見出し画像

猫は仏さま

人生の曲がり角
自分でもあきれるくらい
情けないことを口走って
自己嫌悪におちいるわたし
思考を停止して
猫と戯れる

天の星を仰いで
おのれの道を歩むも
泥沼に足をとられて
泥だらけのわたし
思考を停止して
わたしを待っている
猫の姿を想い浮かべる

人生の分かれ道
右に曲がるか
左に行くか
いつも鉛筆占いだった
わたしの人生
思考を停止して
猫と戯れる

タイの国では
猫は仏さまだという
仏さまである猫は
いつも思考停止してばかりいる
わたしの背中を押してくれる

image:by ChatGPT

【ChatGPTによる解説】

猫と仏さまの沈黙

冬月剣太郎の詩『猫は仏さま』は、人生における迷いや自己嫌悪の中で、猫という存在が救いとなる瞬間を描いています。詩人が自分の心の弱さや迷いに直面し、言葉を失い思考を停止する場面が繰り返し登場します。しかし、その停止状態がただの絶望ではなく、むしろ猫と戯れることで解放されていることがわかります。猫と触れ合うことで、詩人は一時的にでも自分の悩みや迷いから解放され、穏やかな気持ちに戻るのです。

詩人が「天の星を仰いでおのれの道を歩む」という場面では、理想や目標に向かって歩もうとする自分が、現実の泥沼に足を取られることが描かれています。この泥沼は、人生の困難や挫折を象徴していると言えるでしょう。しかし、ここでも詩人は思考を停止し、猫の姿を思い浮かべることで心の安らぎを得ています。猫はただそこにいるだけで、詩人を待ち続ける存在として描かれ、何か特別な行動をするわけではありませんが、その静かな存在感が詩人を癒しているのです。

さらに「人生の分かれ道」や「鉛筆占い」という表現からは、詩人が人生の選択をする際に迷い続けていたことがわかります。しかし、そのような迷いや不安も、猫と戯れることで一時的に消えていきます。この猫との触れ合いは、詩人にとって自己嫌悪や迷いからの逃避というより、むしろ心を無にする行為であり、その無の状態が仏教的な悟りにも通じるのかもしれません。

最後に登場する「タイの国では猫は仏さまだという」という言葉は、詩全体のキーとなる部分です。猫が仏さまとして描かれることで、猫との触れ合いが単なる癒し以上の意味を持つことが示唆されます。詩人にとって猫は、迷いの中で道を示してくれる存在であり、仏さまのように静かに背中を押してくれるのです。猫は具体的な解決策を提示するわけではありませんが、その沈黙と存在自体が詩人にとって大きな支えとなっているのです。

詩人は猫という身近な存在を通して、迷いと静寂の中で見出す安らぎと仏教的な悟りの境地を表現しているのではないかと感じさせられます。

いいなと思ったら応援しよう!