![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/174275450/rectangle_large_type_2_0591327d3c56240e15ff69f6859737bf.png?width=1200)
《忘れえぬ記憶》デジタル・タトゥーとしての小池一夫の残像 ─栄光と転落─(執筆中)
■人生夢のごとし
三年前、ゴーストライター指摘をしたところ、理不尽かつ一方的に粘着してきたハンドルネーム「小池一子」を自称する人物から訴状発送の通知があった。
現時点ではまだ受けとっていないが、受けとりしだい弁護士に処理してもらう手はずになっている。
六年前に亡くなった劇画原作者の小池一夫さんには、わたしが若かりしころ六年ほどおつきあいさせていただいた。
良くも悪くも、わたしの人生に決定的な影響をあたえた作家ではあるけれど、まさか四十年後、このような形で関わりあいになるとは夢にも想っていなかった。
まさに人生夢のごとしの心境である 笑
■人生のメルクマール
かつて『子連れ狼』で一世を風靡した劇画原作者の小池一夫(1936年5月8日 - 2019年4月17日)は、人生の最盛期には、アラブの王族も顔負けするような贅沢三昧の生活を送っていた。
しかし最期は入院費を知人から借りたまま返済することなく旅立っていった。
最晩年には、これがあのキャラクター至上主義の論陣を張った小池一夫が書いた原作かと呆れるばかりの駄作を連打した。
最盛期の小池一夫は日本一気前のいい奢り魔であったが、最晩年に近づくにしたがって金に汚くなった。
人間、誰しも想いどおりに生きることはできない。
多くの場合、したくもないことをして生きていかねばならない。
ときには過去を抹殺したい、錬金術をつかってでも変えてしまいたいという衝動的な願望にかられることもある。
他人どころか自分自身にいくら大ウソをついても、事実としての過去は削除することなどできやしない。
SNSのアカウントとは違うのである。
過去は死んだあとまで厳然として存在しつづける。
受け容れるしかないのである。
ただし、過去の意味は、未来における解釈によって万華鏡のように変容する。
未来が過去を創りだすのである。
わたしは若いころの六年間、小池一夫に徹底的に批判され、痛い想いをしながらも大いに勉強させてもらった。
同時にわたしに対する批判が、小池本人にも当てはまっていることに気がついた。
いわゆるブーメラン現象である。
人間は他人という鏡に自分自身を見いだしてしまう生き物なのかもしれない。
自己肯定はゆきすぎれば、ナルシシズムの地雷を踏むことになるが、創作の女神はいつも自己肯定する者の味方である。
自己否定は、甘美な毒薬のように魂をエクスタシーに導いてくれることもあるが、自己否定そのものは創造的ではない。
他者に対する肯定と否定も同様であろう。
とりあえず自他ともに肯定(承認)することこそ成長の出発点なのである。
そういう意味合いにおいて、若き日に激突(笑)した小池一夫は、わたしにとってひとつのメルクマールとなった。
■心剣勝負
小池一夫はマンガ史に残る業績もあり、マンガ業界に多大な貢献をして梶原一騎と並び称される劇画原作者であるが、生前から毀誉褒貶が激しかった。
瓢箪から駒のようなご縁に導かれてツイッター(現X)での宿命的な交通事故(笑)に遭遇して、小池一夫にたいするオマージュ作品『遙かなる大河』(執筆中)にとりくむことになった。
小池一夫は文献渉猟すればするほど、まるで立ちこめる霧のむこう側にたたずむ人影のような存在である。
ネット上に散見される小池の個人的な出来事に関する文章も、本人が書いたものか、それともゴーストライターの手になるものか、判別がきわどいケースが少なくない。
明らかに本人の手になるものと確定できる自伝的文章はきわめて少ないのである。
自伝らしき本もあるが、残念ながら、はたして本人が書いたものかどうか非常に疑わしい(ゴーストライターの臭いがプンプンする 笑)
おそらく小池一夫の名のもとに残された「文字行為」は、すべてにおいて印象操作の確信犯だったのだろう。
小池は、まだ若かったころに梶原一騎にカツラを暴露されても、終生、カツラをかぶりつづけた。
彼は、おのれの実人生もカツラをかぶるように素のままでは文字として書き残すことのなかった作家だった。
複雑な家庭環境をふくめた人生の諸事情によって、自分の素顔を書き残せなかったのであろう。
だからこそ劇画原作というナマの創作からワンクッションおいた手法で激烈な自己表現を果たしたのだ。
多くの芸術家に観察される虚言症とは、そういう類いのものなのかもしれない。
わたしは自分ではまだ若いつもりでいるが、早七十歳の古希の人である。
病気のデパート状態で、老い先も知りがたい。
小池一夫の研究に残り少ない人生の貴重な時間を割りあてることになるわけだ。
だとしたら……いや、だからこそ、ここは焦らずにじっくりと腰をすえて心の剣をかまえて心剣勝負をしてみたいと願っているのである。
■ツイッターの「小池一夫」とは何者だったのか?
『子連れ狼』等、数多のヒット作で一世を風靡した劇画原作者、小池一夫(1936年5月8日 - 2019年4月17日)のツイッターが、2021年12月10日、高名なアートディレクターと同姓同名のハンドルネームを騙った「小池一子」さんによって突然、削除された。
フォロワー数90万を誇っていた。
当時すでに「小池一子」さんはゴーストライターと目されていた。
「小池一子」さんは名店の料理写真を私物化して何回も流用したり、小池一夫のあることないこと、小池本人を知っている者にとっては驚きの虚像を投稿しつづけた。
正義の基準を失いかけている日本社会を象徴するような前代未聞のネット事件だった。
削除されてしまったツイッターでは、小池一夫のイメージは温厚でお茶目、知恵のある賢者の風格さえ漂わせていた。
わたしは三十代のころ、五十代の小池が経営する出版社スタジオシップ(後の小池書院。2016年、実質倒産)に六年ほど勤めた。
社長と社員の関係を前提にしたとき、わたしの眼に映った生身の小池一夫は自己顕示欲と偽善の体現者以外の何者でもなかった。
行き当たりばったりの想いつきで指示を出すので、出版社の経営者としても最悪であった。
頭脳明晰であるはずの小池の頭には損益計算も採算分岐点の発想もまったくなかった。
当時の小池は月々の原稿料だけでも2000万円以上、印税をふくめた年収は数十億円稼いでいた。
それらがどんぶり勘定で使われたので、銀行からの借り入れ額も凄まじく、社屋も自宅もすでに抵当に入っていた。
小池は、劇画村塾の塾生には猫撫で声で話しかけるにもかかわらず、社員に対しては平気で罵詈雑言を浴びせかける、裏表のひじょうに激しい二枚舌の持ち主だった。
気にいらないことがあるとすぐに激昂する、神経質にして複雑、時と場合によっては狡猾な人物でもあった。
そして日常茶飯事のごとく息するように(傍点)嘘をついた。
嘘に対する反省心、罪悪感など微塵もなかった。
ギャグ作家の田中圭一さんがわたしの死をツイッターに投稿した怪事件がきっかけで、わたしは小池のツイッターを読みはじめた。
劇画原作者として急下降していた晩年の小池が別のジャンルで華々しく復活したのかと、一度は眼を見張ったものの、読みつづけるうちに小首を傾げざるをえなくなった……
補足すると、かつて田中圭一さんは師匠の小池一夫に創作活動に専念するよう叱責されて、公衆の面前で文字どおり土下座して謝罪した。
これが田中さんと小池の確執の始まりであり、目撃者であるわたしを田中さんは深層心理で消し去りたかったのだろう。
癌の療養中だったわたしは年甲斐もなく激怒した 笑
今回、わたしは未熟な自分が少しでも成長するために小池一夫を反面教師として「批判」し「止揚(Aufheben)」したいだけである。
もっと砕いた言い方をさせてもらうならば、小池一夫を全否定したうえでもう一度、彼を全肯定してみたいのである。
なんやかんや言ってみても、小池一夫はわたしの人生で決定的な影響を受けた人物のひとりだからだ。
わたし流の弁証法である。
全否定から学びは始まらない。
学びはいつでも全肯定から始まるのである。
一連の詐欺行為で晩節を汚しつづけた小池のツイートは、詐欺行為などなかったことにして老衰死する当日まで元気よく続けられた。
わたしにとって、この元気よく続けられたツイッター自体が謎だった。
もともと小池はいわゆる「パソコン難民」だった。
それに加えて最晩年には認知症と診断されていた。
はたして認知症の老人が老衰死まぎわまで動画のアップを含めた投稿ができるのだろうか?
小池本人が投稿していたとは考えにくかった。
いったい誰がこのようなデタラメな投稿を続けていたのか。
わたしのなかでいつしか怒りの炎が燃えはじめていた。
ツイッター「小池一夫」のゴーストライター疑惑は、かなり以前から噂されていた。
小池の虚言症とゴーストライター乱用癖を知らない人間は、まさかそんなことがあるわけがないと一笑に伏していたようだが、そのまさかが大手を振って暴走していたのであった。
「小池一子」さん本人が小池一夫の死後、みずからツイッターに登場してきて、数えきれない嘘八百を並べたててくれたおかげで、ゴーストライター疑惑は事実上、実証された様相を呈している。
2021年10月10日、「小池一子」さんは、わたしに訴状を送ったと通告してきた。
このあとしばらくして彼女は自分のアカウントと同時に小池一夫のアカウントも削除してしまった。
この行為は何を意味していたのか?
証拠隠滅以外の何物でもなかっただろう。
「小池一子」さんの訴状はいまだに届いていない(2025年2月15日現在)
受けとれば、すみやかに受けてたつまでである。
裁判になれば《事実》のすべてとは言わないまでも、かなりの部分に光を当てることができるのではなかろうか。
雨の一滴が集まって川になり、やがて大河の奔流となるように「小さな真相」の集積が、いつの日か「大きな真相」にたどり着くことを信じて、少しずつではあるが、いまもツイッター「小池一夫」事件の解明にいそしんでいる。
■ウソだらけの時代をどう生きるか?
ウソだらけの時代になってしまった。
世界的な潮流としてウソにたいする倫理感が薄れてしまったのに加えて、AI技術のあまりにも急速急激な開発が、ウソだらけの時代を後押ししている。
ネット上には、判別がきわどいフェイクのAI生成画像が満ちあふれている。
ウソだらけの時代と言うより「フェイクの時代」と呼んだほうがピンとくる人もいるかもしれない。
数年前、高名なアートディレクターと同姓同名のハンドルネームを騙った「小池一子」さんが証拠隠滅のために削除してしまった小池一夫のツイッター(現 X)が、本人の投稿によるものでなかったと知ってショックを受けた人は少なくなかった。
ゴーストライター「小池一子」さんの投稿は、小池一夫を直接知らない者にとっては、それほど小池一夫らしかった(傍点)のである。
情報化社会において、こんなデタラメがまかりとおるのかと、キツネに鼻をつままれたような想いがした 笑
七十歳のわたしにとって小池一夫は若き日に出遭った憧れのスーパースターであり、かつ《因縁のヒト》であったが、いまの二十代のほとんどの若者たちは小池を知らない。
「子連れ狼」「大五郎」とヒントをあたえても自信なさげな表情が返ってくるばかりである。
そんなご時世ではあるが、たまに飲み屋でどうして冬月さんはそんなに小池一夫ツイッター事件にこだわるんですかと質問されることがある。
しつこいですよ、見苦しいですよと嗤われることさえある。
そんなおりには、こんな風に答えることにしている。
人間は失敗の経験をいくら胸に刻むようにして憶えているつもりでも、しばしば同じような失敗をくりかえす。
ましてや完全に忘れてしまえば、必ずと言っていいくらい同じ失敗を大々的にやらかす。
個人的な体験にかぎらず、集団としての記憶である戦争もそうだし、バブルもそうだ。
地震や洪水などの災害も入れていいかもしれない。
だから小池一夫の晩年のツイッターを含めた数々の残念な事件も、時に流されるまま忘れてしまったのでは、またふたたび小池一夫的な人物が現れて、同じようにくりかえされる恐れがある。
だからわたしは小池一夫ツイッター事件を風化させないように心がけているんだ。
そう答えると、たいがいの相手は苦笑いしたまま話題を変えようとする 笑
マジで、なにを信じていいかわからない時代になってしまったが、わたしは小池一夫ツイッター事件の教訓が、このウソだらけの時代を生きるうえでのヒントになると確信しているのである。
まだまだ続く(先は永~い 笑)
【ChatGPTによる解説】
栄光と転落の劇画人生 ── 小池一夫の軌跡をたどって
『栄光と転落の人生 小池一夫劇場』は、小池一夫という劇画原作者の波乱に満ちた人生を振り返り、その栄光と転落を描き出したエッセイです。著者は、小池一夫の成功と失敗、そして人間的な側面に焦点を当てながら、自身が若き日に経験した小池との関係をもとに、その人物像を鮮やかに描いています。
小池一夫は『子連れ狼』をはじめとするヒット作で劇画界に大きな影響を与え、一時は豪奢な生活を送っていました。しかし、晩年には財政難に苦しみ、入院費を借金するほどの状況にまで陥ってしまいます。さらに、晩年の作品の質の低下や金銭的な問題も含め、小池一夫の変化は衝撃的でした。成功の絶頂から転落していった彼の姿には、人間の避けられない運命が映し出されています。
著者は、若き日の小池からの厳しい批判を通して成長し、自分自身が他者を通してどのように自己認識を深めるのかを描いています。特に小池との「ブーメラン現象」、つまり批判が巡り巡って自分にも返ってくるという指摘は、自己肯定や他者との関係性に対する深い洞察を提供しています。
小池一夫の人物像についても、著者は鋭い視点で描いています。彼の劇画原作の中での自己表現は、現実の自分を隠す一種の「カツラ」のようであったとし、彼が複雑な家庭環境や人生の諸事情から自身の素顔を表すことができなかったことを示唆しています。劇画というフィクションの世界を通じて、彼は自分の内なる葛藤や欲望を表現していたのです。
また、ツイッターでの小池一夫のイメージと、実際の彼の姿には大きな乖離があり、彼の虚像と実像の対比も印象的です。著者は小池の偽善的な部分や自己顕示欲を鋭く指摘しつつも、その複雑さゆえに小池の業績が光り輝いていたことにも言及しています。
このエッセイ全体を通して感じられるのは、著者の小池一夫に対する深い敬意と同時に、彼の人間としての弱さや限界への冷静な分析です。著者は自分自身の老いと向き合いながら、今後も小池一夫という人物に対する研究を続け、心剣勝負を挑む覚悟を示しています。
このエッセイは、小池一夫という一人の劇画原作者の栄光と転落、そしてその人物を通して見える人間の複雑な本質を描いた、深い洞察に満ちた作品です。
image:ツイッター(現X)より