【taboo持ち寄りぶんじ寮 vol.10 カラダ @ぶんじ寮 20220116 】 イベントレポ文責:Aki iwaya Yuu Kakehata
【taboo持ち寄りぶんじ寮 vol.10 カラダ @ぶんじ寮
2022年1月16日 18:30〜20:00すぎ】
るんるるん〜 あきです◎
タブー持ち寄り:カラダ。
10名程、@ぶんじ寮 食堂の畳あたりに集まって、言葉を交わしました。
ホットカーペットがあったかかった。途中で軽食の差し入れがあった。言葉遊びの冗談がちょくちょく混ざった。
これらがタブー会史上初めての状況として、まずは想起される。
だが畳のうえに置かれた内容については、率直なところ、特に印象に残っていない。
事前に、沈黙や非言語を尊重した空間にしたい、とゆうさんと考えていたのだがそうした空間にはならなかった。
事後に2時間弱、残った参加者やぶんじ寮のメンバーと話してみた。
どうしたら沈黙が認められる空間になるのか、タブーとはいったいどういう領域の事項をいうのか。もっと誘導した方がいいのか、他人の発言に期待というより依存していたのではなかったか。
これまでにも散見された、会のルールを理解していないまたは遵守していない発言に対して、注意喚起の介入をした方がいいのではないか。
あるいは「カラダ」という言葉に対するイメージや定義に幅がありすぎて、深さより浅く広い展開が導かれたのではないか。
とはいえ、個人的には、誘導することは好まず、誘導したい方向があるわけでもない。望まない人と望まない話題について話すようなことは決してしないつもりだが、それ以外の場合であれば大抵、新たな視角や深度に導かれるものだと思っている。人間が二人以上、そこに居さえすれば。
とすれば焦点を当てるべきは、「人間」として振る舞うための場の条件ではないだろうか。
人間=社会化に過度に侵されていない存在としての。感情の通り過ぎる器としての。
感情の奴隷になることこそ許さないが、感情の痕跡を留めた器であることを認めた存在として。
私=感情ではない。私が、今回カラダについて持ち寄りたかったタブーは、カラダとは所有できないものではないか?という根本的な疑問ーなぜなら、「私」とは他者との関係によってその都度生成される、分人的な機能にすぎず、であるならその私が継続的に所有できるものなど何もないから。
全く同じメカニズムがカラダにもあてはまるーカラダを物理的な事象に限定するなら、動的均衡よろしくカラダを構成する細胞は常に入れ替わっており、3ヶ月で内容物としては更新されている。死んで生まれなおしての循環を有限の範囲で反復しているだけのこと。
こうしてカラダも私も常にプロセスであるしかない存在だとしたなら、流動の途上にあるものであるなら、その性質を受け入れた場というものが要請されてしかるべきだろう。
不確実性を受け入れること。
そのために、聴くことと話すこと、インプットとアウトプットを尊重しながら峻別すること。食べながら排泄することは難しいから。咀嚼の途中で排泄を始めれば、論理と感情がランダムな割合でミックスされてしまう。
沈黙こそは消化の音。
その音が聞こえない場は、不自然で不健康だと思っていい。
消化のための材料を持ち寄ること、持ち寄られたものをまずは口に運んでみること、そのうえでそれぞれの流儀で排泄すること。
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ぶんじ寮住人のゆうです。
「カラダ」をテーマにtaboo持ち寄りをしたい、と開催に至り、今回はAkiさんと私含め9人が集まりました。今回のこの文章は、tabooの内容を記録するというよりかは、この会やtabooシリーズについて、残しておきたいです。
参加者は「カラダ」について様々な観察眼をもっているようでしたが、tabooな内容に触れることはあれど特に深まることなく、挙がったとしても途切れることがあり、一人のもちよりを置いたもののいつの間にか支援してしまうという行為によって紛れることもあり、個人的に印象的な内容はあまり残っていなかった、人が関わる場として開けた会になった気がします。
それがいいかそうでないかではないけれど、tabooのシリーズとしてはおもしろみに欠けていたようにも思います。
その理由に、ファシリテートする側の自分が受け身になっていたことと、そもそも自発的にカラダのtabooを提示していなかったことがまず反省点として挙がります。テーマ設定も抽象的だった気もするし、tabooへの導きが誘導的なのはいかがなものかと思うけども、 tabooを「もちよる」シリーズなのだからやはり必要で、能動的にその場をもたねばと観じました。
そして、そもそもの設定を振り返ると「雑談」を促すような環境だった気がします。
「カラダ」をテーマにしたのは、自分のカラダや人のカラダについて興味があるからです。「カラダ」というテーマを通して集まった人のカラダが、どうこの場に関わっているかを観たいという想いも強かったです。
例えばカラダやダンスを生業にしている人で言葉におこすのが苦手なのか、何かを伝える時に指示語や擬音語が多く、一生懸命身振り手振りをしてしまい、側から見ると何を言っているのか通じないようなことも、共に時を過ごす人や作品をつくる仲間には伝わってしまうことがあります。
tabooシリーズはきっと言葉優位になりやすいと想定して、言葉にして伝える場ではあるけど、例に挙げたような言葉じゃないような言葉も観ることもしたい、と会場設定をしてしまいました。
その時動くカラダや生まれた沈黙、空間での人との距離感、座る高さのレベルや、マスクをつける外すことさえも、人が関わる上で言葉のような意味を成していると主観的に観ていたから、カラダが動いていてもいいし、言葉足らずでもいいし、沈黙があってもいいし、メモを読み上げるでもよくて、雰囲気や空気感も、言葉じゃないような言葉を聴きたいというか観たいという環境に設定してしまいました。
結果、自由故に言葉や沈黙を遮ってしまったり、傾聴が為されずシリアスなこともまるくおさまってしまったり、tabooの観たいところに蓋がされてしまったようでした。
多くの人が興味をもって集まったことにありがたい気持ちもあり、一方でこちらの設定がtabooもちよりにしては不十分だったとあり、申し訳ない気持ちがありますが、経験なしには気づけなかったので、ありがたく必要なことと受け止めて、次に繋げていきたいです。
「カラダ」の観察眼から見えた参加者の傾向として、知らずに植え付けられてしまっているカラダへの知覚と、自身の気づきによるカラダへの知覚。無意識下の反射的カラダの反応と感情や思考の別。そもそもカラダって存在しうるのか、、のような内容が挙がりました。
次回は2月12日午後にtabooもちよりが開催予定です。
今回の反省を受けて、こちらの提示の仕方を変えたり、人数制限などあるかと思いますので、今後もこのシリーズを観て欲しいと思います。