【能登半島地震】支え合い、乗り切る 七尾「山の寺寺院群」連携
※文化時報2024年1月23日号の掲載記事です。
最大震度7を観測した1日の能登半島地震で、石川県七尾市にある山の寺寺院群=用語解説=16カ寺が大きな被害を受けた。避難所に移らざるを得ない住職・寺族が多い中、日蓮宗妙圀寺の鈴木和憲住職(44)は自坊を支援物資の集積・分配所として開放。被災した近隣住民の交流の場にもなっている。(佐々木雄嵩)
妙圀寺は京都大本山本圀寺の旧末寺で、1490(延徳2)年に開創された。美しい天井絵のある本堂は倒壊を免れたものの、墓地の竿石(さおいし)はことごとく倒れ、境内には大きな地割れができた。今も余震で地割れは広がっているという。
庫裏は屋根瓦が剝がれ、壁やガラスが砕け落ちた。生活できる状態ではなく、一家は他の寺院の檀家宅に身を寄せている。
1日夕、新年のお参りに来る檀家らへの対応が終わり、本堂でストーブの火を消している時だった。突然の激震で仏像・仏具が倒れ、小学3年の娘、沙和さん(9)の体が跳ね飛ばされそうになった。妻の淳子さん(40)は「娘を抱き押さえるのに必死だった」。鈴木住職は「火事がなかったことが奇跡。どこか1カ寺でも燃えていたら、たちまち一帯に延焼していた」とこわばった表情で話す。
地震が収まると、大津波警報が発令された。高台にある妙圀寺には、乳幼児からお年寄りまで近隣住民約30人が避難してきた。余震が続いたためストーブを焚(た)くことができず、常備していた毛布を配り、暖を取り合った。
午後10時ごろになって近くの小学校に避難所が開設されたため、住民らは移動。鈴木住職は近隣の空き巣を警戒し、自坊に残って車中泊した。
翌2日からは、日蓮宗寺院の有志たちが物資を持って来てくれた。近隣住民の手を借りて堂内を片付け、物資の保管場所を確保。4日以降は定期的に支援物資が届き始め、鈴木住職は山の寺寺院群の各寺と町内会に呼び掛けて会員制交流サイト(SNS)でグループを作った。宗派を問わず情報を共有し、物資を分け合っているという。
鈴木住職は「市中心部に物資が集中し、周辺部には行き届かない状態だった。行政による状況把握がうまくいっていないようだった」と振り返る。
ヘルメット離さない少女
山の寺寺院群の寺同士が地震発生後すぐ連携できた背景には、沙和さんの存在があった。
赤ん坊だったころから自然と周囲に人が集まるようになり、交流が増え始めた。「誰からも好かれ愛される不思議な子。彼女を通したご縁で、寺院群も結び付いた」と淳子さんは話す。
活発で笑顔の絶えない沙和さんだったが、地震が起きてからは恐怖とストレスのためか笑顔が消え、食欲もなくなった。常にヘルメットを手放せず、震災関連のニュースを怖くて見ることができない。何度も余震があり、両親のそばから離れられなくなった。
そんな沙和さんを心配し、近隣の同級生らが毎日励ましに来てくれるようになった。鈴木住職は、友達と子どもらしく振る舞える時間だけは、笑顔が戻っていることに気付いた。「他の住民たちも同じ恐怖を感じているはず。一人で抱えては心がつぶれてしまう」と考え、「みんなで集まって話そう」と呼び掛けた。
語り合えば恐怖和らぐ
誘いに応じた近隣住民らが集まるようになり、妙圀寺は交流の場にもなった。
鈴木住職は2011(平成23)年の東日本大震災で、傾聴ボランティアとして被災地に行った経験がある。「お前に何が分かるんだ」と責められることもあったが、今なら当事者として、心から寄り添うことができると考えている。
宗教者だからといって、宗教の話をする必要はない。たわいない会話を通し、その日を乗り切る元気を分け合うことが重要だという。「恐怖は話すことで和らぐ」。住民の変化は、目に見えて分かるという。
「地震前に完全には戻れない」。鈴木住職は現実を見据えた上で、決意をこう語った。
「人とのつながりに感謝し、毎日の積み重ねを大切にしたい。焦らず、一歩ずつ復興していくことで、多くの方からの支援の気持ちに応えたい」
【用語解説】山の寺寺院群
天正年間に加賀藩祖前田利家が奥能登方面から小丸山城を守ることを目的に、浄土真宗を除く各宗派の寺院29カ寺を陣地として高台に移転させたのが始まり。浄土宗、曹洞宗、日蓮宗、法華宗、真言宗の16カ寺が現存している。