【本】青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」感想・レビュー・解説
内容に入ろうと思います。
本書は、「宇宙と人間の関係性の変化の歴史」を丹念に炙りだした作品でもあり、かつ、「科学とは何か」という真剣な問いを突きつける作品でもあります。「人間原理」という、物理学の内側から出てきたとは思えない「胡散臭い」理論が、どのような変節を経て現在の立ち位置を獲得したのか、を追うのがメインの流れです。
まず皆さんは、「青木薫」という著者をご存知でしょうか?詳しくは知りませんが、僕の知っている限りでは、青木薫の著書というのは、本書が初なのではないかと思います(ちゃんと調べてないので正確には知りません)。ただこの青木薫は、「数学・物理学系の書籍の翻訳者」として、物凄く著名な方です。
本書には、著者略歴が書かれており、その中に、青木薫これまでに訳してきた本の中から一部(しかし、どれもかなり有名だし話題になったもの)が載っています。僕は、1作を除いてすべて読んだことがあるし、読んでない1作もいずれ読みたいと思っている作品です。
いつの頃から僕の中でそういうイメージを持つようになったのかはっきりとは覚えていませんが、僕の中で青木薫は「安心印」です。よく、海外文学を読む際に、訳者で選ぶ、という方がいるでしょう。この訳者が訳しているなら安心だ、というような判断基準を持っている方はいると思います。僕にとって青木薫というのはそういう方で、「青木薫が訳しているなら大丈夫だ」と思える「安心印」です。
例えば、かつて僕は、ジョアオ・マゲイジョという人の「光速より速い光」という作品を読んだことがありました。これは、タイトルを見れば分かる方はわかると思いますが、アインシュタインの「相対性理論」に真っ向から反論する本で、そういう意味で実に胡散臭い。タイトルだけだったら「トンデモ本」だと判断して、僕はきっと読まなかったことでしょう。しかし、訳者が青木薫となっていた。だったら大丈夫だろう、と読んでみました。結果はやはり大当たりで、まあとにかく面白い作品でした。
僕にとっては、青木薫というのはそういう存在です。だからこそ、青木薫の作品が出ると知って、これは絶対に読まねばと思ったのでした。
さて、本書は、やはりなかなかに難しい作品です。僕はこれまでにも宇宙論や物理の本をそれなりには読んできましたけど、とはいえ、スイスイ読めるような作品ではありません。一般向けに無理に易しく噛み砕いて説明しようとせず、ある一定以上の水準を持つ人に向けて書かれている、という印象があります。そもそも、扱っている「人間原理」という題材、あるいは最新の物理学や宇宙論の知見なども、基礎的な部分をさらっているだけとはいえ、やはり高度は話ではあります。そういう意味で、僕自身も、きちんと本書の内容を咀嚼して感想を書くことは出来ないでしょう。間違ったことを書くかもしれませんが、お許しいただけると嬉しいです。
さてまず、「人間原理」とは何なのか、という説明からです。これがまず、なんとも言えず説明しづらい。本書のまえがきにはこんな風に書いてある。
『宇宙がなぜこのような宇宙であるのかを理解するためには、われわれ人間が現に存在しているという事実を考慮に入れなければならない』
これが、人間原理の主張するところです。宗教家の言葉ではありません。物理学者の中に、そう主張している人がいる、という話です。どうでしょうか、理解できるでしょうか?
もっと噛み砕いて、正確ではないかもしれないけどわかりやすいかもしれない表現を僕なりに勝手にするとこうなります。
「宇宙は、人間が生まれるように調整されて出来ている」
これは正直、本書を読むまで僕が抱いていた人間原理に対するイメージでもあります。これは、あながち間違った言い方ではありません。人間原理というものが物理学の世界に登場した際は、まさにこのように受け止められ、批判されたのでした。そして僕は、そこから情報が更新されないまま、今日に至っていたわけです。
実際、ある時期の人間原理は、上記のように解釈され、多くの賛同を得られるような理論ではなかった。しかし現在、人間原理の立ち位置は変化しているという。何故そうなったのか。それをつぶさに追い、人間原理という不可思議な理論を無視できない現在の宇宙論の概況に迫っていきます。
話は大分以前、紀元前7世紀頃に存在した「カルデア人」にまでさかのぼりますが、その辺の話はすっ飛ばします。僕は、天体の動きを精緻に観測し、それまでなかった新しいモデルを提案したコペルニクスから話を始めようと思います。
宇宙と人間という関係で言うと、コペルニクスは「万物の製作者」の存在を想定していました。
『このようにルネサンスの精神をたっぷりと吸い込んでいたコペルニクスは、『天球の回転について』の中で、宇宙は、「最善にしてもっとも規則的な万物の製作者(=神)により、われわれ人間のために創造された」と宣言し、人間のために作られたその宇宙を理解しようとしたのだった』
しかし、ここが非常に面白いのだが、コペルニクスの自らの仕事への評価とは裏腹に、現在のコペルニクスに対する評価はまったく真逆となっている。コペルニクスは、「われわれ人間のために神が作った宇宙を、神が人間に与えた理性を使うことによって理解しようとし、自分はそれに成功したと考えたのである」と思っていたように、人間は特別な存在だと考えていた。
しかし現在は、コペルニクスは、「宇宙の中心という地位から地球を(それゆえ人間を)追い出し、地球を惑星のひとつに格下げすることによって、人間中心的な思いあがりを打ち砕いた」と言われるのが普通なのだそうだ。
何故このようなことになったのか、それは是非本書を読んでほしいが、ともかくこの「コペルニクスの原理」と呼ばれる、「人間中心的な思いあがりを打ち砕いた」という考え方が、後々「人間原理」という考え方が出てくるのに一つの役割を果たすのである。
さてそこから著者は、古代から現在まで、「宇宙」というものがどのように捉えられてきたのか、その歴史を追っていくことになる。
古代地中海では、様々な宇宙像が語られたが、その中から著者は、現在とのつながりという意味で3つの宇宙像を取り上げる。様々な違いはあるが、「果てがあるのか否か」と言う点で区別され、宗教的な色味も加味されながら、それぞれが独自の宇宙像を思い描いていた。
やがて、ニュートンやアインシュタインといった巨人が、それまでの宇宙像を打ち壊す新たなパラダイムを引っさげて燦然と輝く理論を打ち立てる。ニュートンは、絶対空間と絶対時間という概念を導入し、その二つは神が作ったものではなく元々あったと考えた。アインシュタインは、有限だか果てはないという概念にたどり着き、定常的な宇宙像を描き出した。
そんな中、物理学者に拒絶反応を起こさせる衝撃的な理論が登場する。それが「ビッグバン理論」である。
こう聞いて、不思議に思う方もいるだろう。現在では、宇宙はビッグバンによって始まり膨張し今も宇宙は大きくなり続けている、というのは、割と常識に近いことではないかと思う。少なくとも、「ビッグバン」によって宇宙が始まった、という話を聞いたことがない人はあまりいないのではないか。
しかし、ビッグバン理論が登場した時には、その理論は恐ろしき忌み嫌われることとなった。何故か。
『宇宙が「誕生した」というからには、宇宙を誕生させた何者かが存在するにちがいなく、その何者かは「神」ということになりそうだった。そんなあからさまに宗教臭い説を、カトリックの司祭だというルメートルが唱えたとあって、ほとんどの物理学者が反発した。アインシュタインもルメートルに面と向かって、「あなたの数学は正しいかもしれないが、あなたの物理学は忌まわしい」と言ったというから、相当なものである。じっさい、その当時は多くの物理学者が、宇宙には始まりがあるというその説を、キリスト教の逆襲だと受け止めたのだった』
ちょっと話の流れを折るが、冒頭で僕は、本書を「「科学とは何か」という真剣な問いを突きつける作品でもあります」と書いた。ちょっとこの話をしようと思う。
本書には、こんな二つの文章がある。
『近代科学は、神という超自然的なものを持ち出さずにこの世界を理解しようと、長い道のりを歩んできたのではなかったのだろうか?かつて人びとは、「宇宙がこうなっているのは、神がこのようにお作りになったからだ」と、何かにつけて神を持ちだして納得するしかなかったが、科学はそういう論法から、一歩一歩脱却してきたのではなかったのだろうか?』
『かくして、カントのいう二つの道は別れた。
ひとつは科学の道である。科学は、人間の尊厳などとは関係なく、われわれの外側に広がる宇宙を明らかにするという目標に向かって突き進む。
そしてもうひとつは、人間の尊厳や価値、人間存在の意味などについて考える、哲学をはじめとする人文学の道である。
少なくとも科学者再度から言わせてもらえば、両者は完全に切り離され、別々の道を進んでいたのだった―二十世紀の半ばになって、「人間原理」という考え方が登場するまでは』
科学者というのは、「なぜそうなっているのか?」という問いを追求する存在だ。その歴史が積み重なり、これまで多くのことが明らかにされてきた。その経験から科学者はみな、「どんなことにも理由を求めることが出来るはずだ」という信念を持っている。
だからこそ、ビッグバン理論が登場した時、科学者はこれほどまでに拒絶反応を示したのだ。「神」という、「なぜ?」と問うことが出来ないものが含まれている理論など、科学として扱うことが出来るはずがない、と。そこから、本書でも描かれているように様々な変遷があり、ビッグバン理論は市民権を得、今では「宇宙論の標準モデル」と呼ばれるまでになっている。
しかし、「人間原理」の登場が、科学者のその信念を揺るがせ始めている。「もしかしたら、たまたまそうなったのだ、という結論を受け入れざるを得ない日が来るのかもしれない」。そんな風に考え始めている科学者も出始めているのだろう。本書はそういう、「科学のあり方」を突き詰める作品でもあるのだ。
さて、話を戻そう。ビッグバン理論が登場した、というところまでだ。著者はそのようにしてこれまで、「人間が宇宙をどのように捉えてきたのか」という歴史を丁寧にたどっていく。
さてその中で、宇宙論の世界に次第に、このような疑問が生まれてくることになる。
『宇宙はなぜこのような宇宙なのか?』
これはアインシュタインも、生涯を掛けて追求した問いだったようだ。この問いを、本書はこんな風に言い直している。
『このアインシュタインの含蓄ある問いかけを、現代物理学の言葉で身も蓋もなく言ってしまえば、次のようになるだろう。
「あれこれの物理定数は、なぜ今のような値になっているのだろうか?」』
詳細は是非本書を読んでほしいが、僕らが生きているこの宇宙には、様々な定数が存在する。どんな風に観測しても変化しない物理量だ(例えば「光速」は、いつどんな環境で観測しても変化しない定数だ)。そして、様々な研究から、いくつかある定数が、どれか一つでも現在と違った値になっていれば、人間が生まれるような宇宙にはなっていなかっただろう、ということが分かってきた。
だからこそ、科学者たちは「宇宙はなぜこのような宇宙なのか?」と問うことになる。定数が、これらの数字になっているのには、どんな理由があるのだろう?どういう理論の裏付けから、このような数字が現れるのだろう?と。
しかし、そういう発想を一変させたのが、「人間原理」と言えよう。
1974年、ブランドン・カーターという物理学者が、科学者が「コペルニクスの原理」を忌避しすぎている現状に危惧し、「人間原理」と呼ばれるようになる理論を提唱することになる。これは要するに、冒頭でも書いたように、恐ろしく噛み砕いて言えば、「人間に都合の良いように定数が調整されているんだ」というような理論である。これに対する科学者の反応は、やはり拒絶であった。
『コペルニクスは、神が与えてくれた理性を使えば、神が人間のために創造してくださったこの宇宙を理解することは可能だと考えていたのだった。しかし今日の科学者にとって、神や目的のようなものを持ち出すことは、説明の放棄にほかならない。カーターの「弱い人間原理」は、宇宙における人間の特権性を云々するというだけでも、多くの科学者にとっては、はなからアウトだったのである』
さて、この「人間原理」が受け入れられるようには、一つの大きなパラダイムシフトが必要だった。それは、「多宇宙ヴィジョン」と呼ばれるものだ。
これは名前の通り、「僕らが生きているこの宇宙以外にもたくさんの宇宙が存在する」というものだ。何故この「多宇宙ヴィジョン」が登場することで、「人間原理」が受け入れられるようになるのか。それは、宇宙が膨大に存在するという前提を受け入れることで、「人間が生まれるように調整されて宇宙が作られた」と解釈するのではなく、「無限に存在する宇宙の中で、僕らはたまたま人間が生まれるような設定の宇宙に生まれただけだ」と解釈出来るようになるからである。
この「多宇宙ヴィジョン」は、「宇宙背景放射のゆらぎ観測」や「ビッグバン理論」、あるいは「ひも理論」などからも導かれつつあるものであり、「多宇宙ヴィジョン」は現在、広く科学者の間で認められるようになりつつある。「人間原理」を巡る物語は、現在このような状況に行き着いているのである。
しかし、「多宇宙ヴィジョン」によって「人間原理」の胡散臭さが消えたからと言って、問題がなくなったわけではない。何故なら今、「多宇宙ヴィジョンは科学といえるのか?」という議論が起こっているようだからだ。
「多宇宙ヴィジョン」の最大の欠点は、「僕らが生きているこの宇宙以外の宇宙のことについて、何か観測することが出来るとは思われない」という点だ。少なくとも物理学は、「観測」に重きを置いてこれまで発展してきた。どれだけ精密で見事な理論であろうとも、観測されなければその正しさは証明できない。そういう伝統の中で発展してきた。「原子」の存在にしても、古代からその存在が想定されていたものの、その実在するといえるようになったのは、ようやく二十世紀になってからのことだ。それまでは、「実在するはずだが、観測できていないからわからない」という立ち位置だった。慎重すぎると思われるかもしれない。しかしその慎重さこそが、科学を発展させてきたと言っていいだろう。
しかし、「多宇宙ヴィジョン」は、観測はほぼ期待できない。自分たちの住んでいる宇宙にしたって、わからないことだらけなのに、その「外」(「外」という表現が正しいかどうかわからないけど)にある「他の宇宙」のことなど、まず観測できるはずがないだろう。そんな観測出来ない「多宇宙」というものを土台に据えたものを「科学」と呼ぶことが出来るのだろうか?
と、科学者の間の議論は尽きない。しかし、それでこそ科学だな、という気もする。100年後に今の時代の科学を振り返った時にどう映るか、それはまったく分からない。が、あとがきで著者も書くように、「もしも百年後の人びとが振り返ってみたとすれば、われわれの生きるこの時代を、宇宙像に大きなパラダイムの転換が起こった時期と位置づけるにちがいない」ということになるだろう。今後宇宙像がどのように変化していくのか、楽しみで仕方がない。宇宙は、実に遠い。身近な生活に、まったく関係してこないと言っていいだろう。
しかし古代から人びとは、天体や宇宙に魅せられてきた。そして、宇宙と人間の関係も、時代と共に変化してきた。これからも、宇宙像が激しく変転していくかもしれない。その科学者たちの奮闘ぶりを、これからも僕は追って行きたいと思う。是非読んでみて下さい