秋霜烈日の誇りどこへ
※文化時報2023年7月21日号掲載の社説です。
厳しい寒さを秋の霜に、激しい暑さを夏の日差しに例えた四字熟語「秋霜烈日」は、検察官の職責の比喩として用いられる。厳格な刑罰と権威をつかさどる存在であるからこそ、自らを律して不正を追及するのだという気概と理想を表した言葉である。胸に輝く記章は、紅色の旭日に菊の白い花弁と金色の葉をあしらっているが、形が霜と日差しに似ていることから「秋霜烈日のバッジ」と呼ばれる。
そのように誇り高き検察官が、誰の目から見ても正義に反する主張を、法廷で繰り広げるという。
1966(昭和41)年に静岡県で起きた一家4人殺害事件で、死刑が確定した袴田巖さんの裁判をやり直す再審公判を巡り、静岡地検は10日、有罪立証する方針を明らかにした。再審開始が決まった段階で無罪の公算が大きいとみられている中、捜査機関がこれ以上有罪だと言い続けることは、明らかな人権侵害だ。宗教界が抗議の声を上げるのにふさわしい事案である。
再審開始決定は、東京高裁が3月13日に出した。確定判決では、袴田さんの働いていたみそ工場のタンクから見つかった5点の衣類が「犯行時の着衣」とされたが、東京高裁は捜査機関が捏造(ねつぞう)した証拠である可能性が「極めて高い」と判断した。
検察側は、この点について、再審公判で「根拠がない」と反論するという。これまで検察側は証拠の全面開示を拒んでおり、着衣の写真ですら静岡地裁の勧告を受け、2010(平成22)年になってようやく弁護団へ開示したほどだった。もっと早い段階で開示していれば審理の俎上(そじょう)に上っていたのだから、今なお有罪立証を重ねるというのは道義にもとる。
そもそも、検察側は有罪立証に費やす労力と時間があるならば、証拠捏造だと指摘された問題の検証を徹底して行い、冤罪(えんざい)被害の再発防止につなげるのが筋ではないのか。
過去に再審が行われた4件の死刑事件では、検察側がいずれも有罪立証を行い、改めて死刑を求刑した。結果は4件とも無罪だった。
再審の請求自体が「無罪などを言い渡すべき明らかな証拠」の存在を条件にしている以上、開始が決まれば検察側の敗色は濃厚となる。にもかかわらず、有罪立証を続けるのは、前例踏襲かメンツを守るためか嫌がらせか、あるいはその全てが理由と見られても仕方ないだろう。
有罪立証は、再審公判の長期化をもたらす。袴田さんは87歳、姉のひで子さんは90歳である。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則に照らせば、一刻も早く無罪を確定させるべきだ。合わせて、冤罪が疑われる他の事件の迅速な審理を促すためにも、証拠開示の制度化を盛り込んだ再審法改正が必要である。
「秋霜烈日」の言葉を広めたのは、「ミスター検察」と呼ばれた第14代検事総長、伊藤榮樹(1925~88)とされる。その伊藤は「巨悪を眠らせるな」「被害者と共に泣け」「国民に噓をつくな」と、部下たちに説いた。今の検察は、伊藤の言葉に恥じない組織になっているだろうか。
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