奈良時代に思いをよせて
駅前の銀行で、なにも残っていない残高確認をして、ひたすら歩く。国分寺跡の広い公園は、野生の芝生のような草が全面に生えているが、芝生は、短く手入れされているので、座っていても心地よい。
そこで妻と私は、百均で買ったビニールシートを敷いて休む。
「だれ一人いない、我が庭だわね」
「この景色も、この青空もだ」
その通りだった。
「奈良時代中頃の人達と同じ風景を見ているのね。」
「どんな格好していたのかね。」
気になったので、後でネットで調べたら、大変な事が起こっていた。
『天平13(741)年の聖武天皇の詔により相模国分寺は、8世紀中頃には創建されていたと考えられます。』(海老名市市役所より)
奈良時代は、みんな幸せな生活だと思っていたが、一部の特権階級は、贅を尽くしていたが、一般庶民は、服に使用される素材も、貴族が絹や高級な素材を利用したのに対して、庶民は麻を中心とした天然素材が使われた。
一般庶民の服装には、使用できる色が黄色と決められ、賎民など身分の低いものは黒と限定されていて、衣服令で襟を右前から合わせるような着方だった。(nara-jidai.com)
聞き慣れない賤民(せんみん)とは、通常の民衆よりも下位に置かれた身分またはその者を指した。
今でこそ、黒は、トレンドカラーにもなる都会的なカラーなのに、当事は、着ている色で差別されていた。これに近い身分制度は、江戸時代まで続いた。
細い路地を抜けて、相模鉄道の踏切までたどり着いた。クリエイトの裏を通り、尼寺跡に着く。尼寺というの女性だけの館だ。
中央に金堂を配し、講堂・中門・回路で囲む一般的な「国分寺式」と呼ばれる建物があったそうだ。今は、空き地として残っているので、ゲートボールやグランドゴルフ、町内会の祭りに広場が使われている。
広場を抜けて、小田急線に沿った側道を歩いて生協に買い物に行った。途中、田岡顕彰がレジ袋を提げて歩いてきた。田岡は、小中高の同級生だ。察するに、女房が働いているので、メモを頼りに買い物に来たようだ。
高齢者と言っても、学校の先生をやっていたので、リタイアしても、地域活動、農業委員などで、百姓をしながら、楽しんでいる。老人特有の悲惨さはない。
生協の横に薬スーパーのハツクドラッグがある。イオンの系列なので、発泡酒やウイスキー、袋麺などトップバリュー製が格安なので、買っていく。生協では、主に野菜や肉類など食料品を買う。
「チラシ広告に5%引きがあったの」
と財布からおもむろにチラシの切り抜きを出した。
何事もなく、リュックに詰めて、戦時中の買い出しのように背中に背負って、家路に着く。
クルマもねぇ、妻も息子もスマホがねぇ、お金もねぇ、オラこんな生活やだ。と言わない二人。
こんな生活が幸せに感ずる。
「いつまでも、いつまでも、戦争のない国でありますように」と真顔で祈ってしまう。
『英ジョージ王子、アッテンボロー氏から化石のプレゼント』とらAPFが報じた。
我々も、奈良時代の人達と目には見えないが、交流した。古の世界と共に生きている幸せがある。