【本】中脇初枝「きみはいい子」感想・レビュー・解説
内容に入ろうと思います。
本書は、かつて烏ヶ谷と呼ばれ、今は桜ヶ丘として新興住宅地となったとある土地を舞台にした、学校や子供のいる環境を主に舞台にした連作短編集です。
「サンタさんのこない家」
教師になりたての岡野は、桜が丘小学校の一年生の担任になった。自分では大したことがないと思っていたちょっとした出来事がきっかけで、あっさりと学級崩壊してしまった。
翌年四年生を受け持ったが、やはりうまくいかない。どうしていいかわからない岡野は、それでも奮闘するが、そんな中、給食をおかわりするが給食費を払っていない神田という生徒の存在が気になった…。
「べっぴんさん」
あたしは、公園でだけは笑顔だ。公園では、どのママも笑顔。でもあたしは知っている。きっとみんな家では子供を叩いているはずだ。だって、あたしがそうだもの。
あやねも、公園でだけは怒られないと知って、家にいる時とは大違いだ。何かあると、すぐ手が出てしまう。でも、これは、あたしが悪いんじゃない。公園のママ友達であるはなちゃんママが、聞こえのいいことばかり言ってくるせいだ…
「うそつき」
土地家屋調査士である杉山は、自営業だということが知られると、学校や地域の色んな役割を頼まれるようになった。その縁で、学校なんかにも頻繁に行き来することがある。
息子の優介はちょっと周りとうまく溶け込めない感じで、妻のミキはいつだって本音で優介の味方なんだけど、ちょっとヒヤヒヤする。
そんな優介がある日、初めて家に友達を連れてきた。山崎くんというその男の子は「うそつき」だと優介は言うのだけど…
「春がくるみたいに」
一度結婚はしたけど、その結婚もうまく行かず、戦争をくぐり抜けてきたけど結局とうさまとかあさまも死んでしまって、今ではもう一人。長いことずっと誰とも話さないなんていうことも普通の日常がやってきてしまった。
歩いていると、毎回わたしに挨拶をしてくれる小学生ぐらいの男の子がいる。実に丁寧な挨拶で、その子のことは気になっていた。ある日鍵をなくしたというその男の子を家にあげたのだが…
「うばすて山」
妹のみわから、母を少しの間だけ預かってくれないか、と電話がある。施設に預けるまでの数日だけ、と。わたしは、忘れることが出来ない。私にだけ厳しかった、いや、厳しいという表現では到底伝えきれないほどの仕打ちをわたしにしてきた母のことを。
それでも、わたしは預かることにした。もうわたしのことなど欠片も覚えていない母のことを。
ずっしりと重い、でもほのかに暖かさを感じる石をお腹の中に入れているような感じのする作品でした。決して軽くはない、明るくもないテーマを扱いつつも、悲愴的になりすぎもせずに、子供の持つ「素直さ」によって救われ、またそれが悲しさを醸しだすような、そういう作品だと思います。
本作は、先程ざっくり「学校や子供のいる環境を主に舞台に」と書いたけど、子供を描いた小説、つまり「大人の目線で子供の姿を描いた作品」というわけではない。そう、僕は思った。本作は、子供を通じて大人を、つまり「子供という前景を描くことで、その後ろにいる大人の姿を描いた作品」だと僕は感じました。
子供はどうしたって、子供だけでは生きていけない。子供は、どういう形であれ、何らかの「大人の社会」にくっついていなければ生きていけなくて、だからこそ、子供の存在には大人の影が見え隠れする。
小説で子供が描かれる時、確かにその背後に大人の存在を薄く感じる。もちろん、作品のテーマによっては、それがくっきりと浮かび上がるようなものもあるだろう。本書は、子供の世界を、あるいは記憶の中の子供時代を描く作品であるようでいて、実際は、その子供の背後にいる「大人」の存在を、明確な意志を持って捕まえようとする作品。僕はそんな風に感じました。
本作では、「虐待」というのが一つのテーマとして扱われてる。決してそれだけが扱われているわけではないし、また「緩い育児放棄」など、「虐待」と呼ぶほどでもないものも扱われていたりするので、一概に「虐待」がテーマの作品だとは言えない作品なのだけど、一面として「虐待」というのはひとつ大きな軸となる。
子供と虐待というと僕はすぐに、金原ひとみの「マザーズ」という小説が思い浮かぶ。
「マザーズ」では、子育て真っ最中の、まったく個性の違う三人の母親を主人公に据え、「現代の日本で女性が子供を育てること」というのを前面に押し出しながら、子育てや母子の関係などを描く作品で、そのずっしりとした重さは、なかなかの重量感だった。読んでいる間も読後も、うわぁー、と言いたくなるような感覚がずっとあって、壮絶と表現しても言い過ぎではない、恐らくこれが現実なのだろうと思わせる底の深さに慄かされた作品だった。
本作は、同じ「虐待」を扱う作品でありながら、そういう作品ではない。どちらがいい、という話ではなくて。
本作では「虐待」というのは、一つの風景や記憶になっている、と僕は感じる。つまりそれは「日常」ということだ。
かつて、まだ「児童虐待」という言葉さえ認知されていなかったような頃から、子供に対する虐待は存在しただろう。でも現代では、「虐待」というのは、ある程度以上の認知のされ方をしてしまっている。母親が子供を虐待する、という事実に、驚く人はそう多くはないだろう。実数として、昔と比べて児童虐待が増えているのか減っているのか、それは僕は知らないけど、少なくともひとつ、かつてとまったく違っていることは、児童虐待が既に認知され、酷いことだとも思うし、なんとかしてやりたいとも思うのだけど、でも同時に、あぁまたか、と思ってしまうような、そういう風景化が、今の日本では起こってしまっているように思うのだ。
本作では、その風景としての「虐待」を、実にうまく掬いとっていると僕は感じる。
「マザーズ」では、母親自身が主人公であり、その母親にとっては、目の前にいる子供を「育てること」は、その時点での自らの人生において最も重大で重要な事柄だ。だからこそ、「虐待」に限らず、「子育て」に関わるありとあらゆる事柄は、母親にとっては一大事となる。「風景」などとは言っていられない。「マザーズ」ではそういう、母親自身による、どうしたって「風景」とは思えない「虐待」の現実が切り取られる。
しかし本作では、母親自身が主人公の話もあるが、タイトルにも現れているように、基本的には「となりのこども」を描いている。つまり、自分の子に対してではない「虐待」が描かれる話が多い。
自分の子に対してではない「虐待」は、日常化し、風景化してしまっている。それは、「サンタさんのこない家」に出てくる校長の言葉からもわかるように思う。
明らかに家で虐待されている子供の存在を知った担任教師は、その子の身体検査をするよう主張し認められる。が、校長から、「服は脱がせてはいけない」と言われるのだ。「服を脱がせると、保護者が怒鳴りこんでくることがあるから」と。これが風景化ではなくてなんだろう。学校にも色んな事情があるだろうし、校長としての立場もあるだろう。虐待に限らず、不幸な環境に置かれている子供がきっと増えているだろうから、そのすべてに対応しきれない、という発想もあるのかもしれない。でも、と思ってしまう。
「うそつき」も、そんな風景化した虐待の話だろう。とはいえ、こちらの話は、風景化しているからこそフラットに関われる、そんな家族の話でもある。風景化が、必ずしも悪いわけではない。
「べっぴんさん」は、虐待をしてしまう母親目線の話だ。けれどこの話は、最後の最後で、主人公ではないある人物に視点を移すことで、物語がガラっと変わる、そんな話だ。物語の初めから、その「ある人物」目線で作品を読むことが出来れば、風景化と言えるかもしれない。
「春がくるみたいに」は、ちょっと「虐待」の話とするには無理があるか。「うばすて山」は、「記憶の中の虐待」を扱ってるから、その膨大な時間の流れによって、虐待の事実がある種の風景化をしている、なんて言ったり出来るかもだけど、まあちょっと無理があるかな。
僕自身の話をしよう。
僕は、子供の頃になんて絶対に戻りたくない、とずっと思っている。僕自身の中では、子供時代は本当に大変だった。昔の自分に、よく頑張ったな、と言ってやりたいぐらい、僕は結構頑張っていたと思う。
僕は、別に親から虐待を受けたこともなければ、学校でいじめに遭ったこともほとんどない(こっちは、まったくない、とは言い切れないけど、でもその事実をほとんど思い出せないくらい軽微なものだったと思う)、傍から見ていれば、まあ平和な環境で生きていた子供だったと思う。少なくとも外側から見てわかるような、わかりやすい「何か」があったわけではない。
それはそれで僕を苦しめることになるわけだけど、とりあえず。
僕は子供の頃から、「表現できない辛さ」みたいなものに搦め捕られていた。それは、今でもそうだ。今でも僕は、「表現できない辛さ」みたいなものにがんじがらめにされているんだけど、でもそれは、子供の頃ほどじゃないと思う。
子供の頃は、自分が何に辛さを感じいているのか、全然わからなかった。自分の中でさえ、それをきちんと意識することが出来ないでいた。それが、結構苦しかった。
それはある意味では、「虐待」と結びつけて考えることが出来るかもしれない。今でもこそ、児童虐待というのは認知されているし、色んな経験が「児童虐待」という言葉で表現することで、色んな人に一瞬で理解される世の中になった。
しかし、「児童虐待」というのが社会的に認知されていなかった時代の子供たちは、今以上に(と、そんなことで比べても仕方がないことはもちろんわかっているけども)辛かっただろうと思う。
何故なら、「親から虐待を受けている」という事実が社会的に共通認識ではなく、誰にでも伝わるような形でその辛さを表現出来なかったからだ。
作中でこんなシーンがある。大人になった主人公が、かつて親から受けていた虐待を思い返している。友達の家に遊びに行った時、その家の子が洗濯物を干している母親の名前を呼ぶと、母親はにこっと笑って振り向いてくれた。そこで自分も、料理をしている母親の名前を読んでみると、怒ったような顔で振り向いて、用がないなら呼ぶんじゃない、と怒鳴られる。
そしてここからだ。怒鳴られた子供は考える。友達の家では、母親は洗濯物を干している時だった。だからうちのおかあさんも、洗濯物を干している時だったら笑って振り向いてくれるのかもしれない、と。
もちろんこれは、児童虐待が認知されていなかった時代だったから、というわけではないだろう。今だって子供たちは同じようなことがあれば、同じような思考をするかもしれない。でも「母親が子供を虐待する」ということが前提の知識としてあるかどうかによって、母親の行為をどう捉えるかにかなり差が出るだろう、と思うのだ。少なくとも今は、自分がされている行為を誰か外の大人に話せば、子供が「児童虐待」という単語を使わなかったとしても、大人には一瞬にして「児童虐待」という単語が浮かぶ。それは、母と子というものがいる以上児童虐待が永遠になくならないのだと考えれば、少なくともましな世の中になったのだろう、と僕は思う。
僕自身は未だに、自分が何を辛いと思っているのか、人にすんなり分かってもらえる形で表現することは出来ない。子供の頃は、自分の中で意識ができず、それにも苦しんだ。自分が苦しんでいる理由を、母親が嫌なやつだからだとか、学校という場が窮屈だからだとか、そういう「自分以外の何か」に付託して考えていた。それで、人に迷惑を掛けたこともあるし、僕のことをよくわからないやつだと思っていた人もきっといるだろう。
今では、僕自身は理解している。少なくとも、理解できた気にはなっている。でもそれを、誰かに共感してもらえる形で表現することは、やっぱりまだ出来ない。「フリーター」という単語が世の中に存在しなかった頃に、フリーターについて説明するようなものだ。もし僕と同じようなことを感じている人がたくさんいて(でも、そういう人がいても、お互いの感覚をどこまで共有できるのかは難しいところかもだけど)、それを表現する何か絶妙な単語を見つけて発信したりすれば、少しずつ社会に浸透したりするのかもしれないけど、少なくとも今は駄目だと思う。僕が感じているこの「表現しようのない辛さ」を、誰かに分かってもらえるように伝える自信が、未だに僕にはない。
僕は本書を読んで、そういうようなことを考えさせられた。「虐待」というものが、ある種風景になっている世の中で「虐待」を受ける子供たち。確かに、自分の置かれている状況への理解者は増えるかもしれない。でもそれは、増えるだけだ。別に、自分の味方をしてくれるわけでもない。それに、「児童虐待」というのが認知されることで、逆に「虐待」というものが類型化されすぎて、一人ひとり個別の事情を全部平坦にして「虐待」というものが捉えられてしまうような、そんな恐れもある。もちろん子供は、こうしたことを、明確な言葉で思考できているわけではないだろう。でも、子供は、決してそういうことに気づいていないわけではない。言葉で思考することは出来ないかもしれないけど、子供はちゃんとそういうことが分かっているし、だからこそ「虐待」というのが余計複雑な問題になっているのかもしれない、なんてわかったようなことを言うことだって出来てしまう。
本作ではそういう、「虐待」というものがある種の風景になってしまった日本という国における「虐待」というものについて、色んな子供を描き出すことで、その後ろにいる大人を炙り出している、そんな感じがしました。
児童虐待は、間違いなくなくならない。それは、色んな理由からそう推察できる。元々子育てというものは相当に辛いものだろうから、虐待が生まれる余地は常にあるのだと思う。しかしそれだけではなくて、今の日本の社会がそれを助長してしまう要素に溢れているように思える。一度「児童虐待」という言葉を与えられ、認知されたからには、もうそれはどんどん「当たり前」のことになっていくしかない。
そういう社会の中で、良識ある大人として何が出来るのか。どう感じるべきなのか。
きっと明確な答えはないのだろう。その答えを模索しようと奮闘している「大人」たちが、描かれているのかもしれない。
もう僕たちは、「児童虐待」の存在を知っても、少なくとも驚けない。それに、酷いとか悲しいとか、そういう感情を持つことは出来るけど、「まさかそんなことが」という驚きは、もはや共有できない。そういう世の中になってしまった。そういう世の中になってしまったからこそ、生まれた物語ではないかと思う。子供の素直さに救われる部分もあれば、子供の素直さにやるせなさを感じる部分もある。自分の力ではどうにもならない無力さを共感できる部分も多い。
根本的な解決策はない。ただ、「サンタさんのこない家」で教師である主人公が、自分のクラスに出したとある「宿題」にこそ、解決の糸口はあるのかもしれない。
作中でこんな場面がある。僕が一番好きな箇所だ。学校関連の役割を色々とやってきた主人公は、今の子供たちを見てこんな風に感じる。
『たかだか十年しか生きていない彼らの、学校以外の時間の中に、一体なにがおこっているのだろう。そのときにあげられなかったさけびが、安心できる学校で、安心できる先生の前で、あげられているとしか思えない。』
親と子だけではなく、学校で、また地域で、子供とどう関わっていくべきなのか、そういうことを少し考えさせられる作品です。「虐待」という結構重いテーマが扱われているけど、内容自体そこまで重いわけではなく、でも切なさの漂う作品です。
「虐待」を受けていたわけではないけど、子供時代痛切に生きづらさを感じていた僕にとっては、共感させられる作品でした。是非読んでみてください。
サポートいただけると励みになります!