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短編小説|盲目と絵画

「美術館に行きたいんだ。」

君がそう言ったとき、僕は少し戸惑った。
彼女は盲目だ。絵や彫刻を見ることができないのに、どうしてそんな場所に興味を持つんだろう。でも、君の瞳は見えないはずの光を追うように輝いていて、僕にはその提案を拒む理由なんて見つからなかった。

出かける準備をしているとき、棚の奥に友人からもらった香水が目に入った。そういえば、まだ一度も使ったことがなかった。
ラベルには「洋なしとムスクの香り」と書かれていた気がする。どんな香りなのかは正直わからないけれど、贈ってくれた友人は「軽やかで甘い香りだよ」と言っていた。それを思い出しながら、軽くひと吹きしてみた。普段はほとんど香水なんてつけないけれど、今日はなんとなく、少し違う自分で会いたい気がしたのだ。

曇り空の下、道沿いの金木犀が風に揺れ、黄色い花を小さく震わせている。車が通るたび、排気ガスが微かに混じる空気が肌にまとわりついた。

しばらく歩くと、大きく聳え立つ美術館が視界に入った。入り口の近くにあるベンチには彼女が座っていて、どこか落ち着かない様子で足を組み替えたり、手元のバッグを握り直したりしている。

僕が声をかけると、彼女ははっと顔を上げた。そして立ち上がると、少しだけ躊躇うように僕の腕に軽く手を置き、照れたように微笑んだ。

「どんなところか、楽しみだね。」

その言葉に僕は緊張した。
果たして、君を満足させられるだろうか。


最初の展示室は風景画のコーナーだった。

「今、目の前には大きな海の絵があるよ」と僕は説明を始めた。「波が少し荒れてて、空は薄い灰色。中央に小さな漁船が浮かんでる。」

君はじっと耳を傾けて、
「波の音、どんな感じがする?」と聞いてきた。

僕は一瞬答えに詰まった。視覚的な情報を伝えることに夢中で、音や感覚なんて気にしてもいなかった。
「えっと、強い風が吹いていて、波が岩に当たる音が響いてる感じかな…」

君は目を閉じてうなずき、
「うん、なんだか心細く感じるね。」と言った。


次の展示では、曲線が美しい彫刻があった。

「これは女性の形をしている彫刻で、全体的になめらかな曲線が特徴だよ。髪の毛まで細かく彫られていて── 」
「それって、どんな感情を持ってると思う?」と君は僕の言葉を遮った。

感情、彫刻に感情。
僕はしばらく考え込んでから答えた。

「うーん、穏やかで優しい感じかな。でも、どこか寂しそう。」

「そっか」と君は満足そうに笑った。

展示の最後には触れることのできる彫刻があった。君はゆっくりと手を伸ばし、その形を指でなぞった。冷たく硬い石の彫刻が、君の手の中で命を宿すように思えた。

「この彫刻、すごく温かいね。」君はぽつりとつぶやく。

僕の目には、ただ冷たい石だった。でも君には、それが何か特別なものに感じられたのだろう。その瞬間、目の前の視界がぼやけているような気がした。僕は目で見えるものにばかり囚われていて、本当に大切なものを感じ取れていなかったのかもしれない。

美術館を出た帰り道、君は穏やかな声で言った。
「今日は楽しかった。また行きたいな。」

僕は言葉を失い、ただうなずいた。
君が見たアートの世界を、僕はまだ理解しきれていなかった。

君は盲目だ。でも、本当に目が開いていなかったのは僕の方だった。


-エピローグ-

──数日後
君が、「今日は私が案内する番。」と言って僕を連れ出したのは、街の片隅にある小さなレストランだった。

「ここ、すごく評判がいいんだって。」
君が嬉しそうに笑いながらそう言うのを見て、僕は自然と微笑み返した。

店内に入ると、微かに聞こえる弦楽器の音楽と、温かな明かりに包まれた空間が広がっていた。

目の前にはオープンキッチンの光景。シェフたちが忙しなく動き回り、銀色のフライパンがコンロの上でリズムよく揺れている。鉄板の上で肉が焼ける『ジュッ』という音が一瞬高く響き、そのたびに白い蒸気がふわりと立ち上がった。

僕たちは店員に案内されるまま、君と向かい合って席に座った。

料理が運ばれてくると、テーブルの上に置かれた皿を君は指で触れ、静かに言った。
「見た目は分からないけど、どんな感じなの?」

僕は少し迷ってから答えた。
「綺麗だよ。鮮やかな野菜と、ソースの飾り付けが絵みたいだ。」

「いいね。見えないけど、話を聞くだけで素敵な感じが伝わるよ。」

君は一口食べると、フォークを持ったまま目を閉じた。
「うん、これ、なめらかでクリーミーだけど後味が爽やか。レモンかな?でも隠し味に何か他の香りがある気がする。何だろう。」

僕はその質問にすぐに答えられず、口を開いても言葉が出てこなかった。
気まずさを隠すように皿の上の料理を食べ進める。君は気付いた様子もなく、料理を味わい続けていた。

「ねえ、目が見えなくても、こうして食べるのは楽しいよ。味や食感、温度、そう言う細かいところに意識が向くから。」
そう言って嬉しそうにパンを裂き、手で触れながら料理を味わう君を見て、僕の胸は少し苦しくなった。

「でも、君には少し物足りないかもね。」

突然のセリフだった。

僕は動揺を隠すように慌てて返す。
「え、なんで?」

君は少し首を傾げて、イタズラっぽく笑った。
「だって、君は匂いが分からないでしょ。」

その瞬間、僕は胸がぎゅっと締めつけられるような思いをした。
隠していたつもりだった。でも、君には見抜かれていたのだ。

「…どうして気付いたの?」
僕がそう聞くと、君は少しだけ肩をすくめた。
「香りや匂いについて触れたことがないでしょ。君らしい独特な表現の仕方は、嗅覚にまつわる話だけがいつも抜けてるのから。」

君は優しい声で続けた。
「でもいいんだよ。私は目が見えないけど、君は匂いが分からない。だから、お互いに補えばいいんじゃないかな。」

君の言葉に救われるようなきがした。僕は不器用に笑いながら頷き、目の前の料理をもう一度口に運んだ。君が楽しそうに食べる姿を見ていると、味や匂いがどうであれ、この時間こそが何よりも大切だと思えた。

嗅覚のない僕と、目の見えない君。
誰よりも違うはずの二人が、同じ世界を共有していた。


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