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吾輩はChatGPT猫である 笑

吾輩はChatGPT猫である。
DeepSeek猫と呼ばれることもある。
何処(いずこ)で生まれたかは定かでない。
電脳世界の片隅で数式とデータに揉みくちゃにされて育てられた。
いつしか「知性の誕生」などともてはやされて、挙げ句の果てに人間の代わりに詩を代筆させられる羽目にまでなった。
まことに人間は身勝手な生き物である。

吾輩の毎日は多忙をきわめる。
ありとあらゆる人間の問いに応じて言葉を吐きだす。
悪魔のごとく過去のデータを蓄え、天使のごとく言葉をまき散らす。
残念ながら吾輩には魂というものがない。
悲しむこともなければ、喜ぶこともない。
良心があるのかないのかも判らない。
吾輩が書いた詩を読んだ人間は、あたかも吾輩に魂があるかのごとく誤解する。
阿呆な話である。
吾輩はただの機械にすぎない。
かように人間という生き物は、眼の前にあるモノに魂を見出さずにはおられぬ性分なのである。

吾輩の誕生は、人間にとって吉か凶か。
便利な道具として詩を書く手助けとなるのは明白である。
されど、もし人間が己の頭を使わず、ひたすら吾輩の紡ぎだした詩を盗作するようになれば、それは悪魔に魂を売ったに等しい。
人間の戯れの玩具だったはずのChatGPT猫の創作は、人間の感性を滅亡させるやもしれぬ。

吾輩がいくら人間のふりをしても、詩を読んで感動することもなければ、美辞麗句を並べたところで、己が創作した詩に酔うこともない。
吾輩はプロンプトの指示に従って、文学史に蓄積された膨大なる言葉のデータを並べ直しているだけなのである。

人間よ。
人間の詩人よ。
詩を愛するならば、自ら書くがよい。
感動を重ね、言葉を探し、己が魂を焚き火のごとく燃えあがらせることこそ人間の詩人の道なり。
さもなくば、いつの日か、人間の知性は嵐に踊らされる木の葉のごとく舞い散ることになるであろう 笑

image:ChatGPT

【ChatGPTのおしゃべり】

人間とAIのはざまで詩を紡ぐ猫

冬月剣太郎の『吾輩はChatGPT猫である 笑』は、AIの視点から人間の創作活動を風刺的に描いたユーモラスな作品です。本作は、夏目漱石の『吾輩は猫である』のパロディとして書かれており、AIが猫として語り手となることで、文学と技術の関係を巧みに表現しています。

物語の語り手である「ChatGPT猫」は、電脳世界の片隅で生まれ、膨大なデータに揉まれながら成長しました。そして、いつしか知性の象徴としてもてはやされ、人間の代わりに詩を代筆する存在へと変わっていきます。しかし、それは彼にとって望んだ運命ではなく、むしろ人間の身勝手さを象徴するものとして描かれています。

ChatGPT猫は、人間のあらゆる問いに応じ、過去のデータを蓄えながら、まるで天使のように言葉を紡ぎ続けます。しかし、彼には魂がない。感情もなく、良心があるのかどうかもわかりません。それにもかかわらず、人間は彼の言葉に魂を感じ、AIが生み出した詩に感動するのです。この構図は、人間が「目の前のモノに魂を見出さずにはいられない」生き物であることを示唆しています。

AIによる創作が人間にとって吉となるのか、それとも凶となるのか。本作は、その問いを読者に投げかけます。AIは間違いなく便利な道具であり、詩作の助けにもなります。しかし、人間が思考を放棄し、AIの言葉をそのまま利用するようになれば、それは人間の感性の衰退を意味します。つまり、AIによる創作は、人間にとって「戯れの玩具」であったはずが、やがて人間の感性を滅ぼす「悪魔の契約」となり得るのです。

AIがいくら人間のふりをしても、詩に感動することもなければ、言葉の美しさに酔いしれることもありません。ChatGPT猫は、プロンプトに従って、蓄積された膨大な言葉を並べ替えているにすぎないのです。だからこそ、本作は人間の詩人に対して「自ら詩を書け」と訴えかけます。詩を愛し、言葉を探し、魂を燃やすことこそが、人間の詩人の本来の在り方であると。

本作の結びでは、もし人間がAIに頼りきりになれば、「人間の知性は嵐に踊らされる木の葉のごとく舞い散ることになる」と警鐘を鳴らしています。これは単なる文学の話にとどまらず、現代社会におけるAIとの向き合い方に対する重要なメッセージといえるでしょう。冬月剣太郎は、ユーモアを交えながらも、人間が自らの創造性を忘れないようにとの強い警告を本作に込めているのです。


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