【映画】「羊の木」感想・レビュー・解説
これは面白かったなぁ。
何かの本で読んだ話で、印象に残っているものがある。アメリカの話だ。
「銃」と「プール」はどっちの方が危険か?という話なのだけど、これだけでは分からないだろう。正確な問いはこうだ。「銃」のある家と「プール」のある家では、どちらが死亡率が高いか?さて、あなたはどう思うだろうか?
瞬間的な印象で言えば、「銃」の方が危険だし恐いと思うだろう。しかし実際には(少なくともアメリカでは)「プール」がある家の方が死亡率が高い。子どもが溺れて死亡する事故が多いからだ。
これと同じような話ではないか、と僕は感じるのだ。
「一度も殺人を犯したことがない人(非殺人者)」と「過去に殺人を犯したことがある人(殺人者)」だったら、どちらが危険だろうか?瞬間的な印象であれば、「殺人者」の方が危険だろう。しかし、本当にそうだろうか?「
ここからの議論は、あくまでも僕の個人的な意見だが、僕はこんな風に考えている。
まずそもそも、殺人を犯して捕まる人間の大半は「非殺人者」のはずだ。もちろん、正確なデータは知らないが、例えば殺人で捕まった人間を100人集めてきたら、98人ぐらいが「非殺人者」で2人ぐらいが「殺人者」ではないかと僕はイメージしている。
まあ、そりゃあそうだろう。現実には、刑務所を出た後また殺人を犯す者もいるだろう。もちろん、ゼロではない。しかし、その割合は、普通に考えればかなり低いはずだ。何故なら、もしも本当にそんなことが頻発しているのであれば、ニュースでバンバン報道されるはずだからだ。過去に殺人の前科がある者が殺人を犯したことが判明すれば、報道されないはずがない。
もちろん、被疑者が分からないまま迷宮入りする殺人事件も存在するだろうし、そういう中に、殺人の前科者による犯行もあるだろう。しかし、ごくごく一般的に考えてみれば、その可能性はかなり低いはずだ。
それよりも、どう考えてみたって、「非殺人者」が殺人を犯す可能性の方が高い。何故なら、僕のイメージが正しければ、殺人を犯して捕まる者の内98%が「非殺人者」なのだから。ニュースで報じられる殺人のほとんどが、「非殺人者」によるものだ、ということを思い返してみても、そのことが理解できるはずだ。
もちろん、こういう不安はあるだろう。「殺人者」の方が、殺人を犯すことへの抵抗が薄いはずだから、確率としては低いのかもしれないけど、危険視すべきであることには変わりない、と。
しかし、本当にそうだろうか?
ここで、殺人を犯す者を「理由なき殺人犯」と「理由のある殺人犯」に分類しよう。殺人を犯した者が「理由なき殺人犯」であれば、確かにかなり危険だとは思う。「理由なき殺人犯」は、理解できない理由で人を殺しうるからだ。
しかし「理由のある殺人犯」の人はどうだろう。殺人事件にはもちろん色んな動機がある。どうしようもない理由があれば殺人が肯定される、というわけではもちろんないが、夫のDVから逃れるためとか、壮絶な介護に疲れた果てにとか、そういう殺人だって世の中にはたくさんある。そういう人たちは、目の前にあるどうにもしようがない現実を打破するために、不幸にも殺人という選択をしてしまった人たちだと言えるだろう。
もちろん、「理由のある殺人犯」の人たちにも、ストーカーの末に殺してしまったとかというような身勝手な理由もありうる。だから、理由があるという分類でひとまとめには出来ない。ただ僕の感覚では、身勝手な理由での殺人というのは報道されやすく、だから頻発しているように感じやすい。あくまでも個人的な感触だが、切実な理由によってどうしようもなく人を殺めてしまう人の方が多いのではないかと思う。
さて、「理由なき殺人犯」と「理由のある殺人犯」は、どちらの方が多いだろうか?これも僕の感触だが、圧倒的に後者、つまり「理由のある殺人犯」の方が多いだろう。
ここまでの議論で何を示したかと言えば、殺人を犯した者の大半は、止むにやまれぬ事情によって人を殺してしまったのであって、そういう理由さえなければ人を殺すという行動を取らないだろう、ということだ。
もちろん、人を殺した者の中には「理由のある殺人犯」も混じっているし、外形でそれを判断するのは不可能だと言っていいだろう。だから、殺人を犯した者をひっくるめて怖がったり排除したりする、という姿勢を取ってしまうのも分からなくはない。ただ、もしそういう判断をするのであれば、僕らの周りにいる普通の人たちに対しても同じ態度を取るべきだ。何故なら、僕らの周りにいるごくごく普通の人の中にも、将来的に殺人を犯す人間はいるかもしれないし、その中には「理由なき殺人犯」もいるはずだからだ。だから、外形から「理由なき殺人犯」を区別出来ないから、かつて殺人を犯した者全員を排除する、という論理が成り立つのであれば、世の中に存在するすべての人の外形から「理由なき殺人犯」を区別できないから、世の中のすべての人を排除する、という論理も同時に成り立つはずだ。
僕はこんな風に考えているから、かつて殺人を犯した者だからと言って、ただそれだけの理由でその人を怖がることはないのではないか、と自分では思っている。
そもそも、これも当たり前の話だが、僕らが普通に生きている社会のどこかにも、かつて殺人を犯した者が普通に生活しているはずだ。刑期が終わればいずれ刑務所から出てくるわけで、そういう人だってどうにかして生きていかなければならないんだから、僕らが生きているすぐそばで生活している可能性はいつどこにいたってあり得る。知らないだけで、元殺人犯と日常的に接しているかもしれないのだから、知ったから怖がるという態度を僕は取りたくないなと思ってしまう、という部分もある。
本書で描かれるのは、過疎の町に素性を伏せて元殺人犯を受け入れるという国家プロジェクトを背景にした人びとの話だ。こんなプロジェクト、当然現実には行われてはいないだろうが、しかし完全には否定できないだろう。個人的には、フィクションとは言え、非常によく出来た設定だと思っている。僕らが知らされていないところで、このような極秘プロジェクトがどこかで行われているかもしれない。そのことは、誰にも否定できないだろう。
内容に入ろうと思います。
富山県魚深市の市役所で働く月末は、ある日上司から、この町に引っ越してくる6名の受け入れを担当してくれと命じられる。事情を知らずに、新幹線や飛行機でやってくる男女6名を迎えに行く月末だったが、久しぶりに食べるかのようにラーメンを勢い良く食べたり、預かっていてもらっていたから服がカビ臭いと発言したりと、なんとなく不穏な雰囲気を感じている。そのことを上司に問いただすと、彼らは全員犯罪者だと告げられたのだ。
刑務所の経費削減を国としては進めていきたいが、そのためには大きなハードルがある。仮釈放には、身元引受人が必要なのだ。しかし新しく、自治体が住居と雇用を確保すれば、仮釈放に必要な身元引受人になることが出来る、と決まった。そういう仮釈放者は、受け入れる自治体に10年住むことが義務付けられており、過疎対策にもなると、市長肝いりで始まったプロジェクトだと言うのだ。
月末は当初、彼らがどんな罪を犯したのか知らなかったのだが、秘密を知るはずのない同僚の一人が上司のパソコンを覗き見たとかで、彼ら全員が元殺人犯であることが分かったのだ。
月末は、彼らの受け入れ担当として、先入観を持たずフラットに接しようとする。しかし、彼らを受け入れた直後、港で変死体が見つかるなど、胸中穏やかではない。狭い町のことであり、月末自身、あるいは月末の父親とも深く関わるようになっていくが…。
というような話です。
とにかく、設定が見事な物語だな、と感じました。いやー、面白かった。先がどうなるのか分からないというサスペンスフルな部分もあり、また社会的な深いテーマも隠されている。非常に見応えのある映画だった。
社会的なテーマということで言えば、この映画で描かれる元殺人犯の受け入れというのは、原発の問題に近いものがある。原発を稼働すると核のゴミが出るが、その廃棄場所は未だに決まっていない。日本で生み出されたゴミである以上、日本のどこかで処分するしかないが、その処分地の受け入れをどこの自治体もやりたがらないからだ。
刑務所を出た人間をどう扱うか、というのも、近いものがある。核のゴミと同じ扱いをするのも悪いとは思うが、彼らも生きる以上日本のどこかに住まなければならない。しかし、積極的にそれを受け入れたいと考える自治体は存在しないだろう。この映画では、そういう設定が描かれているわけだが、実際には描かれてはいないものの、このプロジェクトを引き受けるにあたって、莫大な補助金などが出るだろう(出なければ、自治体側にメリットはほぼないはずだ)。刑務所から出てくる人間の身元引受人の成り手というのは、今後益々減っていくだろうから(昔は、家族だから仕方ない、という感覚はあっただろうけど、今ではそういう感覚は昔よりは薄れているだろう)、現実的にこの映画で描かれるような方策が必要とされる日が来るかもしれない。
物語という点で言えば、本当に何がどうなっていくのか予測出来なかった。表向きには普通の住民が増えたというだけのことだし、市役所の月末にしても、彼らとは可能な限りフラットに接しようとしている。やってきた6人は、自分と同じような立場の人間が同じ町にあと5人いるなどということは知らない。彼らには家と仕事があり、仕事も真面目にやっている。
普通に考えれば、そのまま何も起こらなくてもおかしくはないのだ。実際、不穏な雰囲気は常にありながらも、物語の冒頭から中盤に掛けては、特別何か起こるというわけでもない。ただ、設定からして、何も起こらないということはあり得ない。だから、これから一体何がどうなるんだ、という気分をずっと持ちながら見ていた。
冒頭で僕は、殺人を犯した者だからと言って怖がることはない、と書いた。しかし、もし自分が月島と同じ立場に立たされていたとしたら、様々な判断に迷ってしまうだろう、と感じた。
いや、それは、市役所の人間としてではない。魚深市に住む、一人の人間としてだ。
月末は、6人の内2人と、かなり深く関わることになる。いや、内1人は関わらざるを得なくなったというべきだろうか。彼らが元殺人犯でなければ何の問題もないはずなのに、彼らが過去に人を殺しているという事実があるが故に葛藤させられてしまう部分というのが月末にはかなりある。
その中で、あぁこれはやっちまったなと誰もが感じるだろう場面がある。月末がベースで参加しているバンドの練習の時のことだ。観客も、月末の気持ちは分かるだろう。あそこでああ言ってしまいたくなる気持ちを、自分は絶対に持ってはいない、と断言できる人はいないはずだ。でも、あの発言はやっぱりダメだった。いや、結果から見れば決して悪くはなかったかもしれないけど、でもやっぱりダメだろう。
これは、実に難しい問題だ。確かに、人を殺したことは悪いことだ。しかし、人間の感情の部分はとりあえず置いておくとして、法律上は懲役刑を経ることで罪は償ったということになる。過去は決して消せはしないが、しかし罪は償ったのだからやり直すチャンスはあって然るべきだ。もちろんその通りだ。しかしその人が、自分の生活に深く深く入り込んで来るとしたら、やはりそれは話が変わってきてしまうだろう。僕も、過去に殺人を犯した者を、ただそれだけの理由で排除するつもりはないが、しかしそれは決して、他の人と同じレベルで受け入れるということとは違う。月末は、かなり頑張ったと言えるだろう。僕が月末と同じ立場だったら、月末と同じように振る舞えるかは、ちょっと分からないなぁ。
月末と同じレベルで振る舞えるかは分からないけど、せめて僕は、クリーニング店の店主の女性程度には振る舞える自分でありたいと思う。