「勉強が辛い、嫌い、やる気が出ない。勉強する理由・メリットって?」と聞かれたらこんな風に答える

僕は別に、子育てをしているわけでもないし、日常的に学生と関わる環境にいるわけでもない。ただ、日常的に割と色んなことを考えていて、その中の一つに、「なぜ勉強しなければならないのか?」がある。もし学生からそんな風に聞かれた時、自分だったらどんな風に答えるだろうなぁ、となんとなく想像してみるのだ。

ちょっと今回、その思考をまとめてみたいと思う。ちなみに僕は、学生時代「好きで勉強していたタイプ」の人間で、今も「勉強だけしてたら生活が保証される」と言ってくれるならずっと勉強しててもいいなと思うぐらい勉強は好きだ。

では始めていこう。僕が考える理由は、大きく分けて2つある。

○「努力しなければ得られない楽しさ」を得るための体力をつける
○勉強は、「必要性」が理解できてから取り組んでも遅い

前者からいこう。

今世の中には、「触れた瞬間から楽しいもの」が溢れていると言っていいだろう。私はあまり触れる機会がないのだが、ゲームやYouTube視聴などはまさにそういうものだと思っている。もちろん、「ゲームだって、努力しなければ気づけない面白さがある」みたいに反論する人もいるだろう。確かにそれはその通りだと思うが、一方で、「そんなに努力しなくても十分楽しめる」こともまた事実だと思う。

僕らの日常は、特段意識しなければ、そういう「触れた瞬間から楽しいもの」ばかりに囲まれてしまう。一昔前と比べれば、その差は歴然だろう。昔はたぶん、娯楽が少なかったから、ラジオを分解したり、音楽番組で流れる曲をラジカセで必死に録音したりするしかなかったのだと思う。あるいは、電子機器を必要としないスポーツなどに力を入れる人は今より多かったはずだ。一方現代では、スマホやタブレットがあれば、後はひたすら「触れた瞬間から楽しいもの」で時間を埋めていくことができてしまう。

そういう時代を決して悪いとは思わないが、ただ、「『触れた瞬間から楽しいもの』にしか触れない」というスタンスには、僕はちょっと疑問を感じる。というのも、「触れた瞬間から楽しいもの」に対しては基本的に「与えられるのを待つ」ことしか出来ないからだ。それは、永遠に「受動的な消費者」から抜け出せないことを意味する。僕にはその状態は、あまり良いものには感じられない。

そして僕は、「受動的な消費者」から抜け出す体力を身につける手段として、「勉強」は有効だと思っているのである。

予想される反論に先に答えておくと、確かにこの点だけを考えるなら「勉強」である必然性はない。部活でもバンドでも、それこそ「プロゲーマーを目指すためにゲームをやりまくる」みたいなことでも別にいいだろう。ただ、「勉強」以外の多くのものは、機会とお金に恵まれないとなかなか難しい。「親が音楽をやっていた」「親がスポーツ選手だった」「やりたい習い事はなんでもさせてもらえる」みたいな環境にいればいいが、そうでない場合、「努力しなければ得られない楽しさ」に触れられる対象にはかなり制約が生まれることになる。

そう考えた時、「勉強」という選択肢は悪くないと僕は思う。

もちろん、「私は一生『受動的な消費者』で構わない」と子どもの時点で決断するなら、「努力しなければ得られない楽しさ」のことなど無視していいだろう。しかし本当に10代の経験と知見で、そんな判断をしてしまっていいものだろうか? 「やっぱり『受動的な消費者』から抜け出したい」と思っても、その時点から行動するのはかなり厳しいだろう。

「勉強」以外で何か「努力しなければ得られない楽しさ」に触れられるものと関わっているなら別に問題ないが、そうではない場合、「勉強する」という選択肢は結構悪くないと僕は思う。もし仮に勉強を「娯楽」と捉えられるのなら、そのコスパは最強だと言っていいはずだからだ。

さてもう1つの「勉強は、『必要性』が理解できてから取り組んでも遅い」の方に移ろう。

学校で勉強したことが将来どんな風に役立つか、想像することは確かに難しいだろうと思う。三角関数やフレミングの法則が社会で活かせる気はしないし、「有能な翻訳アプリがあるんだから英語なんて勉強しなくていいんじゃない?」と思う人もいるはずだ。

まあそれは仕方ないだろう。直接的に役立つ可能性は確かに低いだろうし、だからこそ大人たちも、「学校の勉強のこれこれがこんな風に役立った」と話すのが難しいのだと思う。

とはいえ、仮に学校の勉強が何かに役立つと考えた場合、「その『必要性』が理解できた時点から勉強を始めるのでは遅い」ということは理解してもらえるだろう。

こういう話を考える時に、真っ先に思い浮かぶエピソードがある。昔何かで読んだネット記事に書かれていたことだ。

その記事では、誰なのかは知らないが、その世界では有名だというプログラマーにインタビューをしていた。その中でインタビューアーが、「プログラミングを習得するには何を勉強するのが一番いいですか?」というような質問を投げかける。恐らくインタビューアーとしては、具体的なプログラミング言語や教本などが答えとして返ってくると期待してそのような質問を投げかけたのだと思う。

しかしそのプログラマーは、「英語と数学です」と答えたのだ。とても意外な返答だったので、かなり昔に読んだ記事なのだが、今でも覚えている。

その理由はこうだ。まず「英語」から。プログラミング言語は大体欧米で生まれることが多い。また、新しい言語か既存の言語かに拘わらず、世界中で議論が行われ、新たな知見が積み上がっていく。それらの最新知識を、母語(僕らなら「日本語」)に訳されるのを待っていたんじゃ遅い。リアルタイムで常に情報を得てアップデートしていかなければ、なかなか一流にはなれない。そういう話だった。

また、プログラミングというのは、高度になればなるほど「数学」の知識が必要になってくるのだそうだ。プログラミングに何度か挑戦してみたものの、その度に入口の入り口で諦めてきた僕にはあまりイメージは出来ないが、そのインタビューとは別の面白いネット記事を読んだことがあるので紹介しよう。記事タイトルは、『「虚数とか社会に出ていつ使うんだよ」にセガが回答 社内勉強会用の“ガチ数学”資料公開、ゲーム開発現場で使われていた』である。以下にリンクを貼っておく。

これは氷山の一角だろうが、とにかくプログラミングに関われば関わるほど、「数学」とは縁が切れなくなっていくというわけだ。プログラミングを行う際に実際に数学を使うかどうかはともかく、「数学的な思考能力」がなければそもそも何をやっているのか理解できない、みたいな状況が多くある、という理解でいいのだと思う。

「ゲームを開発したい」という強い思いを持つ者が、数学の勉強をサボってきた場合、そこから巻き返しを図るのはかなり難しいだろう。少なくとも、ライバルたちに遅れを取ることだけは間違いないと言える。

こんな風に、その世界的プログラマーは、「プログラミングの勉強のために大事なのは、とにかく英語と数学だ」と主張していたのだ。

また、よく言及されることではあるが、「欧米では、自国の政治や歴史について語れないと相手にされない」みたいな話がある。ビジネスマンでも、アーティスト・インフルエンサーでもなんでもいいが、日本だけでなく海外でも挑戦しようという場合、「日本についてどれだけ語れるか」という教養が問われる機会は間違いなくやってくるだろう。歴史や政治の勉強をサボっていた人が、そういう状況に置かれた場合、やはり多くの時間と機会を失いかねないと思う。

もちろん、「将来必要になる”かもしれない”というだけで、膨大な時間を費やすのはコスパ・タイパが悪い」と考える人もいるだろう。まあ、そういう判断もアリだとは思う。ただやはりそのように判断する場合には、「必要だと理解できた時から始めても遅い」という、「学校の勉強」が持つ特有の性質については理解しておくべきだろう。

さて、「勉強は、『必要性』が理解できてから取り組んでも遅い」の話に関連させる形で、「その不利益が『学校の勉強をサボっていたこと』にあると気づかない」みたいな状況もあり得るという話をしたいと思う。

例えば僕は、「数学」を勉強する最大の理由を「論理的思考能力を身につけるため」だと思っている。学生時代にそんなことを考えて勉強していたわけではないが、大人になって、自分が割と論理的に物事を考えるのが得意だと気付いたことで、「たぶんそれは数学のお陰だろう」と思うようになったというわけだ。

論理的思考能力を身につけるための手段はきっと色々あるのだろうが、やはり数学ほどそれが鍛えられるものもないだろうと思う。何故なら、「人間の感情」や「社会のしがらみ」みたいなこととは一切関係なく、純粋に「論理」しか存在しない世界だからだ。

例えば、「法律の世界」も割と論理的なのだろうと思っているが、やはり論理だけというわけにはいかない。「こういう場合には同情の余地がある」「理屈だけで考えるとバランスが悪くなるから調整しよう」など、様々な「論理以外のもの」が関わってくるはずだ。その点、数学の場合はほぼ「論理」しか存在しない。そりゃあ論理的思考能力も鍛えられるというものだろう。

さてここで、「大人になってから『自分はどうも論理的思考能力に欠けるようだ』と自覚した人」について考えよう。その人物が学生時代に数学の勉強をサボっていたとして、果たして「学生時代にちゃんと数学の勉強をしていればこんなことになってはいなかったのに」と考えるだろうか?

恐らくそんな風には思考しないだろう。何故ならその人物の中には「数学=論理的思考能力を鍛える学問」という図式はないはずだからだ(そういう図式を理解しているなら、「数学の勉強にはメリットがあるから頑張ろう」と判断する、ということを前提にしている)。この場合、「学校の勉強をサボっていたこと」を不利益の原因と捉えてもいいはずだが、しかしそのことに当の本人が気づけないことになる。これもまた、「『学校の勉強』の必要性を理解すること」の難しさを実感させる捉え方と言っていいのではないかと思う。

さて、あれこれ書いてきたが、これらが「僕が思う『勉強する理由』」である。何より難しいのは、ここに書いたようなことを10代の学生に理解してもらえるように伝えることだろう。幸いにして僕にはそういう機会がやってくることは無さそうだが、もしこの文章を読んで面白いと思った方、自分の子どもに伝わるか話してみてほしい。

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