【本】斉藤光政「戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」」感想・レビュー・解説
こんなとんでもない話があるとは、知らなかった!
本書はいわゆる、「歴史を捏造した者」の話である。その辺りの経緯はこの後で書いていくが、まずは本書を今読むべき価値について書いていきたいと思う。
トランプ大統領が登場してから、「フェイクニュース」という言葉をよく耳にするようになった。トランプ大統領の使い方は、自分を批判するメディアを全否定するためであるが、基本的には「正しくない/間違ったニュース」ということだ。
そしてこの「フェイクニュース」は、「フェイクニュース」という言葉が広まる以前から様々な場所で見られた。特にネットが普及して以降は顕著だ。真偽不明な情報が独り歩きし、あたかも事実であるかのように広まっていくということは頻繁に起こっているし、それが実害を引き起こすことも多々ある。
本書に登場する、古代史研究家の齋藤隆一氏のこんな発言もある。
【あまりに多様化した情報社会のなかで、携帯電話をバイブルにした若者たちの心から情報に疑問を持ったり、論理的説明を求めるという意欲が失われつつあるのを感じます。感覚的に面白いものを信じるというのは、若者たちの一種の自己防衛かもしれませんが、そこにあやうさを感じてなりません。外三郡誌がいずれまた、こうした疑うことを知らない若い世代の前に、亡霊となってよみがえることは十分にあり得ることなのです】
若者の分析はともかく、「うたがいことを知らない若い世代」という指摘はその通りだと思うし、意識せずに、あるいは場合によっては善意から間違った情報を拡散する、という行為の積み重ねが、あらゆる虚構を生み出しているのは事実である。
そんな世の中だからこそ、本書を読むことに価値を見いだせるだろうと思う。
本書は、「東北には古代王朝があった」という内容の古文書が大量に発見された、というところから始まる偽書事件を扱っている。それが事実なら教科書の記述を書き換えなければならないほどの学問上の大発見であるが、「和田家文書」と総称される、1000巻以上とも4000巻以上とも言われる古文書(東日流外三郡誌)のすべてが、発見者の和田氏による創作だということが、ほぼ確定している。
そして本書は、「こんなに作り込んだ古文書ならみんな騙されちゃってもしょうがないよね」なんていう内容の本ではない。どのようにして「和田家文書」が偽書だと暴かれたのかという過程を描く本ですらない。本書では、読み始めてすぐに、「東日流外三郡誌は極めて偽書である可能性が高い」と書かれている。しかも、精密な調査によってそれが判明するのではなく、「どう見ても明らかに偽書でしょこれは」というような判断なのだ。
だから本書の主眼は、「最初から明らかに怪しい東日流外三郡誌を、どうしてみんな信じちゃったかねぇ」という背景を暴き出す物語なのだ。そしてこの点こそ、「フェイクニュース」が飛び交う現代人が本書を読むべきだと思う価値なのだ。
【説明を聞いて私は自分の耳を疑った。外三郡誌への疑念は、編集作業時(※「東日流外三郡誌」は、「市浦村史資料編」として、自治体が出版している)からすでにあって、それを承知であえて出版に踏み切ったというのである。すべての事業を税金でまかなっているはずの公共機関が、である。しかも、そのような疑問符つきの文書を「こういうものがありますよと世の中に紹介することを目的」に出版したのだという。】
【(東日流外三郡誌は)文書そのものを直接確認せずに本にする】
【和田家文書には昭和初期どころか、戦後の知識や言葉まで含まれているのである】
【私が“この文書とこの文書の間が抜けている、つながりになるような文書がないか探してくれ”と言うと、和田さんは一週間もすると、ちょうどぴったりの文書をホイホイ出してくるんです】
【(和田氏の地元の人の話)外三郡誌自体も、ちょっと歴史の知識がある人が見れば、おかしいと思うような内容です。あまりにもお粗末すぎるため、だれも取り合わなかったのかもしれません。そうした面倒くさいことにはかかわらないほうがいいというあいまいな態度が、この問題を複雑にし、ここまで大きくしたのかもしれませんね。地元の人間として、本当にお恥ずかしい限りです】
万事がこの調子である。「東日流外三郡誌」というのは、誰が見ても明らかに怪しい、胡散臭い、信憑性のないものだったのだ。ちなみに和田氏は、「和田家文書」の字が和田氏の文章に似ていると指摘されると、「先祖の文章を繰り返し見てるんだから似てきて当たり前」と答えていたという。ンなアホな。
極めつけは、和田氏の家の近くに住んでいた親族のキヨヱ氏の証言だ。
【いいですか、ちゃんと聞いてください。古文書が落ちてきたという昭和22年ごろ、私はこの家に暮らしていたんです。でも、そんな出来事は一切ありませんでした】
少し補足しよう。「東日流外三郡誌」は、ある日天井裏から、煤だらけの長持ちが落ちてきたことで発見された、ということになっていた。しかしそもそも天井裏にものが隠せるような構造ではなかったし、キヨヱはそんな出来事はなかったと断言しているのだ。
本書では、様々な研究者やアマチュアなどが入り乱れながら、「和田家文書」がいかにバカバカしい偽書であるのか、ということを、細かな話も含めて明らかにしていく。本当に、バカバカしい話のオンパレードで、その厚顔無恥っぷりは凄まじいとしか言いようがない。
学問的な論争は、ほぼ決着がついていると言っていいこの偽書事件だが、論争が激しくなったのは、裁判が原因だった。「東日流外三郡誌」になんと、野村という研究者が撮った写真と、新聞に発表した記事が使われている、というのだ。野村の研究は、近畿地方の特殊な石垣についてのもので、その論文は最新の研究結果だった。しかしその研究結果が、「和田家文書」に載っている、というのだ。
この裁判をきっかけに、偽書擁護派と批判派が激しく対立することになる。学者らは、一刀両断で「和田家文書」を偽書と認定したが、擁護派はまあそれを認めない。そのやり取りに巻き込まれる形で、評判を落としたり、決別したり、振り回されたりする人々の様子もつぶさに描き出している。
本書では、擁護派のスタンスに疑問を投げかける文章があって、それが明快で分かりやすかった。UFOを例にしているが、UFOが実在すると主張する人は、世の中すべての目撃情報に対して、それが何であるのかを批判派が説明できなければ勝ち誇る、というやり方をする。しかし、それは本来的に間違っていて、世間に受け入れられない主張をしている側(つまり擁護派)に立証責任がある、つまり、すべての目撃情報に対して「それはUFOである」という証明を擁護派側がしなければならない、と主張する。確かにそれはその通りだと思う。そして「和田家文書」についても、やはり擁護派は、批判派が否定しきれないのであればそれは真実である、というようなロジックを使ってくることもある。他にも様々な「詭弁(としか受け取れない)」を駆使して、彼らは自己の正当性を示そうとする。
もちろん、明らかにおかしいからと言って間違っているわけではないし、明らかにおかしい主張をしてはいけないということでもない。僕は物理などの科学全般が好きだが、科学の世界にも「ンなわけねぇだろ」というような主張がたくさんある。しかしそれらの中にも、後に認められるものも出てくる。しかし一方で、「おかしい」のではなく「間違っている」と指摘されたのであれば、正面からその正しさを示すか、あるいは間違いを認めるしかない。しかし本書で描かれる擁護派は、どうもそれをしようとしないので、いつまでも物事に決着がつかない。
またこの偽書問題については、専門家達のこんなスタンスも関係してくる。とある大学教授の文章の引用である。
【私たち研究者は、人の一生という、限られた時間の中で研究生活を送っている。研究に取り組まなければいけないこと、明らかにしなければいけないことは非常に多い。
そのさい、研究して史料としての利用価値があると判断されるものならば、もちろん、時間を割いて研究し、おおいに学問の進展に寄与させる必要がある。しかしわざわざそれを否定するために研究することは、およそ時間の無駄でしかない。この手のものは黙殺するのが学界の常識であるし、自分たちの研究で一度もそれを史料として利用しないことが、学者としての立場の表明になっているのである】
この文章を読んだ時は、なるほど確かにそうだよなぁ、と思った。科学の世界でも、エセ科学と呼ばれるものは多々存在するが、何かの本で、科学者たちもそういうものに対しては基本的に無視するしかない、関わるのは無駄だ、と書いているのを見かけたことがある。
しかし、そう考えない人もいる。
【そして「一見して偽書として明らかなものは黙殺するのが学会の常識」「わざわざ否定するために研究するのは時間の無駄」と考えた結果、真偽論争を無視するにいたった歴史アカデミズムの無責任さに注目し、こう言い放つのである。
全ての日本史研究者が「時間の無駄」と考えて無関心を決め込めば、陰謀論やトンデモ説は致命傷を負うことなく生き続ける。場合によってはマスコミや有名人に取り上げられ、社会的影響力を持つかもしれない。誰かが猫の首に鈴をつけなければならないのだ。それが、本書を著した理由である(『陰謀の日本中世史』)】
これもまたもっともな意見である。難しいところではあるが、自分が研究者だったら、やはり僕は前者を選んでしまうかもしれない。自分の好奇心や時間を、自分の研究に使いたいのは当然だし、誰かを否定するために使うのは無駄だなぁ、ときっと感じてしまうだろう。僕自身も含めて、こう考えてしまう人間が一定数いる、ということも、このような「明らかに怪しい嘘」が広まってしまう理由の一つでもあるのだろうと思う。
本書では、何故人々は「東日流外三郡誌」に騙されてしまったのか、について、随所に考察がなされている。理由のいくつかは、「和田氏が天才だったから」ということになる。「和田家文書」は「門外不出」とされ、現物を見た人間はほとんど存在しなかった。専門家ですら現物を見ることが出来なかったのだ(なので、偽書であるかどうかは、筆跡や文体などを写真から判断することで行われている)。また和田氏は気分屋だったようで、「和田家文書」に怪しい部分があると思っても、それを言って機嫌を損ねてしまえば、「門外不出」の「和田家文書」を見ることができなくなる、と思って言えなかった、という人もいる。また、本書の著者は新聞記者であるが、その先輩記者は、「東日流外三郡誌」について好意的な記事をかつて書いていた。その先輩記者らに話を聞くと、和田氏はマスコミの操作も上手かったと証言した。ある人は和田氏を、【偽書史に残る天才】と評している。
しかし、「東日流外三郡誌」が人々に受け入れられていった最大の理由は、東北人のメンタリティだろう。
【外三郡誌は、津軽には古代から中央政府に対抗する一大勢力があった、われわれは敗者などではなかったのだ、と説きます。だからこそ、屈折しがちな東北人の心に快く響いたのではないでしょうか。ある意味で、東北人の心の底に潜むコンプレックスを悪用したのです】
僕はかつて一時期東北に住んでいたことがあったが、それを機に読んだ、東北を舞台にした歴史小説を読むと、東北の民が「蝦夷」として蔑視され、不遇の時代を過ごした、とものが多く、そのコンプレックスみたいなものが、やはりまだ連綿と受け継がれているというような印象は確かに受ける機会があった。僕は岩手に住んでいたが、未だに「南部藩」と「伊達藩」の対立構造(それは、ある種のネタなのかもしれないが)があるようだし、僕からすれば、そんな大昔のことが、未だに人間関係において関係してくるのだなぁ、と驚かされた。まあこれは、別に東北に限らず、どこにでもあるような話なのかもしれないが、とにかく、本書によれば、東北人にはコンプレックスがあり、そこを「東日流外三郡誌」はうまく衝いたということなのだ。
そしてこれは、決してコンプレックスだけに限らない。冒頭で、「若者は面白ければいいと思って情報を受け取る」という文を引用したが、「こうであってほしい」という願望のようなものを持っている時、まさにそれにピッタリの情報が目の前に現れたら、信じたくなってしまうのが人間なのだろう。そういう意味では本書で描かれている話は、世の中を度々賑わす詐欺事件とも関係してくるだろう。
本書では、「東日流外三郡誌」に関する興味深い反応も描かれている。擁護派は、「和田家文書」を本物だと信じているわけだが、世の中には、「和田家文書は偽物かもしれないが、その記述をすべて嘘だと断じることは出来ないのではないか」と考える人もいるという。これもまた凄まじい話である。「和田家文書」が偽物だとすれば、書かれていることだって嘘に決まっている、と考えるのは普通だろうが、「和田家文書が偽物でも、内容は本物だと信じたい」という人の存在は、やはり歴史にロマンを感じたいのだなぁ、と思わされた。
本書では、集英社文庫版の追記として、「オウム真理教」と「東日流外三郡誌」の関連についても触れられている。こちらもまた、実に興味深い。