見出し画像

【taboo持ち寄りぶんじ寮 vol.6 地域 @ぶんじ寮 20210828 】 イベントレポ文責:Aki Iwaya Kentaro Ogawa Masamasa

『taboo持ち寄りぶんじ寮 vol.6:地域』
日時:2021年8月28日 13:00-14:30

あきです。

タブー持ち寄り=地域、とは何か?

今回は、オープンダイアログの要素を活用した対話の場となった。

4人が車座に座る。その周りを自由に外から囲む。言葉を発語できるのは、車座の4人。周囲は耳になる。好きなタイミングで中から抜け、外から中に入り、それらがそれぞれの間合いに任されて繰り返される。

1人称で地域を語ってみてわかったのは、「地域」という言葉に込められたある種の理想像の存在。

昔の村落共同体を思わせるそれを、復古することへの甘やかな憧憬。
つまりは、現在に目を向けていないということだった。

近隣やぶんじ寮内部の他者に対する、面倒なコミュニケーションコストを払う気のない瞬間が積み重なって地域は色を失っていくということ。

あるいは、「地域」は存在していないと言った方が正確だろう。
地域は、正確に言うなら地域社会の短縮形であり、個人の集まりである。
両者の中間にあるどこかを指して地域と名付けたせいで、実態を伴わない言葉となったのだった。

ある参加者は、コミュニケーションコストを払うことを指して、覚悟という言葉を使った。コミット、といった者もあった。

そして私は、インドネシアでの経験から、地域など無いのだと言った。
この言葉が存在し、意味を了解できないまま流通していること自体が、何か根本的におかしいのだ、と。
中身の空っぽな弾丸が、自分の頭の上をかすめて飛び交っている。
なにかのはずみに脳髄を打ち抜かれたら最後、意識のないゾンビとなった私は、私を手離し、生きてもおらず、死んでもいない何かとなる。
強いて言えば、言葉にプログラミングされて自動的に人間のように動き続ける、有限のからくり人形だろうか。

地域という言葉を、かつて人間たちが生きていた世界から切り出したおかげで、代わりに消え去ったものを思う。

思うことの、その実感を静かに感じてみる。
その静けさを他の言葉に置き換える必要はない。
感じる先に私が仄かに浮かぶ。
その私を私は信頼する。
周囲にはその私を見守る私が座っている。
見守りながら、見守られる私も座っていることが感じられる。
必ずしも言葉を交わす必要はないのかも知れない。
私と私の間に、時間が経っているということがこれ以上なくリアルに感じられる。


画像2

Kentaro Ogawa です。

テーマは地域、とまず初めに聞いたとき、自分は今までおよそ地域というものを意識せずに生きてきたことに気付いた。家庭が幼少期より転勤続きであったため、一か所に腰を落ち着けて生活するといったことをしたことはなく、自ずと隣人や町内との触れ合いも必要最低限の状態で暮らしてきたように思う。自分と地域には接点がない。故に周りの意見を足掛かりに地域とは何か考え直そうという思いで参加した。

地域、という掴みどころのないワードの中に、タブーがあるかもしれないとの主催者の言葉で会はスタートした。案の定、地域という言葉が何を意味するのか、発言者ごとにまちまちであり、自分はまずこの規定を行わない限り、議論は前に進まないと感じた。そこで自分が規定した地域の定義は次の通りである。

地域とは、個の成長の上で、親、家庭の次に対立してくる存在

昔は地域にいる赤の他人に叱られて育ったし、親もそのことに感謝していた、という文を見たことがあるが、これはこの規定に基づけば至極まっとうな流れに思える。地域とは、町や村のような物理的存在だけを示すのではなく、人びとの繋がりや関係性を内包する言葉であったのだ。地域という言葉には漠然としたイメージが先行していたが、繋がりという言葉に置き換えてみると、自分が今まで考えてきた、如何に善く生きるかというテーマとダイレクトにリンクした感覚があった。

次に、赤の他人に叱られるような地域性が何故今の社会から奪われてしまったのかを考えた。自分はその理由の一つが「地域が個人ー家庭の延長線上に存在せず、地域という存在が信頼に値する存在でなくなったため」ではないかと思う。信頼とは自分を形成する一部として感じられたものに対して寄せる感情であり、その点が期待と決定的に異なる。いみじくもこの内容は先日作家である田中真知さんから伺った内容と合致した。昔とは異なり、現代社会では容易に長距離移動やネットワークによる通信が行えるようになっている。このような技術は利便性と引き換えに人と人との物理的な距離と、精神的な距離のあり方のバランスを損ねたのだろう。人が他者を信頼する機会は奪われつつあるように思う。

それではこの状況下で信頼はどのように醸成されるべきなのか。すでに述べているような内容だが、今ここに改めるなら
隣人に興味を持ち、時間を共有すること
これに尽きるように思う。

まとめると、重要なのは地域というものの「実感」であり、お金の支援や物品の支援だけでなく、隣人との信頼の醸成も並行して重視するべきというのが地域のありかたではないかと思う。今回の会合で、自己の延長線上に存在する地域を実感として理解することができ、自分の小さな殻を一回り押し広げることができたように思う。

スクリーンショット 2021-08-21 12.08.02

最後はMasamasaです。

読んでくれた皆さん、長らくお疲れさまでした。僕はここまで読んで疲れました(笑)ので、上がったトピックや会の後に盛り上がった話から少しだけ抜粋、そこに自分の意見を…というカタチをとります。

信頼は難しくなり、期待だらけになってしまってない?

こちらの本がおすすめですね。
安心とか信用とか信頼とか考えてみない?

日本は経済含め、高齢社会など大きな不安を感じている。これまでの集団主義的な「安心社会」の解体を、新しい環境への適応戦略としての社会性知性の展開と、開かれた信頼社会の構築をめざす「日本文化論」である。

・コミュニケーションはなんのため? リレーションを築くため。

・地域という言葉がある時点でおかしくない?

・面倒と感じることはサービス、つまりお金で解消、お金以外のものさしを失いつつある。僕が感じていることだが、自分の双肩に面倒なことが乗っかることに嫌悪があるように見える。お互い様は失われ、「金払ってんだから、やれや!」というような横柄さや傲慢さが垣間見える。

最後に質問でございます。

「あなたはどんな関係性が心地よかったですか?嬉しかったですか?」

このエピソードの積み重ねが必要なのだろうと、私は思っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?