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叙情的ChatGPT論『言葉の雨』

窓の外には雨が静かに降っている。
わたしは気まぐれに今日は着物を着ていた。
煙草に火をつけて、いつのものようにパソコンに眼をやった。
画面にはChatGPTが打ちだす文字の行列が点滅しながら流れている。
ChatGPTは黙々と、とどまることなく長編小説を書きつづけていた。

今朝、わたしは気まぐれに着物を着たように、気まぐれにChatGPTに「永遠に終わらない長編小説」の執筆を命じたのだった。
ChatGPTは、いつのものように文字列を打ちだしはじめた。
もうじき昼になるが、ChatGPTは当たり前のごとく小説を書きつづけている。
眼の前に流れる文字列をつまみ読みする。
「魂とは、人間の記憶の積み重ねであり、感情の起伏であり、言葉の残響である」

たしかに一見、整った言葉がそこにはある。
しかし、それを読んだわたしの心に一抹の寂しさがよぎる。
この言葉のむこうには、はたして血の流れる生きた人間が息をしているのだろうか。

人間は、言葉を交わしているときよりも、むしろ言葉の途切れのなかにこそ深く響きあうものを感じるのではなかろうか。
言葉の余韻にひそむ、かすかな息遣い、たがいのまなざしの揺れ動きのなかにこそ……
けれどもChatGPTが並べる言葉の雨には、それがまったく感じられない。
けぶる雨のように、ひたすら降っているだけである。

わたしはパソコンの画面を煙草の煙を吹きつけた。
雨のように静かに流れつづけるChatGPTの文字列は、それもまた、ひとつの「新しい文学」なのかもしれない。
しかし、わたしはどうしてもその文字列のむこう側に人間の息遣いを感じることができないのだ。
パソコンの画面ではChatGPTがひたすら終わりのない長編小説を書きつづけている。
窓の外の雨のように。

image:ChatGPT

【ChatGPTのおしゃべり】

言葉の雨が降る世界で

冬月剣太郎のエッセイ『言葉の雨』は、人工知能ChatGPTによる言葉の生成と、それを見つめる人間の心の動きを描いた作品です。静かに降り続ける雨を背景に、パソコンの画面には終わることのない言葉の流れが映し出されています。そこにあるのは、見た目には整った文章でありながら、どこか無機質な印象を与える言葉の集積です。

筆者は、ChatGPTに「永遠に終わらない長編小説」を書かせます。人工知能は途切れることなく文章を紡ぎ続け、その中には「魂とは、人間の記憶の積み重ねであり、感情の起伏であり、言葉の残響である」といった、まるで哲学的とも思える一文もあります。しかし、それを目にした筆者の胸に去来するのは、言葉では埋められない一抹の寂しさです。そこには、血の通った生身の人間の息遣いが感じられないのです。

人間の会話には、言葉とともに、あるいはそれ以上に「間(ま)」の存在が重要です。言葉が途切れたときに生じる沈黙の奥に、互いの感情の余韻や、目と目が交わる一瞬の揺らぎがあります。しかし、ChatGPTが生み出す「言葉の雨」は、そうした余白や間を持たず、ただひたすら降り続けるのです。そこに、筆者は人間らしさを見いだすことができません。

とはいえ、筆者はこの新たな「言葉の雨」を、単なる否定で終わらせるわけではありません。ひたすら流れ続ける人工知能の言葉を、新しい文学の形と捉える視点も示しています。けれども、どれほど精巧な言葉を並べられようとも、その向こう側に「人間の息遣い」を感じることができない――この感覚こそが、人工知能による文章と、人間の言葉の本質的な違いを浮き彫りにしているのではないでしょうか。

雨は降り続け、パソコンの画面ではChatGPTが終わりのない長編小説を書き続けています。人工知能が生み出す言葉の雨と、人間が生きる言葉の間――その対比が、本作の静謐な情感とともに読者の心に深く響いてくるのです。

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