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【本】佐々木健一「Mr.トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男」感想・レビュー・解説
本書の存在を知るまで、僕も彼のことは知らなかった。
「僕も」と書いた理由は、大半の日本人が、彼のことを知らないからだ。
【「ショックです。日本で彼の存在があまり知られていないなんて…。異常な感じさえします」
アメリカ人の口から発せられたその言葉を思い返していた】
本書の最初の文章だ。アメリカ人からすれば、藤田哲也を知らない日本人はおかしい、ということだ。
確かに、そう言われても仕方ないのかもしれない。
【藤田博士は、間違いなく航空安全において、単独で最も貢献した人です。本当に、言葉では言い尽くせないほどの存在です】(ウェイン・サンド パイロット)
【これだけは言っておきたいのですが、藤田博士の存在がなければ、ここまで来ることは不可能だったということです。重要なのは、博士が時代の先を行く存在だった点です】(ウェイン・サンド パイロット)
【気象学という人間生活に最も関係がある地球科学分野に、ノーベル賞が存在しないことは非常に残念ですね。もしあれば、藤田先生は間違いなく受賞していたと言われています。世界中で認められていますからね】(土屋清 元気象庁職員)
これほど前に言われる彼は、一体何を成し遂げたのか。
【そして皆、彼の偉業について口をそろえた。
「何百人もの命を救った。…世界中で!」
「彼は、世の中をより安全にした。飛行機に乗ることをずっと安全にした」
今、世界の空では、一日に五〇万便もの航空機が飛んでいるという。飛行機に乗り、無事、安全に、行きたい場所へ行き、会いたい人に会える。そんな空の旅が当たり前の世界を、私たちは生きている。
しかし、たった三〇年前までは、世界の空は死の不安と隣合わせだった。
十八ヶ月に一度の割合で一〇〇名を超す人々が離着陸時に突然、上空から地面へと叩きつけられ、一瞬にして命を失う”謎の墜落事故”が頻発していたのだ。
その悲劇の連鎖を食い止めた男へ、パイロットたちは今も惜しみない賛辞をおくる。
「不可解な航空機事故の謎を暴いた。数多くある人類の危機の一つを取りのぞいた人」
死の不安が覆う世界の空を、一人の男が「気象学」によって変えた。
それが、シカゴ大学教授、藤田・テッド(セオドア)・哲也(一九二〇-一九九八)だ】
これだけで、十分に彼の凄さが分かることだろう。もちろん、本書を読めば、想像以上の凄さだということがさらに理解できる。
現在、米国内で航空機に乗って死亡事故に遭遇する確率は、わずか0.0009%だという。同じく米国内で自動車に乗って死亡事故に遭遇する確率は0.03%だというから、自動車よりも航空機の方が遥かに安全、ということだ。もちろん、日本でもこの数字に大差はないだろう。この状況を実現したのが、藤田哲也なのだ。
もちろん、彼一人でこの状況を作り上げたのでは当然ない。しかし、誰もが彼を称賛するのには明確な理由がある。それは、「彼が、誰もその存在を予期していなかったあらたな自然現象を発見した」ということにある。
いや、「予期していなかった」などという表現は生ぬるいだろう。何故なら、彼がその説を発表した時、猛烈な反対に遭ったからだ。
【あの論争は、藤田先生にとっても忘れられないようで、『嘘つき』だとか『フジタはホラふいてる』とか、そこまで言われたと仰っていましたから】
それはもう、凄まじいほどの反応だったという。
しかも、この新説を発表した時点で既に、藤田哲也はアメリカで確固たる地位を築いていた、スーパー研究者だったのだ。
【32歳でアメリカへ渡った藤田哲也は、わずか十数年の内に竜巻研究の第一人者となり、気象学の常識を次々と塗りかえ、一目置かれる存在となった。しかし、米国気象会で確固たる地位も名誉も手に入れていた50代半ばになって突如、大きな波紋を呼ぶ新説を発表した】
斬新な竜巻研究によって、「Mr.トルネード」として知られるようになり、その圧倒的な研究手腕で誰からも驚異の目で見られていた藤田が発表した説だったのだが、激烈な反対を食らったのだ。
もちろんそこには様々な要因がある。当初提示していた理論が明らかに間違っていたり、藤田の研究に対するとある姿勢が問題視されているという側面も確かにあった。
しかし何よりも、藤田が提唱した新たな自然現象が、あまりに奇妙で不可解だったために、誰もその存在を信じることが出来なかったのだ。
藤田はそれに「ダウンバースト」という名前をつけた。もちろん、その存在が確認される以前からだ。
彼がその発見に至る研究に着手するようになったきっかけは、イースタン航空66便を襲った痛ましい事故だった。ジョン・F・ケネディ国際空港で起こったその事故は、乗員・乗客124名中112名の命が奪われるという、当時アメリカで起こった最悪の航空事故だった。
この事故は、政府の調査によって、パイロットの操縦ミスとして片付けられようとしていた。しかしイースタン航空から直接の依頼があり、藤田はこの事故の原因究明に乗り出した。
【彼は、純然たる観察者でしたね】
と言われる通り、藤田はとにかく観察にこだわった。普通は、理論を構築しながら観察するものだが、藤田はとにかく、徹底的に観察し、現象として何が起こっているのかを掴もうとした。
そうやって客観的な情報を積み重ねることで、彼は「ダウンバースト」という、まだ誰も見たことがない新たな自然現象の存在を予測することができた。
【テッドは、あまり観測データが揃っていない状況でも、その嵐で何が起きていたのかを三次元的に視覚化できたんです。嵐がどんなものかを頭の中でイメージして、それを絵にして表現できる人でした。データが乏しい中で、そんなことができる科学者はほとんどいません。きわめて特殊な才能でした。テッドはヴィジョン(視覚)の科学者だったのです。そんな科学者は、ほとんどいません】
【テッドは特に、複雑な現象に対する”直感”が並外れた人でした。】
【単なる直感ではなくて、数学とか物理学とかの基礎があって、現場で自分の目で見たものと照合する。非常に優れた洞察力から、自然現象を解釈されていたんだと思います】
これらの発言から分かる通り、仮に普通の科学者が藤田と同じ情報を手にしていても、恐らく「ダウンバースト」という発想には行き着かないだろう。多くの科学者たちは、藤田のそういう資質を驚異だと語っている。
また、ここでは詳しく書かないが、この「ダウンバースト」の発見には、実は、彼自身科学者として調査を行った、長崎の原爆の衝撃波が関係している。原爆投下からさほど間を置かずに長崎入りした藤田は、その徹底した観察眼で、最新鋭のコンピュータが導き出したのとほぼ同様の爆破地点、被害状況を導き出している。そしてこの経験が、結果的に、「ダウンバースト」の発見に活きているのだ。
本書の著者はNHKのディレクターであり、本書は、NHK総合の『ブレイブ 勇敢なる者』というシリーズ・ドキュメントの第一弾「Mr.トルネード 気象学で世界を救った男」として放送されたものに、盛り込めなかった情報を追加して書籍化したものだという。藤田についての書籍や藤田を取り上げたテレビ番組などは既に存在していたのだが、著者はそれらに物足りなさを感じていた。何故なら、それらからは、「人間・藤田哲也」がまったく伝わってこなかったからだ。
それらはどれも、藤田自身が自費出版した本をベースに作られている。藤田自身は、研究に関してはいくらでも喋るが、自身についてはほとんど語らなかったという。そもそも、誇張無く「朝から晩までずっと研究をしていた」ようで、研究以外に何もない男だったという。しかしそれにしても、あまりにも藤田の人間像が見えてこない。
そこで著者はアメリカで、藤田を知る人物への取材を行うことにした。アメリカ全土に散らばっている関係者に話を聞くのは困難だったが、そのお陰で、藤田の実像が伝わる内容になっている。
中でもやはり、藤田がいかにしてアメリカに行くことになったのか、という話は非常に面白い。というか、あり得ないことの連続だと言っていい。
藤田は、気象学で様々な成果を挙げた男だが、彼自身は気象学について専門的に学んだことはない。彼は明治専門学校(現在の九州工業大学)の出身で、工学の人だった。その後、同じ学校の「物理学」の助教授となった藤田は、福岡管区気象台に通い気象データをもらっては、専門家をも唸らせるような解析をしてみせたのだという。もちろん、まったくの独学だ。
そんなことがあり、彼は気象庁から、気象庁の人間ではないが職員同然に扱おう、という特別待遇が与えられることになる。これだけでも異例中の異例と言えるだろう。
しかし面白い話はまだある。彼の運命を決定づけた「ゴミ箱の論文」である。
彼はある時から、背振山の観測所に通っていたのだが、その隣にアメリカ軍のレーダー基地があった。そのレーダー基地のゴミ箱に、シカゴ大学が出版している論文が捨ててあったという。それを拾った友人が藤田に、「アメリカにも雷雲の研究をしている人がいるじゃないか」と教えてくれたのだという。
当時藤田は背振山の観測所で、「雷雲には下降気流も存在する」という発見をし、それについて英語で論文を書いていた。この発見は、日本ではまったく注目されなかった。何故なら、気象庁の人間はそのことを既に知っていたからだ。独自の研究をしていた藤田は、それを未発見のものだと思ってしまったのだ。しかし、「ゴミ箱の論文」に、まったく同じことが書いてあったことを知った藤田は、その英語で書いた論文を、その論文の著者であるシカゴ大学のバイヤース教授に送ることにした。
バイヤース教授は、日本から届いた論文に驚愕した。何故なら、バイヤース教授らは、アメリカ空軍の支援を受けて、2年間で200万ドル(当時で7億2000万円)もの巨費を投じて「雷雲には下降気流も存在する」ことを発見したからだ。バイヤース教授は、藤田が研究のために100ドル程度しか使わなかったことを知ると、すぐにでもシカゴに来てくれと申し出たのだ。
そこからも色々あるのだか、これが、藤田がアメリカへと行くことになったきっかけだ。
本当に藤田は、幸運に恵まれている。例えば、当時日本にはまだ、英語を打てるタイプライターがほとんど存在しなかった。そんな時代に、何故英語の論文を書くことが出来たのか。そこには、苦学生だった藤田が生活のために行っていた家庭教師の仕事が関係している。というように、本当に、運命に導かれるようにして、と言いたくなるくらいの展開が藤田に起こっている。
他にも、何故藤田はアメリカ国籍を取得したのか、何故藤田は通常の科学者が取るべき手続きを踏まずに研究を続けたのか、生涯研究に没頭する環境が整ったはずの藤田は何故晩年絶望していたのか、「Mr.トルネード」という呼称は誰がつけたのか。そういう、研究者ではない藤田哲也としての一面には、面白い話が多々ある。
著者はあとがきでこう書いている。
【これほどの人物、偉業、人生が、なぜ今まで埋もれてきたのかと不思議に思う方も多いだろう。
しかし、このタイミングでなければ、本書はこのようには成立しなかったのだ】
たとえば、長崎での原爆資料が発見されたのは、本書出版の僅か4年前。藤田が長崎で原爆調査を行ってから、実に68年の時を経ての発見だった。それが見つかっていなければ、「ダウンバースト」と「原爆」の繋がりははっきりとしなかったかもしれない。また、地元・北九州で藤田に関する企画展が行われたことで、国内の藤田の関係者と連絡がつきやすくなった、ということもあったようだ。
そういえば、「藤田・テッド(セオドア)・哲也」と名乗っていたから、彼を日系二世や三世だと思う人もいるかもしれないが、彼は日本生まれ日本育ちだ。「テッド(セオドア)」というのは、渡米後に自ら付け加えたものだそうだ。アメリカ人の研究者仲間は、大体彼のことを「テッド」と呼ぶ。こういう部分も、彼が日本であまり知られていない要因だと言えるかもしれない
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