【映画】「白い暴動」感想・レビュー・解説
とにかく僕は、強い立場の者が弱い立場の者を差別することは「ダサい」なと思う。そして、そのダサさに気づけない人とは関わりたくない、と感じる。
僕の印象では、若い世代の人ほど、こういう感覚が強くなっているように思う。
もちろん、「個人として誰かが嫌いだ」ということは、何の問題もないと思う。人間同士、そういうことはいくらでもある。また、同じレベル感の者同士が争うことも、問題はないだろう。それらは、差別ではなく、ただの対立だ。弱い立場にいる人間が、強い立場にいる人間に反旗を翻すことも、状況次第ではあるが許容される場合が多いだろう。
しかし、強者が弱者を差別することはダサい。
強者というのは大体において、多数派のことである。その逆で、弱者というのは大体少数派だ。強者による弱者の差別というのは、基本的には、数の論理で相手を圧倒すること、あるいは、数の論理で相手の存在を無視することだ。そこに、どんな主張があろうが、その主張を支えるどんな理屈があろうが関係ない。「自分たちの方が数が多い」という理論で、主張を押し切ろうとする態度に、僕はダサさを感じる。
それは、今の政治に対しても感じることだ。自民党は、単独過半数とはなっていないものの、公明党との連立で過半数を超えている。そういう現状にあると、野党との議論をおざなりにしても主張を無理矢理にでも通すことが出来てしまう。確かに、そういう政治状況を生んでいるのは、国民の投票の結果なのだから、僕らに責任はある。とはいえ、一旦そういう責任を棚上げにして言わせてもらえれば、「自分たちの方が数が多いんだからいいでしょ別に」というような態度は、非常に見苦しい、ダサい。とにかく、今僕が政治に対して感じるダサさの根幹には、数の論理で押し切ろうとする態度にあるように思う。
チャーチルの名言に、こんなものがある。「民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」民主主義は、意見の正しさ云々ではなく、数の論理で決まる。多数派が常に勝つのだ。それは、「最悪の政治形態」である。しかし、民主主義以外のどんな政治形態も、それ以上に最悪だ。だから、民主主義で我慢するしかない、ということだ。
僕はいつも、少数派の意見に惹かれる。これは少し説明が必要で、「自分が良いなと思う意見が、結果的に少数派の意見だった」ということではない(おそらくその方が聞こえはいいだろうが)。そうではなくて僕は、その意見が少数派であると分かると、良いなと感じるのだ。ただの天の邪鬼だとも言えるが、どうしても、「みんなが良いと言っている意見」には嫌悪感を抱いてしまうことが多い。生理的なキモチワルサみたいなものを、どうしても感じてしまうのだ。
今の世の中は、昔との比較でいえば恐らく、何が多数派であるかは見えにくくなっている。昔なら、「情報発信者」は非常に限られていた。だから、多くの人は、「誰の意見に賛成か」という形で自分の意見を確認することが多かったのではないかと思う(これは、昔の人が自分の意見を持っていなかった、などと言いたいわけではない。発信する機会が今よりも遥かに少なかっただろうから、そういう環境下では、自分の意見を自分なりの言葉で表に出すよりは、自分の意見が誰の意見に近いかという形で捉えておく方が自然だったのではないか、ということだ)。だからこそ、全体として、どんな意見が多数派であるのか見えやすかっただろうと思う。
しかし今は、誰もが「情報発信者」だ。ある一つの事象に対して様々な人が様々な角度からの情報・分析・意見を表出するので、全体としてはモザイク模様のように入り組んだ見え方になるだろう。僕的にはこの状況は、何が多数派であるかが見えにくくなったという意味で、良いことだと捉えている。僕自身の個人的な話で言えば、多数派が見えなければ、「これは多数派だから嫌い」という安直な判断をせずに済む。またより広い視点で見れば、「多数派=強者」という構図を崩したとも言えるだろう。SNSは、弱者側が多数派としての存在感を示すことが出来るツールとなっている。スマホの普及によって起こった革命(ジャスミン革命やアラブの春)や、今まさにアメリカで起こっている黒人差別に抗議するデモなど、誰もが「情報発信者」になれる世界では、「多数派=強者」という前提を覆すことができる。
アメリカのトランプ大統領が顕著だが、差別へ偏見を助長させることで分断を生み、その分断を自らの「生命維持」に役立てようという発想が多く存在する。僕がニュースなどを見ている限り、そういう傾向が世界的に広まっているそうだ。各地で、「◯◯(国名が入る)のトランプ大統領」と呼ばれる指導者が誕生し、分断を煽っている。
これは僕の偏見だが、そういう分断を助長させるような発想はやはり、一昔前のものだと思う。現在、国や組織の長となっている人たちの中には、世界大戦直後の状況を肌身で知っているという人もいるだろう。第二次世界大戦はまさに、国同士での分断を強調することが国益に適う時代だったはずだ。現在では、グローバル社会になったことで、むしろ国同士の分断は国益を損ないかねない状況になっている。だから彼らは、国内で分断を煽るのだろう。そして、そこで被害者になるのは、歴史的宿命を背負った弱者たちだ。
アメリカの奴隷制度のように、「人種」の問題は様々な歴史的背景を持つ。この映画では、1970年代頃のイギリスが舞台であり、当時「移民は自国に帰れ」という、白人至上主義が急速に支持を拡大していった。しかしその移民は、かつて帝国だったイギリスが、植民地から連れてきた労働力なのだ。確かに、1970年代を生きる人たちが直接犯した罪ではない。しかし、彼らの祖先が、いわゆる有色人種たちを酷く扱ったが故に、彼らはイギリスにいるのだ。そんな彼らに、「自国に帰れ」などとよく言えたものだ、と僕は感じるが、その主張に一定以上の支持が集まってしまう現実に絶望する。
若い人の中にも当然、差別的な感情を持つ人はいる。しかし、世代全体としてはそういう感覚を持つ人は少ないだろう。もちろん、「こういう人は嫌い」という、個人への嫌悪感は誰しもが持つだろう。しかし、「韓国人だから」「障害者だから」「ゲイだから」嫌い、というような、何らかの枠組みを設定してその中に含まれている人を全員ダメだと判断するような差別感情は、今後減っていくだろうと思う。それは、分断を助長しようとする上の世代の戦い方に、(もちろん年配の人も含まれるが)若い世代の人たちが共闘して対抗しようとする動きを様々に見かけるからだ。
差別が無くなることは、残念ながらないだろう。若い世代においても、一方では、学校でのいじめの問題は後をたたない。しかし、全体としては、今よりは未来の方がより良い方向に進んでいるのではないか、と僕は期待している。
内容に入ろうと思います。
この映画では、RAR(ロック・アゲインスト・レイシズム)の活動と、彼らが主催したデモ&野外ライブイベントの様子が、当時の映像や彼らが発行していた雑誌のコラージュ、そして現在のインタビューなどによって構成されている。
1970年代のイギリスは、経済状況が非常に悪く、失業者が多かった。IMFからも、賃金や社会保障の切り下げを求められるなど、かなり辛く厳しい状況にあった。そんな経済状況を背景に、白人至上主義が台頭する。NF(NATIONAL FRONT:国民戦線)という団体が、有色人種への差別を堂々と訴えるようになった。この動きは、国会議員にも広まり、パウエル議員は、「移民を自国に戻す」と堂々と発言。また、デビッド・ボウイやエリック・クラプトンなどのアーティストも、NFやパウエル議員への支持を表明するようになっていった。
こういう状況下で生まれたのが、RARだ。彼らは、アーティストが白人至上主義に賛同していることを知り、「黒人音楽を搾取している」と感じた。そして、イギリスにはびこる白人至上主義に対抗するためにRARを組織し、「TEMPO”RAR”Y HOARDING」というZINEを作成して販売した。RARの活動はイギリスやアイルランドにも広まり、大きな公民権運動へと繋がっていく。
一方で、NFの活動は過激化していく。RARのメンバーは、バッヂを付けているとNFのメンバーに襲撃された。そして、警察はそれを取り締まるわけでもない。テレビのインタビュー番組に出演した警視長は、「人種差別を助長するような団体が台頭していませんか?」という質問に、「そのような証拠はない」と言い切った。また警察は、何もしていない黒人を突如逮捕するようになった。見に覚えのない罪で有罪を宣告されたという人物も、何人か登場した。
当時最大の懸念は、NFのメンバーが選挙で大勝することだった。RARや、RARと理念を同じくする団体は、なんとしてもそれを阻止しようとする。そして1978年4月30日、デモ更新と野外ライブを組み合わせたイベントを決行する。市当局には、500人程度は集まるだろうと事前に報告していたが、実際に集まったのは8万人以上。この映画のタイトルである「白い暴動」は、このライブにも出演していたクラッシュというバンドの曲名である。
今から40年以上前の話だが、まさに現代の話と言ってもおかしくないような内容だ。人種差別が、不満のはけ口として利用され、分断を助長して優位に立とうとする“醜い”者たちと、人種差別に限らずあらゆる差別に対抗しようとするRARが非常に対比的に描かれている。
RARのスタンスや活動が正しいことは火を見るより明らかだろうから、特別思うことはないが、むしろ、NFが主張するような白人至上主義がどうして一定の支持を集めてしまうのかが不思議でならない。「みんなが言っているから安心」とか思ってしまうんだろうか。不思議だ。理屈ではなく、”どう考えても間違っている”と僕は感じるのだけど、そう感じない人がいる、というのは理解できないと感じてしまう。
「みんな仲良く」が理想だとは思わない。けど、対立は「個人間」で留まるべきだと思っている。肌の色の違いなんかで人間を一括にする発想は、知性を疑うしかないし、何より「ダサい」。
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