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【文活4月号ライナーノーツ】北木鉄「旗」

この記事は、文活マガジンをご購読している方への特典としてご用意したライナーノーツ(作品解説)です。ご購読されていない方にも一部公開しています。ぜひ作品をお読みになってから、当記事をおたのしみくださいませ。

京都の鞍馬寺が好きだ。正確には、鞍馬寺にある毘沙門天立像が好きだ。霊宝殿の3階に上がると待っているのが、しんとした仏像泰安室。入り口で靴を脱ぎながら少し中を覗く。毘沙門天立像たちがこちらをじっと見つめている。部屋の温度は低くて、少し肌寒い。一室の壁に沿って居並ぶ毘沙門天立像をガラスも柵もなしに間近で見る。宝冠を被った兜跋毘沙門天立像(東寺にあるものが有名なあれ)の左隣に、3体の毘沙門天立像が並んでいる。腰に右手を当て、左手で戟を持ち、威厳に満ちた顔。国宝の毘沙門三尊天立像の目の不思議なかたち。

不動明王や仁王のようなあからさまな怖い顔ではないが、仏敵への見せない憤怒にものすごく憧れた。背後に守る者を持つこの気迫よ。

私もこうなりてーーーと思った。鞍馬寺の毘沙門天立像を見たときの気持ちは、かっこいいなあ、とか、いいなあで終わらなかった。私もそうなりたい、だったのだ。ぶつけるために、相手をこらしめるために怒るのではなく、何かを守るために静かに怒ること。粗雑で安価な怒りではなく、思考する細かな怒りであること。それが私が小説を書くときの一つの指針であり、このnoteで伝えたいことでもある。

怒る思考

どうやって書いたんですか?と聞かれた際、わからない最悪だ答えられないと嘆いた私に、文活のメンバーの一人である雪柳あうこさんが「『わからない』と、そう答えればいいんですよ」と言ってくださった。

「『わからない』と、そう答えればいいんですよ」

だからここには素直に書こうと思う。
どうやって書いているのか、よくわからない。
なぜわからないのか。その理由はおそらく、私の小説の原動力が怒りだからだと思う。よくないですね、若気の至りというものでしょうか。後に自分が若気の至りだと説明していることを考えると、また怒りが湧いてくる。

だれかが心安らぐような物語を書きたい、だれかを救いたい、だれかをワクワクさせたい、そういう気持ちを持たずに書いてしまっている。私はなにかに憤っていて、その怒りについて考えて考えて考える。ぐわんぐわんと湧いてくる憤りを抱えて、どしどし歩く。自分がどうして怒っているのか、その対象についてぐるぐると考えながら、どしどし歩く。どうしたらこの憤りを憤り以外のかたちで表現できるか考えながら、どしどし歩く。怒るのって、みっともないというか、自分のことコントロールできない人の特徴みたいで遠ざけてしまうこともあるかもしれない。けれど、怒りとはとても大切な感情だと私は思う。怒りは、諦めと真反対にある感情だと考えるためである。好きの逆は無関心とはよくいったもので、怒りの逆に位置するのが、諦めではないのだろうか

何を言いたいのかというと、書く人がいちばんやってはいけないことが、諦めだと思うということだ。

諦めに立ち向かうために、小説があるのだと思う。内容うんぬんや結末どうこうではなく、読む人の日常を諦めさせないために、小説があるのだと思う。夢を諦めることがあっても、恋を諦めることがあっても、うまく生きることを諦めることがあっても、全然大丈夫。へこたれて元気が出なくても、もう無理だと思って泣いてもいい。でも、日常だけは諦めさせたくない。(これは別に、「諦めない物語以外はだめ!!」という意味では全くない。諦めや堕落を書いた小説が、読む人を諦めから引き離すこともあるように)

だから私は、諦めないために怒りの原因や目的を考えて、怒りに向き合う。大抵の場合、私は理不尽さに怒っている。自分や誰かが被る理不尽さの前で、その理不尽さを睨んでいる。睨みながら、怒りを考えている。

そこまでわかっていて、なぜ小説の書き方はわからないのかというと、怒っている際の自分の頭の中がわからないからだ。別に、「なんで出来ちゃうのか、自分でもわかんないんすよねえ」と天才ぶるようなことを言いたいわけではない。事実、私は凡人だ。怒っているときの自分の頭の中なんて、わかる人がいるならむしろ知りたい。とにかく、怒りに向き合っているとき、どういう回路で思考が進んでいるのかわからないのだ。怒りについてひたすら考えているとき、私は書き言葉で考えるようにしている。取り出しやすくするためだ。音読とか、タイピングするのに似た感覚である。考えていることを言葉にすると、だんだん小説の方向性がみえてくる。ある程度まとまったら、紙に殴り書きをする。

今回の『旗』という作品は、「強く自分を持って道を切り拓いていく生き方」、「うまくいかないことが多くて弱い自分になってしまってばかりの生き方」、その二極化に引っ張られそうになることへの怒りによって生まれた。

強いとか弱いとか、強い人はいいよねとか弱い人は大変だよねとか、そうじゃないだろう、それだけじゃないだろう、強くても弱くてもいいけど、それが他人や社会のなかにおける相対的な強さとか弱さになったらいかんだろう、強くても弱くてもいいけど、誰かが見ていなくても見ていてもいいけど、揺らがなかったもののこと忘れたくない、という怒りと切望が背景にある。

そんな怒りについて考えたあと、どのように殴り書きをしたか。恥を承知でそのときの紙の中から一枚載せてみる。

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