みはかなり適確だと感じられた。自分が「架空の被害者」という立場に立つということが、自分の事件における「被害者」の心情を想像する手助けになる、というのは思いがけないことだったし、そういう場が用意されているということは非常に重要なことだと感じた。
「TC」は、社会復帰支援員と呼ばれる人たちによって行われる。これは民間企業によるものだ。彼らは見ている限り、何かを押し付けるようなことがない。それよりは、訓練生たちに「いかに話をしてもらうか」という点にかなり特化した存在だ、と感じる。
個人的な話になるが、僕は「相談」というのを「相手の頭の中を整理すること」だと考えている。誰かの悩みに対して、僕自身の経験則からアドバイスする、というのも「相談」といえるかもしれないけど、生まれた環境も生い立ちも今いる状況もまったく違う人に、僕個人のアドバイスが有効である可能性は低い。僕はそうではなく、相手は既に決断出来るだけの情報を頭の中に有しているのに、それが整理されていないだけだ、と考えて相談に臨む。色んな話を聞き、相手の状況を整理しながら、相手の視界に入る範囲内に存在する選択肢や、それらを選んだ場合の可能性について、出来る限り整理してあげる意識でいつもいる。
彼ら支援員も、そういうことに近いやり方をしている感じがする。こうしろああしろ、というようなことは言わないし、正しい正しくないの話もしない。その人が考えていることを言語化する手助けをしてあげたり、話しやすい状況を作るのが役割だ。
2つの椅子を使って、自分の葛藤を吐き出させる、というプログラムは、話しやすい状況づくりという意味で象徴的だった。ある訓練生が、「幸せに死にたい」「でもそんな風に思っている自分は駄目なんじゃないかと思う」という葛藤を持っていると話していた。そこで支援員は、2つの椅子を向かい合わせにし、その一方に訓練生を座らせる。で、今座っている方の椅子は「幸せに死にたい」あなた、そして向かいの椅子は「でもそんな風に思っている自分は駄目なんじゃないかと思う」あなただとして、それぞれに対して自分の思っていることを素直に吐き出して、と話す。文字で書くとなかなか伝わりにくいが、抱えている葛藤を同時に話させるのではなく、片方ずつ表に出させるようにすることで、大分話しやすくなるだろうなぁ、と感じた。
そんなわけで、この「TC」というプログラムは非常に素晴らしいと感じたが、しかしこの「TC」に参加できるのは、日本全国に4万人いると言われる受刑者の中で、たった40人だ。この映画を通じて「TC」の良さが広がり、同じプログラムが日本中に広がっていけば、社会全体にとっても良いんじゃないかと思う。まだまだ実数としては少ないだろうから、統計として比較することの難しさはあるかもしれないが、現時点では、「TC」の再犯率は、他と比べて半分以下だという。
さて最後に、映画鑑賞後の舞台挨拶で監督が語った、何故彼女がこの映画を撮ることになったのかという経緯について触れよう。
坂上香監督が2004年に公開した「ライファーズ」という映画がある。これは、ざっくり書くと、アメリカの刑務所における「TC」を撮ったドキュメンタリーだそうだ。この時期監督は、虐待などに関心があった。子供の頃に虐待を受けた者は、精神疾患や自傷、自死などをしてしまう一方で、犯罪に走ってしまう人もいる。それで、「TC」に関心を持ちつつも、刑務所というテーマも入り込んでくることになった。
実はこの「ライファーズ」という映画の存在が、「島根あさひ社会復帰促進センター」と関わることになる。同所は、冒頭で書いたが、運営に民間企業が入っている。そして、同所の設立にあたって関わることになった民間企業の関係者が、この「ライファーズ」を見て感銘を受け、監督とコンタクトを取ろうとしていたという(実際、客席に、その本人が来ていた)。刑務所とは関わりたくなかった監督は逃げ回っていたようで、結局その民間企業の関係者は別の人と組んで、同所に「TC」を組み込むこととなった。つまり、間接的にではあるが、「ライファーズ」という映画が日本初の「刑務所内TC」を生んだ、ということになる。
そして、話はここで終わらない。その民間企業の関係者は、「TC」の参加者全員に「ライファーズ」を見せていたという。これは、坂上香監督には無断だったようで、それを知った彼女は、「勝手にそんなことするなら、刑務所内撮らせてくださいね!」というような話をし、10年間における紆余曲折がありながらも、刑務所を撮影するという、特異なドキュメンタリーが実現することになったのだ。
久々に、凄い映画を見たな、という感覚だ。これは、本当に、みんな見た方がいい。たぶんこれ、関心を持つ人が増えることで、社会がリアルに変わるんじゃないかと思う。そんな可能性を感じさせる映画だった。
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