【映画】「ドクター・デスの遺産」感想・レビュー・解説

これは、どんなに批判されても意見を変えるつもりがないことなのだけど、僕は、「サイコパスが安楽死を執行する世界を許容する」。

もちろん、この議論においては、「安楽死の定義」は重要だ。僕も、やたらめったら人を殺していいと思ってるわけじゃない。具体的な事件を挙げるなら、座間市で起こった殺人事件は、安楽死だとは思っていない。明確に定義するつもりはないのだけど、「本人の意思が他人にもわかる形で残されている(あるいは、強く推定される状態にある)」「執行の直前まで、本人の意思によって取りやめることが出来る(そういう状況下に置かなければならない)」「当人と、安楽死の執行者以外にも、その安楽死のことを知っている人物がいる(概ね、家族になると思うけど)」の3つは必須かなと思う。

「安楽死の定義」はちょっとファジーなままにするけど、僕はやっぱり、人間が耐え難い苦痛と共に存在するべきではない、と思っている。「生きているだけで素晴らしい」みたいな考え方を持てる人は素敵だと思うけど、それはすべての人に強制していいことじゃない。その苦痛が、肉体的なものであろうと、精神的なものであろうと、耐え難さは本人の気持ち次第だし、他人がどうこう言えるものではない。少なくとも現代のテクノロジーでは(恐らく未来永劫そうだろうが)、その苦痛を代わってあげる手段は存在しないのだから、現状存在する「苦痛を取り除けるかもしれない選択肢」を出来うる限り提示して、その上でその苦痛が消え去らないのであれば、「死」という選択肢を自ら選び取る権利はある”べき”だと考えている。

しかし残念ながら、日本の法律においては、この権利を行使する手段は存在しない。外国には、安楽死を許容する国もあって、外国人も受け入れているが、島国日本特有の困難さもある。以前、安楽死に関するノンフィクションを読んだことがあるが、「飛行機に乗って移動出来ない状態」になってしまったら、海外での安楽死は不可能なのだ。だから、「飛行機に乗って移動が可能な状態」で安楽死を決断しなければならない。しかしその時点での状態というのはまだ、安楽死が必要と思われる状態ではない(飛行機で移動出来るから)。つまり、日本人が外国で安楽死を遂げるには、「今はまだ身体の自由は利くけど、今後確実に飛行機に乗れなくなる」というタイミングですべて決めなければならないのだ。もちろん、死にたいと思う理由は肉体的な問題だけではないけど、島国であるが故の安楽死の困難さというものが存在するのだ。

法律の範囲内で、死を自ら選び取る権利を行使出来ない、という状況下でなら、サイコパスが安楽死を執行しても仕方ない、と思う。というか、「超絶善人」か「サイコパス」以外、安楽死を引き受けようという人は出てこないだろう。発覚すれば、殺人罪(あるいは自殺幇助罪)で逮捕されることは間違いないのだから。

もちろん、そりゃあ理想を言えば、高潔な正義感を持った先進的な考えを持つ医師が安楽死をやってくれたらありがたい。しかし一方で、そういう人に安楽死を頼むと、その人の人生に多大な迷惑を及ぼす可能性がある。それも嫌だ。しかし、相手がサイコパスであれば、そんな気遣いも無用だ。気楽に頼める。仮に発覚して逮捕されても、自分の快楽のために安楽死をしているんだから、自業自得と言えなくもない。

という風に僕は考えてしまう。

安楽死の動機が、どれほど不純だろうが、死にゆく者にとっては結果は変わらない。もちろんサイコパスの場合、「やっぱり止めたい」と訴えた時に話を聞いてもらえるかという一抹の不安はあるが、法律外の依頼なのだからそれぐらいのリスクはまあ仕方ない、とも思える。

という風に僕は考えるが、当たり前の話だが、最も理想的なのは、きちんと実用的な形で安楽死が法整備されることだ(法律は作っても、実行のハードルが高すぎて、実質実行不可能、みたいなのは要らない)。現実に安楽死を行っている国があるのだから、無理ということはないはずだ。宗教や死生観の違いなどはもちろんあるだろうけど、交通事故死より自殺者の方が圧倒的に多い国には、必要とされているのではないかと思う。

ちなみに、この映画で描かれるサイコパス「ドクター・デス」は許容できない。どれに抵触するかはともかく、先程挙げた「安楽死の定義」の一つに、明確に反しているからだ。

内容に入ろうと思います。
警察に届いた、一本の通報。小学生の男の子から、「お父さんが殺されちゃった」というものだった。重い腎臓病を患い入院する娘を持つ刑事・犬養と、その相棒である高千穂は、子供の証言だからと慎重になりつつも、捜査を開始。するとそこに、謎の医師の存在が明らかになった。妻を問い詰めると、安楽死を依頼したことを認めた。医師の名は、「ドクター・デス」。実は「ドクター・デス」にはモデルがいて、アメリカ人のイワン・ケヴァニコフ(というのは劇中の名称で、実際にはジャック・ケヴォーキアンという名前らしい)は130人以上の人間を死に至らしめたという。「ドクター・デス」は裏サイトで、彼の遺志を継ぐと主張し、安楽死を請け負っているようなのだ。
犬養と高千穂は、「ドクター・デス」を庇おうとする関係者らからの、嘘混じりの証言をかすかに辿ることによって、真相に少しずつ近づいていくが…。
というような話です。

映画そのものは、凄く面白かったというわけではないのだけど、映画を観ながら、安楽死については様々に考えさせられました。

それは、刑事である犬養と高千穂の二人の会話の中に混じる葛藤からも読み取れます。高千穂は犬養に、「この事件、被害者ってどこにいるんですかね?」とポロッと聞く。「ドクター・デス」に家族を”殺された”人たちが、警察に非協力的なのを見て、しみじみそう感じてしまったのだろう。

殺人事件と法律が絡んでくると、よく思い出す話がある。僕は法律に詳しいわけではないけど、かつての刑法には「尊属殺人」というのが規定されていたはずだ(今はないはず)。これは、直系の親族(親とか)を殺すと、より罪が重い、というようなものだったと思う。かつては家父長制が絶対で、一家の長を殺すなど、他のどんな罪よりも重い、というような判断だったのだろうと思う。しかし今は、考え方が変わって、直系親族だからと言って、そうではない人を殺した時ほど酷い行為だという感じではない(どっちも同程度に酷い)。

つまり何が言いたいかと言えば、ある瞬間を境として、直系親族を殺したが故に今より重い罪を着せられた人と、そうでない人の区別がある、ということだ。

同じことは今後きっと、安楽死についても起こるんじゃないかと思う。遠い未来かもしれないが、安楽死が日本の法律に明文化される日は来るんじゃないか、と思う。そうなると、安楽死によって殺人罪を負った人と負わずに済む人が出てくる瞬間というのがきっとあるんだろうな、と思う。

映画の話で言えば、名前は出さないけど(当たり前かもしれないけど、HP等でも伏せられてるので)、取調室での「ドクター・デス」の振る舞いは、癖が強くて、思わず笑っちゃう場面もありました。詳しくは書けないけど、凄かった。

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長江貴士
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