【本】マーカス・デュ・ソートイ「シンメトリーの地図帳」
久々に骨太の数学ノンフィクションを読んだけど、やっぱり面白かった。しかし、この「シンメトリー」というのを理解して説明するのは、本当に難しいなぁ。
まずは、この「シンメトリー」が、どれほど僕らの身の回りに溢れていて、重要なものであるのかということに触れてみようと思う。
『ミツバチの視覚はひどく限られている。(中略)ただひとつ、この縁の厚いメガネをかけたミツバチの目に強烈に焼き付くもの、それがシンメトリーなのである。
ミツバチは、六角形の形をしたクレマチスの花や、放射状に花弁が並ぶデイジーやヒマワリといった回転シンメトリーな形を好み、一方マルハナバチは、ランやフォックスグローブやマメ科の植物といった左右対称な鏡映シンメトリーを好む』
『そうはいっても、シンメトリーを手に入れるのはそう簡単なことではない。植物が懸命に努力し、貴重な自然資源をシンメトリーに振り向けない限り、ランやヒマワリのような美しくもバランスのとれた形は生み出せない。美しい形は、いわば贅沢だ。植物のなかでもっとも健康でもっとも生存に適した個体だけが余分なエネルギーを持っていて、それをバランスの取れた形を作ることに振り向けられる。つまり、シンメトリーな花のほうが個体として勝っているからこそ、蜜をたくさん作ることが出来て、そのうえ蜜の糖分も多くなる。シンメトリーは甘いのだ。』
『さまざまな研究の結果、われわれ人間においても、シンメトリーが強い人間のほうが早くセックスをはじめることがわかった』
『動物たちもまた、鏡映シンメトリーに引かれてきた。なぜなら、体のシンメトリーがとれていると、運動能力が高くなるからだ。シンメトリーは、完璧にバランスの取れた形と結びつくことが多い。ほとんどの運動能力において、シンメトリーなほうが、前進する力を効率的に生み出すことができる』
そんなわけで、自然界にはシンメトリーが随所に現れる。シンメトリーは「対称性」とも呼ばれるのだけど、訳者あとがきには、アインシュタインについてのこんな文章がある。
『アインシュタインは、これを受けてさらに考えを進め、できあがった理論や法則や方程式に結果として対称性が生まれるのではなく、逆に、対称性があるという前提に立つことで、自然法則や方程式が得られる、と確信するようになった。この決定的な発想の転換から生まれたのが、一般性相対性理論なのである。こうして20世紀の物理学は、まず対称性ありきで前進することとなった』
つまり、自然に対称性(シンメトリー)が存在することは必然的なことなのだ。そう考えると、シンメトリーについて理解することは非常に重要に思えてくる。
しかし数学においてシンメトリーが理解されるようになったのは、自然の観察を発端としているわけではない。数学において大きな転換点となったのは、「方程式の解の公式」である。
学生時代、誰もが「二次方程式の解の公式」を習ったはずだ。a,b,cの3つのアルファベットが含まれた長ったらしい公式を無理やり覚えた人も多いだろう。
さて、数学の歴史において、この「方程式の解の公式」というのは重要な問題だった。様々な数学者が、三次方程式や四次方程式を解くための解の公式を見つけようと奮闘し、それらはやがて果たされることとなる。しかし問題だったのが五次方程式の解の公式だ。誰も、五次方程式の解の公式を発見することが出来ないでいた。
そんな時に登場したのが、アーベルという天才数学者である。彼は、発想を変えた。そして彼は奮闘の末、「五次方程式の解の公式は存在しない」ということを証明してみせた。アーベルは、当時周辺諸国から孤立していたノルウェーの出身であり、学問の中心であるパリから程遠いところにいた。それに加え、様々な不運もあり、アーベルの業績が認められるのには長い時間が掛かったが、しかし今ではアーベルの成し遂げたことは大いに評価されている。
『数学者たちにも、アーベルの業績の美しさや深さがしだいにわかりはじめた。そしてフランスの数学者シャルル・エルミートが述べたように「アーベルが数学に残してくれたもののおかげで、数学者たちはその後500年間、忙しく過ごすことになった」。パリのアカデミーは1830年に、亡きアーベルにグランプリを与えた。今日、数学者にとって最高の名誉のひとつとされているのはノルウェーのアカデミーが授与するアーベル賞で、2003年に始まったこの賞には600万クローネの賞金がついており、ほかの科学におけるノーベル賞と並ぶ誉れ高い賞となっている』
さて、そんなアーベルの後に登場したのがガロアである。ガロアも数学者としては不遇の人生を歩んだ。有名な話だが、そもそもガロアは20歳の時に決闘で命を落としている。彼は10代で煌めくような発見をし、それを当代一の数学者に何度も送ったのだが、様々な不運により生きている間日の目を見ることがなかった。ガロアの業績が広く知られ、現在に至るまで大きな影響を与え続けているのは、ガロアの成した事をどうにか数学界に認めさせたいという情熱を持った友人のシュヴァリエのお陰だった。シュヴァリエは、ガロアの発見を理解できるほどの数学的素養は持ち合わせていなかったが、ガロアの死後も様々な数学者にガロアの業績を送り続け、ガロアが最初に論文を送ってから10年の月日が経った頃、ようやく認められるに至った。
アーベルは、五次方程式の解の公式などないと証明したが、しかし五次方程式にも「ちゃんと解ける方程式」はある。じゃあ、「ちゃんと解ける方程式」と「解けない方程式」を区別するものはなんなのか―それこそがガロアが考え始めた問いだった。そしてガロアは、その背景にシンメトリーが関わっていることを見抜き、それまで存在しなかった「群論」という新しい学問を生み出した。群論は、シンメトリーという非常に捉えにくい概念を記述可能にする言語のようなものだ。数学者はガロアの発見によってようやく、シンメトリーを数学的に記述する方法を手に入れたのだ。
『ガロアがシュヴァリエに残した文書には、自然界のもっとも基本的な概念のひとつであるシンメトリーに関するまったく新たな展望の種が含まれていた。今になってガロアのメモに目を通してみると、こんなに若い人間がここまでの洞察力を持っていたことに、ただただ目を見張るばかりだ。数学者たちはここ200年の間に、シンメトリーに関する理論において幾度となく飛躍的な全身を遂げてきたが、それもこれも元をたどれば、ガロアが書きなぐったメモに潜む奥深い発想が源なのだ。この若き革命家は、今わたしたちが毎日のように仕事で使っている数学の言語を、はじめて明確に表現した人物だったのである』
さて、シンメトリーというのはここまで、方程式が解けるか解けないかという問題に絡んでいるだけだった。ガロアは、「対象としているシンメトリー群が、より小さなシンメトリー群に分割出来るか否か」が、方程式が解けるかどうかに絡んでいると洞察した。この「分割する」というのはうまく表現できないが(そもそも僕がうまく理解できていない)、不正確な比喩でよければ数における素数のようなものを想定できる。例えば、「12」という数字は「2×2×3」という形で、より小さな数字(素数)の積に分けられる。しかし「13」という数字はこれ以上分割出来ない。これと似たようなイメージで、シンメトリー群にも「分割可能な群」と「分割不可能な群」があり、分割可能なら方程式が解けるのだ、ということが分かってきた。
そして、ガロアのメモからその着想を拾い上げ、理論を構築し始めたのがジョルダンだ。ジョルダンは、「分割不可能な群=単純群」に着目することで、シンメトリーという分野をさらに押し広げた。これによって群論学者たちは次第に、「単純群をすべて網羅する」という闘いへと挑んでいくことになる。そしてそれは、「アトラス(シンメトリーの地図帳)」という形で結実することになる。
しかし、群論によってシンメトリーをさらに深めていくためには、ケイリーという数学者が必要だった。ケイリーは弁護士だったが、弁護士の業務の傍ら膨大な数学の論文を発表した人物だ。ケイリーは、ある表を作り出した。その表を使えば、シンメトリーの性質を見事に表現でき、シンメトリーの探索を進める上で強力な言語となった。ケイリーはこんな風に評価されている。
『同時代人のジョージ・サーモンは、数学に対するケイリーの貢献を次のように要約している。
現在数学者たちが代数形式の構造に関して知っていることは、ケイリーが登場する以前の知識とはがらりと様変わりしている。ちょうど、人体を解剖したうえでその内部構造についての知識を得た人が人体について知っていることと、人体を外から見ただけの人が人体について知っていることとが、まるで違っているように』
「単純群を網羅する」というプロジェクトには、もう一つ重要な人物がいた。バーンサイドだ。彼は、「位数が二つの素数でしか割り切れない群は、辺の数が十数の正多角形の回転群から構成されている」(僕には何を言っているのか分からないけど)という定理証明したことで、単純群の性質を捉えやすくなった。さらに彼はこの定理によって、「位数が二つの素数で割り切れない群」についてもある予想を立てた。それが、「シンメトリーの総数が奇数なら、そのシンメトリー群は常に辺の数が素数の図形の単純群に分割されるだろう」というものだ(相変わらず僕には何を言っているのか分からない)。どうやらこの予想が正しいことが証明できれば、単純群の基本構成要素を完璧に分析できると多くの数学者が考えたようで、そういう楽観が、「単純群を網羅しよう」とい動きに繋がっていったのだ。
しかし物事はそう簡単ではない。マシューという数学者が奇妙なシンメトリー群を発見していたのだ。バーンサイドの定理と予想から、単純群(分割不可能な群)は捉えやすいと考えられていたが、マシューが発見したシンメトリー群は、分割不可能でありながら既存のパターンに当てはまらない奇妙なものだったのだ。そういった奇妙なシンメトリー群は、その後たくさん見つかることになるのだ。
その後、様々な数学者が変わったシンメトリー群を発見するに至り、「単純群を網羅する」という計画も単純ではないということが理解されるようになっていった。そしてここから、後々「モンスター」と名付けられることになる、ひと際奇妙なシンメトリー群の発見に至る物語が始まる。「モンスター」は、4154781481226426191177580544000000個のシンメトリーを含み、最低でも196883次元に存在するという。もはやなんのこっちゃわからんが、この「モンスター」が発見される端緒となった出来事もまた、なんのこっちゃという感じなのである。
数学には、ケプラー予想という、誰もが答えは知っていたけど証明するのが恐ろしく難しい予想というのがあった。これは、ある空間の中に球(ボール)を詰め込む時、一番たくさん入る(充填率の大きい)詰め方は何か、という問題だ。これは、六角格子と呼ばれる詰め方であることが証明された。
このケプラー予想は、3次元空間におけるものだったが、ケプラー予想が証明された後、同じことを4次元空間、5次元空間…で考える人間が現れた。次元を上げていっても、やはり六角格子が最も良い詰め方だと証明されたのだけど、24次元で奇妙なことが起こった。24次元空間においては、六角格子よりも充填率の大きい詰め方が発見されたのだ。しかもそれは、24次元でしか通用しないという。リーチ格子と呼ばれることになるこの詰め方のことを、シンメトリーを研究していたコンウェイが知ったことから、「モンスター」の発見の物語はスタートする。
コンウェイは、このリーチ格子を詳しく調べることで、それがある単純群と関係があることに気づいた。そして、もし存在するとすればどういう性質を持つシンメトリー群であるのかを調べることも出来た。そのあまりに桁違いの性質に、「モンスター」という名がつけられたのだが、しかし誰もこのシンメトリー群を現実に構築することが出来ないでいた。
やがてある数学者がそれを実際に構築出来ることを示し、「モンスター」が実際に発見されるに至った。
『ボーチャーズの計算によって、「アトラス」のモンスターに関する数値と、数論に登場するモジュラー関数を巡る数値が、なぜともに頂点作用素代数によって照らされているのかが明らかになった。こうして、紐理論を支える代数や宇宙についての物理理論とつながっていることがわかると、ムーンシャインはますます風変わりなものに見えてきた。この結びつきが噂になり、モンスターは神秘的な「宇宙のシンメトリー群」と呼ばれるようになった。19万6883次元に存在するこの奇妙なシンメトリーを持つ雪片が明らかにしているパターンは、どう考えても理論物理学の概念と響き合っているとしか考えられなかった』
僕ら凡人には理解不能としか思えないような規模や性質を持つこの「モンスター」というシンメトリー群が、相対性理論と量子論(この二つは、20世紀物理学の頂点であり、また、万物を記述する統一理論のためにはこの二つを統合しなければならないのだけど、現時点では非常に難しいと考えられている)を繋ぐと考えられている紐理論と結びついているのだという。つまりそれは、数学者が見つけた、その実在さえ想像出来ないような(何せ、196883次元だ!)ものが、現実の世界と関係している、ということなのだ。
数学に向けられる疑問としてよく、「それが何の役に立つのか」というものがある。確かに著者自身(数学者である)も、こんな風に書いている。
『数学という学問にはきわめて抽象的で浮世離れしたところがあり、ときには挫折しそうになることもある。何年にもわたってある予想を証明しようと懸命に努力を続け、やっとの思いで証明が完成しても、その証明の真価がわかる人間はせいぜい2,3人。自分が何に取り組んできたのか、家族にも友人にも、本当のところはまるでわからない』
しかし、特に数学は、発見され突き詰められた時と、それが応用されるタイミングが重なるとは限らない。ずっと昔からある数学が、突如現実の世界で活躍することだってある。その顕著な例が、RSA暗号だろう。RSA暗号は、現在の様々な暗号システム(銀行口座の暗証番号や、ネットサイトのパスワードなど)の根幹を成すものだが、その基本的な発想は、誰もが学生時代に習ったあの「因数分解」である。因数分解なんかやって、何の意味があるのかと学生時代思った人が多いだろうが、その因数分解が、現代社会を根底から支えていると言っても言い過ぎではない暗号システムのベースとなっているのだ。
本書では実用化の例として、電子通信システムの例が載っている。シンメトリーの発想が見事に実用化へと結びついた例だ。データをネット回線を通じて遠くへと送る際、どうしてもエラーが発生する。どうにかして、受け取った情報の「どこにエラーがあるか」が分かる方法はないか、あるいは「エラーがあった場合に自動的に修復してくれる」手法はないかと様々な人が考えた。そしてその構築に、当時発展目覚ましかったシンメトリーの知見が使われたのだ。
また、妊娠中のつわりを軽減するとして発売された「サリドマイド」という薬が何故奇形児を生み出すことになってしまったのかや、バクテリアとはまるで違う挙動をする生命体(後に「ウイルス」と名付けられた)を理解するために、シンメトリーという考え方が欠かせなかった。もし、「シンメトリーの研究にどんな意味があるんだ」という声が大きくなり、その研究が下火になるようなことがあれば、ネット上で動画を見るようなサイトは生まれなかったかもしれないし、「サリドマイド」やウイルスへの理解も及ばなかったに違いない。
そういう意味で、特に数学や科学という学問に対して、「それが何の意味があるのか?」と問うことは止めて欲しいなぁ、と思うのだ。
シンメトリーの話の最後に、「有限単純群の分類定理の証明」の話を書こう。これは、数十年に渡って、多数の数学者が力を合わせて成し遂げたもので、『数学史上初の、多数の数学者が協力して成し遂げたがために、特定の人物の名前をつけることができず、つけたとことで意味がない証明が誕生した』のだ。この証明は、500タイトルを超す雑誌に掲載された、延べ1万ページに渡る証明だそうで、その全文を読んだことがある人間がいるかも定かではないという。ヒルベルトという数学者は、1900年に国際数学者会議で行った有名な講演の中でこう述べたという。
『数学の理論は、その理論を通りで出くわした最初の人物に説明できるくらい明晰にできて、はじめて完璧だといえる』
そういう意味でこの定理は、まだ完全とは言えないのだろう。
さて、また訳者あとがきから引用しよう。
『本書には、シンメトリーや群論を巡るほかの著書にはない特徴がある。それは、今を生きる数学者としての自分の日常と、自分と同じことに関心を持ってきた先人たちの歴史と、自分が今現在行っている数学としての群論の三つを、ひとつの実体として伝えようとしている点だ』
確かにこの点は印象的だった。本書は、自身も数学者である著者(しかもシンメトリーを研究している)の来歴や葛藤、さらに養子をもらうという話まで載っている。本書は、シンメトリーという学問分野を貫く歴史を見せてくれる本でもあるが、同時に、マーカス・デュ・ソートイという数学者の個人的な日常を染み出させる作品でもあるのだ。
例えば、子どもの頃に数学者を志した時の心境をこう書いている。
『何としてでもこの言葉(=数学)を身につけたい、とわたしは思った。そうなると外務省には入れなくなり、スパイになる夢をあきらめなくてはならなくなるけれど、でも、スパイの世界での出来事と同じくらい心躍る秘密の暗号があるのだからそれでいい』
また、同業者に先を越されそうになった時の心境をこう書いている。
『するとフリッツはその電話で、「来週までには、クリストファーとふたりであの関数方程式を証明できると思うんだ」といった。今でも憶えているのだが、そのときわたしはパニックに陥った。喜んでしかるべきなのに、すっかり打ちのめされた。わたしが自分で証明したいと考えていたのに。自分のアイデアを人に教えるのは間違いかもしれない、とわかってはいた。でも、数学という学問のためを思って、自分が、自分が、というのは慎んでいた。だがこうなってみると、ほかの人間がその問題を証明してしまうかもしれないと考えるだけでたまらなかった』
こういう、人間味溢れる記述が随所に溢れている。数学書というと、無味乾燥な作品をイメージするかもしれないが、本書は著者のエッセイという性格も持ち合わせていて、よくある数学書とまた違った読み味だ。そういう意味でも、本書は面白く読める作品だと思う。