【能登半島地震】ビール片手に住民ホッと 僧侶が移動居酒屋
※文化時報2024年7月19日号の掲載記事です。
元日の能登半島地震から半年を迎えた被災地で、僧侶たちが「移動居酒屋」を開いている。真宗大谷派のボランティア有志が拠点を置く奥能登ボランティアセンター(VC)=石川県能登町=の責任者で、法傳寺(兵庫県丹波篠山市)の長田浩昭住職が中心となり、仮設住宅や小規模な避難所を巡回する。従来の炊き出しとは一風変わった取り組みで、長田住職は「顔が見える支援が被災者の支えになる」と力を込める。(高田京介)
子育て世代、高齢者も
7月1日夕方。石川県珠洲市の集落にテントが設けられ、赤ちょうちんが掲げられた。長机を並べてつくった約40席が住民たちで埋まっていく。お目当てはビールや地酒、新鮮な刺し身やおでんなどの本格的な〝居酒屋メニュー〟だ。地元僧侶や全国からのボランティア約10人が、板場と接客を担当。5月22日から7月1日までに計11回開催し、主に100世帯以下の小規模集落で行ってきた。
営業時間は午後6~8時と比較的早い時間帯。このため子育て世代から高齢世代まで幅広い年齢層が集い、お酒を飲まなくても会話が弾む。笑顔で「ありがとう」と食事を受け取ると、グループで和気あいあいと近況を報告し合う。
長田住職は「海沿いで暮らす能登の住民でも、地震発生後は半年ほど、刺し身を食べられない状態が続いた。おいしい食事とお酒を楽しむことで、この居酒屋が交流と情報共有の場にもなっている」と話す。
被災者の声きっかけ
大谷派の寺院が多い奥能登では、「北陸門徒ネット」などの有志が中心となって、炊き出しや支援物資の運搬などを行ってきた。住民たちは生活再建のめどが立っておらず、特に炊き出しは地震発生当初と変わらないニーズがある。
コロナ禍を経ていたこともあり、感染症対策として、炊き出しの際はボランティアではなく避難所の運営責任者が食事を届けていた。被災者と顔を突き合わせた支援が行えなかったという。
長田住職は「有志でやってきた全国の人は、被災者に会えず声を聞けないまま帰って行った。そうした支援の在り方に、ボランティアも限界にきていた」と指摘する。
そうした中、被災した住民たちから偶然、こんな声を耳にした。
「足りないのは居酒屋だ」。通常の炊き出しから趣向を変えてほしい―という要望だと受け止めた。
長田住職はすぐ知人の僧侶らに働きかけ、資材を準備。ちょうちんを飾るなど雰囲気づくりにもこだわった。食材とお酒は地元のスーパーで調達し、全て無料で振る舞っている。
仮設住宅の建設が始まった奥能登では、避難所の統廃合がすすめられている。これまで学区ごとにまとまっていた避難者が複数の学区に分散するケースもあり、炊き出しを打診しても情報共有が満足にいかないケースが出てきたという。長田住職は「地道に続けていきたい」と語った。
一人でも多く現地へ
石川県は地震発生直後から、自衛隊などの緊急車両の通行を優先させる狙いで、ボランティアの現地入りを自重するよう求めた。そうした対応について、長田住職は「いまだに能登を訪れようとしている人の妨げになっている。今になって『金沢や能登に来てください』では、説得力に欠ける」と語る。
能登町出身の長田住職は日本大学を経て、大谷専修学院に進んだ。能登半島地震の発生地で能登町と隣接する珠洲市では、1975(昭和50)年から原発建設計画が持ち上がっていた。
長田住職は反対運動の中心となり、その結果2003(平成15)年に電力会社側が事業を凍結した。現在も、自坊に「原子力行政を問い直す宗教者の会」の事務局を設置し、精力的に運動に取り組む。
元日の能登半島地震の発生直後から現地に入り、知り合いの僧侶らと共に、能登町中斉地区の集会所を借りて奥能登VCを設置した。「現地を訪れるメンバーが毎回同じなのが、今回の地震の特徴。支援は圧倒的に足りておらず、一人でも多くの人に現地へ足を運んでもらいたい」と呼び掛ける。
奥能登VCの稼働は6月までの予定だったが、復旧が進まない現状を受け、年内いっぱいは続ける方針だ。
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