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春琴抄と検校


日本の文学という中央公社から出た文学全集の中に谷崎潤一郎があった。聡は、その本を読み返している。『春琴抄』の触りの部分に「門人」温井検校と事実上の夫婦生活を営んでいたとあった。検校をどこかで聞いたことがあると聡は、思った。


「検校(けんぎょう)は、江戸時代の盲官(盲人の役職)の最高位の名称を言うんだ。また、盲官では、位階順に「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭(ざとう)」があった」と聡の義父である山上卯吉が教えてくれた。
「勝新太郎の座頭市は、一番くらいが低いから、侠客になったんですね。確かに盲目だった」と聡。義父の話で、江戸時代の暮らしが見えて来たように感じた。

山上家の先祖に米山検校がいた。だから、盲人について詳しい。

新潟の寒村に生まれた卯吉は、尋常小学校を出ると、満州に通信設備の会社に就職して、モールス信号の技術を学んだそうだ。

誰よりも努力をして、学力優秀な彼は、凄まじい勢いで学んだ。終戦を迎えて、一緒に居た同僚達と日本は全滅だから、どこかに行こうと覚悟を決め、満漢全席(まんかんぜんせき)を食べようと食べに行った。よくも敗戦国の日本人が食べられたと思うのだが、それは若者達の多少の無茶に目をつぶる大人達のお陰で、食べた。

結果、ロシア軍に捕まって、ロシアに抑留されてしまったが、通信の特殊技術のお陰で、重労働を免がれて、優遇された。

三年くらい抑留されて、帰国が許された。ところが、帰国したはいいが、すぐに新潟に帰ることを許されないで、福井で三ヶ月ほど、足止めを食らう。コロナのように、空腹で急に食べて死んだ人が多かったので、施設に送り込まれた。

卯吉は、子ども達に、満州にいた頃の話を物語のように聞かせたそうだ。子ども達は、寝床でその話を聞きながら寝た。

確かに、聡がネットだで調べたら、ウィキペディアに『米山検校は、江戸時代の視覚障害者、鍼医、篤志家、大名貸、幕臣。貧農に生まれた視覚障害者であったが、鍼にて財をなして出世した。幕末の剣聖と呼ばれた男谷信友は孫、勝海舟は曽孫に当たる。出生時の姓は山上。』と記されていた。

驚いたのは、視覚障害者に限り金貸し業を許可した幕府の政策であった。身障者を手厚く保護する制作は、いまと大違いだ。しかも、仕事が出来る環境を作った事に驚く。

「徳川の水戸藩に膨大な金を貸していたらしい。なによりも、按摩は、相手が素直に話すので、機密や秘密が聞くことが出来たのも大きい。ある年、新潟で飢饉が起こったそうだ。その災害で、莫大な金を差し出した事が、後世に伝わって、米山検校の名を残したそうだ」と卯吉は、自慢げに聡に話した。

ところで、『春琴抄』の話は面白いので、かいつまんで話すと、聡は妻の茉里に本の内容を教えた。

春琴が9歳の時に不幸にも眼病を患い視力を失ってしまい、舞踏家としての夢は諦め、三味線の演奏家として生きて行く。温井佐助という春琴よりも4歳年上の男が、春琴の実家で丁稚奉公に励んでゆくゆくは商人となるはずだつたが、佐助は春琴に心惹かれていき彼女と同じく三味線奏者を目指すことになる。

佐助は自らの両目に縫い針を突き刺してしまう。ふたりは共に光を失った三味線奏者として、弟子のてるに傅かれながら天寿を全うしたという話。温井佐助が、盲人となってしまったので、温井検校と呼ばれることになる。

「悲しい話したらに見えるが、結婚することなく一生を終えた二人だが、愛情は我々の想像を超えていたように思う」と聡は、感動をダイレクトに茉里に伝えた。

「こんなに熱く、視覚を失ったからこそ、見える世界にがあるのかもしれない」と茉里は、感想を語った。

「どうやら、山上家の山に、勝手に米山検校の碑が祀られているらしい。それほど多くの人たちに今でも愛されている」と嘆くわけでなく、むしろ喜んで、米山検校を誇りに思っていた卯吉は、バイクに交差点的引かれ即死した。悲運な人生だったが、歴史好きな卯吉は、勝海舟よりも「邪馬台国(やまたいこく )」と「卑弥呼(ひみこ)」の時代の謎をこよなく愛した。

聡もなんらかの関わりが有るが、新潟と聞いただけで、身を引来たくなってしまう。

だって、地震がこわい。雪がこわい。歴史上の人物がこわい。それじゃあダメじゃん。

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